6、竜宮の粉

 柳原 圭人 22歳


 新宿駅から線路沿いを歩いて十分程のマンション密集地に、僕の部屋はあった。ようやく手に入れた母の居ない暮らし。実家を飛び出してからもうすぐ一年、この1Kには酒臭い男衆が押し掛けたり女が一人で訪れたりした。アクセスはパーフェクトではなかったが、都心の空気を纏いたいという希望を叶える立地だったのだ。五階の窓からは、渋谷方面が一望できる。その気になれば、誰かを呼んで酒でも飲みながらシェアする事もできる。しかし、今日は誰かを呼ぶ気分ではなかった。むしろ、今日部屋で起きている事を他人に知られてはならなかった。


 ベッドに埋もれたまま動かない。身体だけでなく心も停滞し、全てがモノトーンに沈んでいく。視界が不透明な膜にずっと覆われている様な感覚。その状態が続くと、心は次第に堂々めぐりの沼にはまっていく。世界は灰色のまま死ぬまで変化しないんじゃないかと考えて怯えだし、未来の生活を考えるのが恐ろしくなる。沼に浸かっている時は、沼の外にいた頃を忘れてしまうのだ。そんな波が周期的にやってくる。こんな時、行き着く先は決まっていた。


 特に躊躇いはない。台所の引き出しからラベルのない琥珀色の小さな瓶を取り出す。器の上で瓶を横にして軽く二、三回叩くと、小さじ程度の白い粉が舞い降りてきた。これは自然由来のものだ。ちょっと珍しいけど、化学物質じゃないだけ安心さ。停滞した感情を、本来の状態に戻す行いだ。やっと手に入れた強力なヤツなんだ。部屋全体に充満させてやりたい。


 その粉でお香を炊いた。お香に使う器は仏様に白米をお供えするための小さな茶碗によく似ている。火を灯すと、真珠色の煙がフワッと湧き上がってから一筋の細長い帯を成して天井まで伸びていく。


「・・・リュウグウノツカイみたいだ」


 実際に本物を見たことはないが、一瞬で深海魚のそれが思い浮かんだ。深海の闇の中で、白く光る帯のように細い体をうねらせている。あまりにも鮮やかな煙の流体は、それほどのスケールを感じさせる。十数秒の内にハーブような香りが蔓延し、身体がそれを受け入れていることに気がついた。心は体から解放されて、心に纏わりついたしがらみが燃え尽き、灰となって心臓から滑り落ちていく。残るのは何もない空間にただ浮かんでいる自分だけ。


「そうだ・・・、昔からずっとそうだったんだ!」


 自分で自分を抑えているうちに、あらゆる感覚が麻痺していたんだ。自分を否定する影は居なくなり、全てが一つに調和している。


 全てが赦されている。おぼろげな田舎の記憶に始まる幼少の頃から、今の今までの全てがここにある。素晴らしい・・・。こんなにも美しいものだったなんて。


 ベッドに座ったまま目を閉じて、再び目を開けたときには涙が一筋こぼれ落ちた。今日もまた、生が訪れた。真珠の煙は、感情の調和へ無条件に導いてくれる魔法だった。


 それは金曜日の夕暮れの事。ふと部屋を見渡すと棚上のデジタル時計が放つ1758という値が目に入った。現実を知らせる四桁の数字が我を揺さぶった。仕事の準備しないとな。でも、あと十分だけ。もう少し感情の調和に浸っていたかった。それは僕が、麻痺しつつある現実に心の底からアクセスできる唯一の時間だから。


 煙の帯が消え去ると、心が再び閉じていく兆しを感じた。ゆっくりと閉じていく出口へもがいて進むように、僕は仕事の支度を始めた。



 勤務先は虎ノ門。オープンして間もないタワーマンションで警備を担当していた。勤務員の待合室はマンションの地下一階にある。この物件では施設警備がなく、交通誘導も完全に自動化されているため、巡回で設備を廻る時以外は基本的に退屈だ。無駄に沢山あるオートロックの扉をくぐって、僕はいつもの待合室に辿り着いた。窓のない白い壁に囲まれ、白い長机と真新しいパイプ椅子が並んだ待合室。今日は待機している人が少なく、僕を含めて三人しか居なかった。


 一人は寡黙な男。多分、同世代くらい。休憩中はいつもスマホに集中しているが、チラッと見えた画面からはありふれたアプリゲームの画面が見え、スコアボードばかり眺めているようだった。その時点で、彼とは気が合わないと思った。もう一人は女。猫顔で白い肌。ブロンドに染めた髪を後ろで丸く纏めている。彼女はここの勤務歴が長いらしいが、昼間シフトが多い彼女と接する機会は少ない。彼女の周りには甘い系の香りが漂っていた。甘いベースに加えてほんのり煙が混じったような、街を歩いていれば時たま拾う香りだ。現実味を帯びた甘さ。


「おつかれさまで〜す」


 今日の同僚達に軽く会釈を送る。二人とも同じような反応、スマホを眺めたままコクッと頷いてきた。僕は席に座る前に奥のデスクに置かれたPC端末のキーボードを叩き、今日の勤務内容を確認した。エクセルで作られた棒グラフのような勤務動態表。真ん中の列に僕の名前がある。今日の欄にはただ、巡回とだけ記してあった。今日も定時巡回を数回やるだけのようだ。


「柳原さん、部屋の点検入ってますよ」


 唐突に彼女が話してきた。PCを見て勤務を知りたがっているのを察したようだ。


「動態には巡回しか書いてないですけど、急遽で入居前の機械点検やってって、チーフが」


チーフとは、普段ならこのPCデスクに向かっている中年の男だが、今日は不在のようだ。


「了解です。ありがとう」


「ええ、だから一緒に廻りましょう」


 彼女は落ち着いていた。社員である彼女が部屋の鍵を預かっていると言う。勤務が始まると、彼女と共にエレベーターで五十三階の部屋に向かった。そこは、来月に入居者を控えた物件。部屋で配電系の不具合があったらしく、修理後も異常の有無を定期的に確かめなければならなかった。その部屋は購入すると百億を下らない高級物件だと言う。


 エレベータ内で軽いトークに耽っていると、彼女もまた一人暮らしである事を知った。飯田橋に住んでいる。


「飯田橋ってめっちゃ良いところだね。上品な街」

「そう、社宅なんですけどね。会社の社宅が神楽坂の近くにあるんですよ」


「え〜、最高ですね」


 そこから僕は聞き手に徹した。彼女もまた上京組であり、地元や家族とある種の決別をしてやって来た人間だった。そういう過去なら感情を添えて話を聞ける。


「最初は東京が嫌で、ずっと地元に帰りたいって思ってたんです。でも最近は、まあ東京でもいいかな〜って」


 故郷の恋しさを忘れるだけの価値を東京で見つけたようだ。それからは、彼女の入居にチーフが関与してきた事、その他社宅生活で感じるあれこれを話し始めた。


「チーフ、私が入居する時はわざわざ住所変更のために役所までついて来てくれたんですよ。まあ、そこまでしな貰わなくてもいいんですけどね」


 抑揚のない落ち着いた声が、従業員用エレベーター内で反響する。


「オートロックもないのに女の子を一階に住まわせるんですよ。あり得なくないですか?」


「それはあり得ないですね」


「ブラインドを買わなきゃって言ったら、チーフが買ってくれましたけど」


 一貫した彼女の語りに寄り添っていると、やがて朝を迎えそうだ。五十三階で扉が開くと、暖色の間接照明が壁を照らす長い廊下が現れた。ブラウンのタイルカーペットにベージュ色の壁、全体的に暗めのトーンだ。普段の巡回経路である非常用通路とは随分と雰囲気が変わる。しかし、壁に溶け込んで目立たない非常扉をこじ開ければ、いつもの巡回路もすぐ隣なのだ。このマジックに惹き込まれる。


 僕はその日、初めてタワマンの部屋と言うものに入った。セキュリティドアを引いてエントランスを目にしたとき、そこが玄関だとは実感できなかった。黒い石タイルの床が先に続く廊下の突当たりまで続いている。石畳の道を抜けるとリビングが広がり、床の材質がそのままフローリングに切り替わる。クローゼットからキッチンから、全ての器材が大きく部屋全体がオーバースケールに思える。リビングには単色グレーのラグが敷かれて、窓際には素気なくソファが置かれている。僕は思わず感嘆の声を漏らした。スケールや豪華さへの感動と同時に、廊下と変わらない様な無機質さを帯びている事に驚いていた。


「すごいですよね」


 彼女は言葉を添えた。そこで僕は目覚めて、「見入ったわ。さあ、チェックしないと・・・」


 僕はブレーカーを探した。洗濯室に設置されたそれもまた大きなもので、もはや施設の廊下に設置された配電盤そのものだった。玄関、リビング、そしてこのブレーカー等どれを取っても、ここがプライベートの生活空間になるとは思えなかった。ここを住処として、気が休まるとは思えない。


「異常ないね」


 僕は盤の扉を閉めた。これで仕事は終わりだ。まだ時間があると思い、再びリビングに戻って少しだけ夜景を眺めていた。無機質なソファーの向こう、壁一帯がガラス張りの窓からは都心の夜が一望できる。僕は思わず口にした。


「綺麗だ」


「綺麗ですね」


 彼女が現場の先輩である事を思い出すと、僕の中から色々と質問が湧いてきた。


「ここにはどんな人が住むんだろう」


「ここに入居が決まってるのは、お一人ですよ。来月には入って来るみたいで」


「一人?こんな広い場所で?」


「そうですね。でも、他の部屋もお一人様でしたよ。ここのお部屋って一人か、多くても二人で住む事が多いみたいです」


「広いから、てっきり家族連れかと・・・。暮らしぶりが想像できない」


「税金の問題とかもあるんでしょうけど、ふふ、お金持ちの考える事はよく分かりませんね?」


 彼女は景色を眺めながら、キュッと口角を上げた。僕らはそのまま部屋を後にし、その日は朝の退勤時間まで待合室で過ごした。ここは職員同士が疎遠だ。それが僕にとっては気楽だった。普通なら寂しくなるような空気感を、虎ノ門というブランドが忘れさせている。待合室では皆、各々がスマホで暇な時間を受け流している。楽に勝るものはない。完全に割り切った時間が流れていく。


 僕はLINEを閉じて、別のSNSアカウントを開いた。水色の起動画面に浮かび上がるTELEGRAMという文字。これが、「仕事用」のアカウントだった。この夜勤が終わった後には、一つだけ「運び」の仕事を入れていた。その詳細を確認するためにテレグラムのチャットを開く。


 既に相手方から届いていたメッセージには、取引の時間と場所がリマインドされていた。特に変更はないらしい。僕は、そこに個人的な希望を綴って返信した。真珠の煙を購入したい。あの粉は、一般では流通しておらず、この仕事を通じてのみ、僕は粉の流通に触れることができた。少しの間を置いた後、相手は値段を打診してきた。相手に手数をかける以上、言い値に文句を付けるのも気が引ける。僕は了解と感謝を伝え、アプリ画面ごと外へスワイプした。


 夜勤明けの帰り道、既に街は騒がしい。車の往来が多い道の脇を通る時は、自ずとイヤホンで耳を塞ぐ。聞き慣れたBGMにうっすらと感情が乗る。このまま早送りで帰りたいところ、しかし立ち寄る場所があった。新宿駅で降りると駅に隣接した街路路に入っていく。狭いビルとビルの間を進むと、曲がり角に便所があった。そこがテレグラムで示された位置情報だった。小便器で用を足していると見せ掛け待機していた一人の男から「荷物」を受け取って、今日の取引は終了だ。それは、茶封筒で包装された小包であり、中身は僕が確かめても分からないモノだった。ただ、小包に貼り付いた小さなジップロックが僕へのご褒美だった。それが頼んでいた粉なのだ。


 気分は高揚し、眠気も醒めた僕は真っ直ぐ帰路に着いた。今日の「荷物」は軽い。開封する事は許されないが、おそらく電子機器か何かだろう。高校生の時にこの仕事を引き受けて以来、僕は未だに後継者も探さずに淡々と取引を続けていた。圧倒的なカネの良さの虜になっていたのだ。金の出所も他の関係者も知らない。知らないからこそ成り立つビジネス。しかし、継続すればするほど仕事の難易度は増してゆく。運搬距離や時間指定に加え、個人情報の提供まで求められる要素が少しずつ増えていく。気付いた頃には抜け出せないという仕組みなのだろうか。前任者はどんな思いでこの仕事をやっていたのか。一時期、親父さんの人間性を疑った事があった。こんな怪しい仕事を見ず知らずの未成年にぶん投げるなんて、と。しかし彼はただ純粋に、信頼のおける人に任せたという事なのかも知れない。或いはもっと純粋に、何となくピンと来たのかもしれない。彼に対しては、どうしても邪念を持てないのだ。


 結局のところ、言葉にできない閉塞感は増していった。ジップロックに入っているのは真珠色の粉末。僕は空になっていた瓶に慎重に移した。


 それから夢を見ていた。遠い記憶をなぞる夢だった。目が覚めた場所は17年前の夜、当時住んでいたアパートの寝室だった。「布団の部屋」だ。僕と母さんの布団が敷き詰められた部屋の中は、布団が絨毯の様になっていた。歩き回っていると、めくれ上がった掛け布団が泡立って波打つ水流の様に見え楽しくなった。布団の部屋をぐるぐる走る。走ると波に取り囲まれる。白く逆立つ水に呑まれる!呑まれる!呑まれる!


 僕はいつの間にか息を切らしていた。疲れた、疲れた。ふとあたりを見渡すと、いつもの布団が敷かれていた。ここは畳張りの狭い部屋。お昼は堅い畳が線を引いて並んでいるのに、寝る前に布団を敷くと波に包まれる。毎日、布団を敷く時が楽しみだった。ふすまをそっと開けて居間を覗いてみる。そこには母が居た。丸いダイニングテーブルの前に立っている。壁の方をじっと見たまま動いていない。母さんが何か考えてる。僕はふすまをめいいっぱい開けて母さんの方に歩み寄った。母さんは僕に気付いたら。


「圭ちゃん・・・」


 僕を呼んだ。


「母さん、どしたね。どしたーね」


「ううん。何でもないよ」


 母さんは笑顔で言った。心配ないって。僕は安心して洗面台の方へ歩いた。歯を磨いて、イソジンで口を濯いだ。それから居間に戻ると、また母さんが壁の方を見ていた。母さんは再び僕の方を見てから言った。


「圭ちゃん、パパとママがもし離れて暮らすって言ったら、どっちについて行きたい?」


「え?う〜ん」


重いという言葉を当時は知らない。答えに困ってしまった。次第にこれが繰り返された記憶だという自覚が芽生えていく。僕は難しい問いかけに対して、重さから逃げる様なカードを引いた。


「圭ちゃんはね、パパに付いて行きたい!」


「そう・・・」


 母さんは再び壁の方を向いた。僕もしばらくその場に立っていた気がする。この重い場を避けたかった。僕は言葉で母を退けた。景色がぼやけ、金縛りに遭う。もうあの寝室には戻れない。なんで気付くんだよ。目覚めてしまった。目を開けると、目の前は暗闇だった。窓の外には渋谷の夜景が・・・、もう夜まで寝てしまったのか。起き上がろうとした時、涙が一筋垂れてきた。どうしようもない。もう言ってしまった事だ。パパというのは、当時母が交際していた相手の事だ。たまに家にもやって来て、一緒にミニカーで遊んだのを覚えている。頻繁には来なかったが、僕は一緒に遊ぶのを楽しみにしていた。

 母はシングルマザーで、血縁上の父と僕が顔を合わせた事はない。話を聞く限り、父が家を背負う気はハナから無かったのだろう。母は事故で出来てしまったから育ててくれたのだった。それを幸とも不幸とも感じた事はなかった。ただ、母の思いを受け止められない気持ちは、夢で見た当時からあったのかもしれない。何にせよ、やっと母親と適度な距離を置く生活を手に入れたのだ。


 煙草を吸うためにベランダに出る。ガラス戸を開けると空気が冷たい。早くも夏の終わりを感じ取った。

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