11、北の地で

柳原 圭人 二十四歳

北海道、新千歳国際空港国内線ターミナル。


 仕事に関する指示は、あの日以来何も受けていなかった。ただシンプルに、北海道で長期間活動するという事だけ伝えられたので、僕は東京の部屋を引き払って飛んできた。キャリーケースをひとつ引き摺りながらターミナルを出ると、そこに広がっていたのは果てしない平原。山肌は遥か遠くに見え、見渡す限りの平地に細々と道路が敷かれている。


 そこでテレグラムの通知が鳴った。指示されるがままにロータリーの際まで歩いて行くと、白い艶々のワゴンが停まっていた。僕が車に手を振ると、ワゴンの丸いヘッドライトがフラッシュした。車は左ハンドルだったので、僕は道路側まで出て乗り込む必要があった。車高が高くドアは窮屈で、まるでハッチの様だった。


「イカつい車ですね」


「ベンツのGクラスだ。最近買い替えた」


「マイカー、憧れます」


「ここで少し働けば、すぐに買えるさ」


 彼はどこか得意気で、東京で話した時より砕けた感じがある。ここが彼のテリトリーだからだろうか。車は高速に入り、北広島市内にある彼の拠点へと向かっていた。それは、民間警備会社ノーナセキュリティ。道中の車内で、彼は仕事の概要を話してくれた。供給される資金を使って内通者達が複数の警備会社を運営している事、その警備業はカモフラージュであり、ロシア人の影響拡大のために情報収集を行なったり、交通統制や特定の市民に対する妨害工作を行うのが使命だった。しかし、その様なタスクが指示される事は稀で、普段はカモフラージュ組織として典型的な警備業務に従事している。この使命を理解しているのは各警備会社の経営者のみであり、一般従業員はみんな非正規雇用だという。そこで彼は、今彼が担当している会社を僕に任せる事で、内通者ネットワーク全体を統括する仕事に注力したいのだと言う。


「お前も警備員だったなら、現場や事務所の様子は分かるだろう?」


「ええ、ですが警備会社なら資格が要りますよね?」


「構わないさ。名目上の経営者は俺のままだから、普通にチーフの席に座っててくれればいい。仕事は楽だよ」


 その時は、単なる激励の言葉だと思っていた。しかし、実際に仕事を始めてみると彼の言う事は全く正しかったのだ。仕事は退屈だった。ノーナセキュリティが抱える従業員数は六十人。しかし、その内飛んだ奴が半数近く、名簿には名前だけが残っていた。さらに、まだ飛んでいない勤務者達でも当日欠勤は当たり前。実質、僕が直接関わりを持つのは十人に満たない数の警備員であり、ろくな警備指導も施されないまま、誰でもこなせる様な物件に回されていく。現場に就く従業員達の多くは中高年で、居眠りしていてもバレない様な小規模かつ人手を必要としない施設で一日を過ごし、事務所の喫煙所に立ち寄ってから帰るのが日課だった。そんな事を可能にしたのは、絶え間ない資金供給のお陰だった。給料が高い水準のまま変動しないため、怠慢に対する危機感がない。クライアントとの最低限の信頼さえ失わなければ、後はどうでも良かった。その信頼の実績さえも、架空の契約や業績で水増しされていた。


 僕は数回の現場勤務を経て以降は、事務所の机に向かう毎日を送っていた。チーフの席に着いてノートPCの画面を眺めている。画面の向こうにあるのは、エクセルで作りかけた勤務表だった。目のピントを意図的に変えながら画面を眺めていると、液晶の粒一つ一つからそれぞれの原色を取り出せそうな気がしてきた。


「ふぅ〜」


 その時、出入り口付近のデスクに向かっていた従業員が背伸びをした。彼女が背筋を伸ばしながら大きな欠伸をすると、僕も巻き込まれ貰い欠伸をした。


「お疲れか」


「疲れてはないけど、眠くなっちゃいました」


 彼女は二十代半ばのアルバイト。僕がここに来る少し前に入って来たらしい。「社長」である彼がオフィスから消えて以降、僕と彼女の二人で事務室に張り付く日々が多くの割合を占めていた。知り合ったばかりの頃は、黒い髪を後ろで括っていたが最近はそのまま背中まで垂らしている。末端ほど髪はバサついていて、ラフな感じが伝わってくる。「暇だね」と言い合うだけの会話はとうに飽きていた。僕は彼女を喫煙ブースに誘った。


「これ、美味しいです。初めて吸いました!」


「手巻きの煙草だよ。だからオレのオリジナル」


「ええ〜ヤバい人だあ。自分でタバコ作ってる人なんて初めて見ましたよ。でも、本当においしい」


 彼女は一息吸い込むと、一重瞼を閉じて安堵の表情を浮かべていた。緊張がゆっくりと肩から胸の下まで降りていく様に、彼女は沈んでいった。僕は彼女を起こそうと、小麦色の頬にそっと人差し指を立ててみた。


「すごい気分良さそうだったよ」


「ほんとにいい煙草ですね。一度吸い込んだら深く沈んじゃいます」


「そうそう、だから吸いすぎると戻って来れなくなるかも」


「ほんとにそんな感じがします。どこで売ってるんですか?」


「ドンキにも売ってるよ。ニコチンの乾燥葉だけ袋詰めで売ってるコーナーがあるんだよ。オレはそれを紙で包んでるだけ」


 嘘だった。本当のレシピは教えられない。この煙草には、あの真珠の粉が混ぜてあるのだ。彼女に吸わせるつもりはなかったが、退屈さが勝って紙煙草スモーカーである彼女にも試したくなってしまった。


「また吸わせて下さいね」


「うん。今度はほんとに意識が飛ぶくらい、濃いヤツ作っとくね」


「やだあ、まず柳原さんが吸って下さいよ。私、その様子じっと見てますから」


 彼女は長い髪をバサつかせて、先に喫煙所を後にした。一人になった僕は二本目に手をつけた。吸い終わる頃には、現場に出払っている従業員達が戻ってくるかも知れない。今日も昨日と変わらない一日が終わる。ここに移動してから約一ヶ月、ここが何の変哲もない平和な事務所に過ぎないと実感を得だした頃から、僕が元々抱えていた疑問が膨らんできた。それは、内通者という役割についてだ。一体、内通者とは何なのだ。彼から聞く話だけではピンと来ない。この現実にどう絡んでくるのだ。何か調べる方法はないものだろうか。


 手作り煙草が燃え尽きようとしていた時、ふと閃きが起こり、僕は咥えていた短い煙草をバケツに捨てた。オフィスに戻り、彼女の背中に声をかける。


「内藤、明日と明後日って勤務だよね」


「そうですよ。明々後日も山明後日も出勤です」


「だよな。そしたら、オレちょっと出張行ってくるわ」


 彼女はキョトンとしていた。案の定、責任者不在で仕事をどうするつもりかと問いただされたが、適当に受け流した。遠出する機会が、今の僕には必要なのだ。


 僕がオフィスを離れたのは三日後だった。日帰りだからと言い残して、僕は社用車のワゴンで札幌に繰り出した。本物の元「内通者」と連絡を取り、話をする機会を得たのだ。相手は元FSBの構成員、出身はロシアだがすでに日本に帰化していた。以前、ネットのニュース記事を通じて、ロシアから亡命し現在札幌で暮らしているという人物の存在は知っていた。そこで彼に直接会って話を聞いてみようと思い立ったのだ。しかし相手にメールで問いかけても、最初の反応は渋いものだった。金額を増してインタビューは手短に終わらせる事を強調すると、相手は遂に許してくれた。


 ところが、札幌市内に到着しても彼からの返信はない。午前十時からの予定で入れていたので、その前に車を市内の立体駐車場に停めて、僕は街の中へ繰り出していた。約束から三十分を過ぎても返信がないので、近くのカフェで時間を潰す事にした。札幌駅に程近いモールの中にあるカフェからは、市内を真っ直ぐ貫くストリートが一望できた。大きな時計塔もある。広々として整った街を眺める内に、時間はどんどん過ぎていった。彼から連絡が来たのは丁度正午の事だった。


 申し訳ない。寝過ごしてしまった、と一言詫びが添えられて、彼は合流したい場所を示してきた。住所を検索すると、そこはすすきのへ至る手前の繁華街だった。その中で、昼から空いている酒場があるらしい。元々、彼の自宅にお邪魔する予定だったので、色々と出鼻を挫かれる思いがした。


 歩いて十五分程で賑わうエリアにたどり着き、彼が指定した店は細い路地に入ってすぐの所に位置するバーだった。木造の古びた黒い壁の脇に、同じ木で出来た扉があった、小さくて四角い窓からは、炎の様な赤い光が映っている。僕は唾を呑んで真鍮のノブを掴んだ。扉の向こうには酒のボトルが大量に並んだカウンターが左右に伸びており、外と同じ廃れた木材で囲まれた、薄暗い通路の様な空間に包まれた。そして、少し右寄りの席に白いシャツを着た大柄な男が背中を向けていた。彼だろうか。しかし、掛ける言葉が出てこない。


 僕は何も言わず、そのまま彼の隣に座り込んだ。すると、視界の先には黒い板にチョークで書かれたカクテルのメニューが壁にぶら下がっている。数十種類はある様だが、ジンやウォッカのカクテルがその多くを占めている。僕は、座ると同時に奥から出てきた紺のジャケット姿のマスターに声を掛けた。


「レーヴェを」


 瓶ビールを選んだ。メニューの隅っこにはビールの欄もあり、ハイネケン、コロナと並んでレーヴェと書かれているのが気になったのだ。酒場に置いてあるのは少し珍しいと思った。


「グレーヴィチさんですか?」


 注文の際に一瞬こちらを見てきた彼に対して、僕はようやく声を掛けた。そこで、彼の目の色に気付いた。アジア人ではなかった。


「そうだ」


 彼の声はクリアだが、少し掠れた感じがあった。僕は、時間を割いてくれた事を丁寧に感謝してから名乗った。すると彼は頷いて、改めて謝意を示してきた。そしてレーヴェが僕の前に準備され、話を聞く準備が整った。


「何を聞きたい?」


「一番聞きたいのは、現在の日本に展開していると思われるFSB職員の現状です。彼らがどんな目的でどの様に行動しているかを知る手掛かりとしたい」


 彼はグラスを握る手を止めてこちらを見た。


「なぜそんな事を聞きたい」


「私は一人のジャーナリストですが、いわゆる内通者と言われる少数の人々と関わった経験があります。そこでの仕事の内容も一部把握しています。しかし、いかんせん情報が足りない。そこで、日本に帰化までして居られるグレーヴィチさんからお話を伺えればと思ったのです。」


「そう言う事か、少し驚いたよ。大抵は、俺が暴露した情報や亡命について聞かれる事が多いからな。まあそんな事は知らないし、知ってて答えられる事じゃないよ」


 彼は笑った。素人がバレたかも知れない。

「最近でもインタビューは受けられますか?グレーヴィチさんが亡命してから、もう六年になりますが」


「最近は減ったよ。それに、もう受けるつもりはなかった。あなたの強い要望がなければ、もうインタビューを受ける事もなかっただろう。もう普通に暮らしたいんだ」


「私も、報道や記事を通じてあなたが亡命された経緯や曝露した情報についてはある程度知っているつもりです。ですが私が聞きたいのは、内通者という概念そのものなのです。」


 彼は無言で頷きながらウイスキーグラスを持ち上げた。


「まず、なぜFSBに入られたのですか?」


「おれは元々スペツナズ(特殊部隊)に居た。そこから情報管理の仕事に移る事にした」


 そこで彼はお代わりを注文した。彼は飲みながら話を進めるので、僕もレーヴェの黄金の液体を飲みながら聞きに徹した。


「そこで、組織の異常さに気付いたのですか?」


「いや、異動した頃は別に可笑しな組織じゃなかった。ただの情報管理組織さ。だが、ある時を境に急変した。そういうのは、上からの命令でガラッと変わるもんなんだ」


 彼の語気が強くなる。


「俺はフツーの役所が、強烈な暴力装置に変わる瞬間を見たぜ。ある朝出勤すると呼び出されて、上司の部屋に一人で入った。そこで上司からピストルと身分証だけ渡されて、クビになりたくないんなら組織の中で上手く立ち回れよ、これで稼いで来い、と言われたのさ」


「なるほど。急に変わったんですね」


「ああ、あの国のボスは懐にギャングを飼ってるのさ。」


 そう言うと、彼はお代わりのグラスを一気に空けた。自分の生まれた国を、あの国と表現する事にどんな心境が伴うのだろうか。


「それで、組織から距離を置こうと?」


「それだけじゃない。それが起こる数日前には、唐突に機密情報開示の命令が下りた。それは、第二次世界大戦中、旧日本軍が行った惨殺行為に関する文書だった。そんな情報を開示する事で、日本に関する印象操作を狙っていたのさ。俺は、こんなのは正気じゃないと思った」


「なるほど」


 僕は彼の言う事をメモしていた。しかし、淡々とひたすらメモに走る僕を見かねたのか、彼は追加の酒を勧めてきた。


「飲み足りてない様だな。おい!こいつにも一杯!」


「そのお酒は・・・」


 それは水の様に透明な液体と氷が浮かんでいるだけだった。


「ストリーチナヤだ。最高の酒だ」


 ストリーチナヤの意味が分からなかったが、いざ飲んでみて口内に広がる灼熱の消毒液みたいな感覚が、ウォッカである事を教えてくれた。


「ウォッカは飲んだことあるか?」


 僕は梅干しの様な顔になっていただろう。そんな様子を見た彼はエスカレートした。


「おっと、まずは食前酒から行かないとな」


 するとマスターがカウンターの上に置いたのは、二つのショットグラス。そこに先程のウォッカの瓶が傾いていく。彼は勢いが付いてしまったらしく、グラスを飲み干すより先にショットに持ち替えた。乾杯して同時に飲み干すと、食道の奥の奥まで熱気が染み渡り、遂には胃袋の形まで分かるようになってしまった。そこからはよく覚えて居ない。気付けば、二人で外に出ていた。秋の曇り空の下、広々とした遊歩道をよろめきながら進んでいく。どこへ向かっているかも知らなかった。


「俺は祖国に見切りをつけたんだ」


 それが忘れられない言葉になった。彼はのそのそ歩きながら、確かにそう言ったのだ。そこからまた記憶は飛び、意識が戻った時には一人で駐車場に居た。僕は自分の車の後ろにもたれ掛かって地面に尻をついていた。咄嗟に持ち物を確かめるが無くしたものはない。メモには彼といる時の記録が確かに記されていた。しかし途中からミミズが走っている。あの記憶が実際の出来事だったと物語っていた。そして強烈な頭痛を自覚し始めた。じんじんと目の奥が痛む。慣れない酒に完全にやられたのだ。僕は取り敢えず車内で休む事にした。


 運転席で再び目が覚めた時にはすでに頭痛は収まり、駐車場内を眩しい照明が照らしていた。腕時計を見るともう午後七時過ぎ。スマホにはラインの通知が何件かあり、その全てが内藤からだった。彼女は、早く戻って来いとしきりに訴えていた。内藤には今日中に帰ると言っておいたが、もうとっくに定時は過ぎている。職場はもぬけの殻だろう。僕はスマホをドリンクホルダーに落として、車のエンジンを掛けた。


 結局、内通者とは何なのか。直接的な答えを聞き出す事は出来なかった。どうにか点と点が繋がらないだろうかと思いながら、彼と酒を交わした記憶を巡っていた。国民の印象を操作するために、機密を公開しようとしていたと彼は言った。今の日本で、そんな工作は為されているのだろうか。それは、僕が今考えても分からないだろう。むしろ僕の仕事に近いのは、一個人として敵地に潜伏して活動する工作員の方だ。彼が言っていた、ピストルと身分証だけ渡された時には、どんな仕事を任されたのだろうか。何のためにピストルが必要だったのだろうか。今日の話だけでは想像に任せるしかない。


 高速へ向かう途中、渋滞に嵌った。その時、交差点の左脇に見える明るい看板が気になった。有名な酒類卸売販売店だ。僕は少し考えてから、信号が青になるとハンドルを左へ切った。倉庫を改修した様な店内は天井が高く、ラックが何段も設けられていた。そこに所狭しと酒瓶が並んでいる。圧倒的な品揃えはウイスキーやワインに偏っていたが、奥の方へ進むと透明な蒸留酒も並んでいた。ジンやラムと混ざり合う様にウォッカの銘柄も多数並んでいる。そして、お目当てのものはすぐに見つかった。さっきバーで飲んだ赤字のラベル。ストリチナヤ…か、これで間違いない。僕は750mlの大瓶を一本とおつまみのジャイアントコーンを買ってから、再び渋滞に割り込んでいった。

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