8、契り

 欲を失った。ある秋の帰り道、目に映るものを何一つ受け取っていない自分に気がついた。景色も人の表情も全てが平坦に流れていく。それ以降、自我は遠のいた。どうする事も出来ない。僕は死ぬ事を考え始めた。典型的な死に方が頭をよぎる。窓からダイブ、天井にロープ、車内で煉炭。しかし、本当に手をつける事はなかった。それは、薄れた感性にしがみ付いてだらだら傷付いている方が楽だと思えるから。しかし、それだけだろうか。死ぬ勇気がないという言い訳の下に、何かが隠れている気がした。


 その答えの一つに、たまたま巡り合った。太宰治の小説だった。今夜は居慣れたバーで飲み明かそうとグラスを何杯か空けていたが、途中から虚しくなった。その日は客が一人も居なかったのだ。寡黙なマスターは、カウンターの隅で壁に寄りかかって居眠りしている。まるでゆりかごの様なこの時間が好きだ。僕は飲むのをやめて、壁際の本棚を漁り始めた。客やバーテンがここに「納品」していくらしい。皆の本棚だった。


 そこで見つけたのが太宰の「晩年」だった。ただ、タイトルに惹かれた。冒頭から自殺を考える青年に、さっきまでの僕が移入していった。青年は、自殺を打算的な処世術の様なものと表現していた。一言でこんなに簡潔明瞭に自殺を表現できる事を知った僕は心躍った。自殺が主体的に述べられているのだ。それは単純かつ芯のある考えに思えた。しかし、打算とは何だろうか。人生を打算的に割り切る事にさえ勇気と多少の器用さが要るのではないか。それ以降、打算というテーマが脳裏に焼き付いた。物語への好奇心はその一文で燃え尽きて、僕は太宰の本を閉じた。やがて外が明るくなり始め、それに伴ってかイビキを掻いていたマスターが目を覚ましたので、僕は出る事にした。


 JRの渋谷駅へ向かうには、途中で円山町のホテル街を越えなければいけない。朝のホテル街は空気が澄んで、音がよく響いてくる。ホテルの部屋から聞こえる掃除機の音からゴミを引き摺る音まで、この街は夜をリセットしつつある。ホテル街から大通りに出た時に広がっていた空は、深い色をしていた。陽が出る直前の落ち着いた空が、街全体を青白いトーンに沈めている。居酒屋が立ち並ぶ繁華街に入れば駅まであと少し。誰も居ない通りから、高架下の改札がようやく見えた時、手前の階段で座り込んでいる人が居た。ロングヘアが塞ぎ込んでいて顔が見えない。ジーンズの細い脚を曲げて、顔を埋めている。女の子が寝ていたのだ。僕は出来心で話しかけた。


「大丈夫ですか?」


 相手は唸る様な声で反応して来た。


「お姉さん大丈夫?」


 見た通りの泥酔だった。自然と僕は隣に座り込んで、彼女の背中を摩った。上手くいく時は、自然と抵抗を感じない。そのまま相手の懐に届いてしまう。貞子の様なぼさぼさのロングヘアが動きだし、初めて彼女の顔が見えた。童顔で白い頬、目はまだ閉じていたが眠っていた様にも見えなかった。僕はそのままキスをした。唇は冷たかった。唇を離すと彼女はぐったりともたれて来た。体育座りで身体を丸めたまま、抱き寄せる僕の胸にしっくりと収まる。僕は彼女に名前を訊いた。


 次第に女は話し始めた。行きつけのバーで呑んでいた事、呼んだ友達が来ない事。どうして一人になってしまったのか分からないという含み。2人は少しの時間を薄汚い階段の上で過ごし、始発が出る前に僕の方から立ち上がった。


「行こうか」


「うん」


 彼女もおぼつかない足取りで立ち上がる。ゆっくりと来た道を引き返そうとしていたその時、背後から誰かが呼び止めて来た。


「あのー!その子友達なんです」


 僕は耳を疑った。彼女がさっき言っていた友達が現れたのか。女の方に目をやると、俯いたまま何も言わない。僕の中で混乱が生じた。目の前に立っている男は背の高いマッシュ。その背後にも別の男がいた。彼らの勢いはエスカレートしていく。友達だからと何度も繰り返し訴えて、終いには女の手を握ろうとした。しかし、それを彼女自身が退けて僕の腕を掴んだ。それが確信だった。僕は彼女の手を引いて逃げた。背後では、女を諦めたナンパ師共の嗚咽が聞こえてくる。


 目の前の個人タクシーに彼女をぶち込んで、僕は包み隠さずホテル街までと頼んだ。タクシーの運転手は強烈に機嫌が悪く、僕はさっさとカネだけ渡して降車したくなった。


「ここでええんかいな?あ?」


「いいよ!降りるから」


 極悪人は、泥酔女を引き摺り下ろしてホテルへ向かう。逃げ込む様に入場したホテルは古臭い出立ちだった。仕方ないと割り切り、エントランスで鍵を受け取る。薄暗く狭い廊下を2人彷徨って、突き当たりに至るとようやく部屋を見つけた。扉を引くと不自然なほど軽く、安っぽさが気になった。部屋に着いた時点でテレグラムを確認したが更新なし。今日の昼頃まではここを宿にできる。部屋は壁面がワインの様な濃いめの赤一色で塗られ、ややオーバーな感じがバブルの雰囲気を残している。


「よく話しかけようと思ったね」


 彼女は、いつの間にか平然としていた。


「こんな化粧もしてない女によく話しかけるなと思ったよ」


「お化粧してないの?気付かなかった」


「してないよ〜」


「一人で寝込んでたし危ないと思ってさ」


「そう・・・、心配してくれてたね」


 女は噛み締める様に言った。


「それにさっきは危なかったね」


「うん、捕まるところだった。でも、結局捕まっちゃったけど・・・」


「うん。捕まっちゃったね」


 僕は彼女に寄り添った。生々しい唇の味や髪の匂いが、現実と夢を曖昧にした。


 夢から覚めたのは午前十時頃。体液のシミがまだ乾いていないベッドの上で、枕も布団も床に飛ばしたまま二人は突っ伏して眠っていた。一旦目覚め、正気を完全に取り戻した彼女はもう表情が冷めている。連絡先を聞くにも抵抗を感じた。結局、そのまま一緒に部屋を出て、陽光が眩しい大通りで僕は別れを告げた。彼女は最後に、奈落でも除く様な目つきで一瞥をくれた。

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