4、トンネルの向こう
八桁の数字は四桁目と五桁目の間に空白があり、まるで電話番号の下八桁の様だ。しかし、あの親父はこの数字を「場所だ」と言った。家に帰ってからもしばらくその暗号を睨み続け、ふとした瞬間にそれが座標だと気付いた。位置を表す数字だ。「座標」でググってみると、グリッドに沿う形で四桁×四桁の数字が用いられる事を知った。早速、地図アプリにメモの数字を打ち込んでみる。すると、アプリ内の世界地図は一気に日本列島の中心にまで絞られた。さらに拡大は続き、地元の馴染みある街並みを捉えた。その中心に浮き上がるアイコン。そこは森の中だった。あの市民公園のすぐ脇、住宅が立ち並ぶ路地との間には鬱蒼と茂る森があった。決して大きな森ではないが、確か柵で覆われていたはずだ。小学生の頃は、よくフェンスを超えてこの森の中で秘密基地など作って遊んでいた。こんな場所に来いというのか、一体いつ?人目に付かない夜か?
その日は中々寝付けず、午前五時頃に落ちて六時には目を覚ました。興奮に眠気が加わって気持ちが悪い。母はまだ寝ている。こういう日は勝手にトーストを焼いて食べるが、温かいトーストを食す気分でもなかった。その日は通学途中にエナジーゼリー二本をコンビニで調達して、ハンドル片手にゼリーチューブを吸い尽くした。クラスは今日もやはり欠員。窓際が開放的だ。噂の信憑性が増していく。モヤモヤを誰かに打ち明けたくなり、昼休みは龍弥を屋上に誘った。二人で話す時間が欲しかった。
「屋上さみいだろ」
龍弥がぼやく。
「いいじゃん」
屋上に出ると、晴れ空が広がっていた。空が高い。何もない屋上の隅に並んだベンチに腰掛けると、背中から日光に包まれた。縮こまる心臓にも温もりが伝わってくる。2人は、新学期ダルいという切り出しからクラスの様子の変化、そして冬休みの記憶を語らい合った。
「ちょっと静かじゃね?クラス」
と、龍弥。
「そんなもんじゃね?もう受験シーズンだろ」
「勉強に集中したい時期なのは分かるけど、なんか落ち着かないんだよ。静か過ぎてもさ」
いつも寝てるのに静か過ぎるのは嫌なのか。心境を掘り下げてみると、今の静けさはなんだか張り詰めた感じがするらしい。それは全く同感だった。何者でもない何かに支配された様な、念に圧迫された教室。
「インキャ組はきつい」
龍弥がぼやいた。僕はインキャという言葉に反応した。
「高三からは、オレもインキャでいいや」
「もうインキャだよ」
僕は思いもよらない返答に驚いた。
「え?マジ!?」
すると龍弥は笑いだし、僕が新学期から口数が少ない事を指摘してきた。モヤついた気持ちが態度に出ていた事を自覚した僕は、心境を明かす事にした。
「冬休み、柳井と会った」
「へ〜。珍しいじゃん」
「クリスマスにデートした」
それを聞いた瞬間、龍弥は電撃を受けたように目を見開いた。色恋の話だとは思っていなかったのだろう。僕は淡々とデートの成り行きを説明した。
「だから気になってんだよ。柳井がなんで消えたのかなって」
「もう会ってないのか?」
「ない。連絡もつかない」
「・・・逃げた?」
逃げるって何だよ。
「わかんねえ。でもオレは付き合いたかった」
「マイナー好きだな、お前。そういう事か。そりゃ口数減るわ」
「あっちから急に誘いが来たんだよ。おれも最初はそんな気持ちはなかったけど」
「でも今は気になります、と」
「・・・あの日は楽しかった」
あの日からずっと、全力で彼女と一緒にいたいと思っていた。そんな対象を遂に見つけたのだ。何事も半端でパッとしない毎日が、あの日を境に生まれ変わった様だった。柳井を守りたい。あの小さい頭を抱いた時の感覚を忘れたくない。
「デートしてたのがお前だったとは意外だわ」
「どう言う事だよ?」
「柳井が誰かと手を繋いでるのを見たって、さっき竹内が教えてくれた。クリスマスデートだって、クラスでは噂だぜ」
僕と彼女のデートが目撃されていた事実を知り、血の気が引いていく。噂の詳細を聞き出すと、目撃場所は赤れんがクリスマスマーケット。柳井と誰か男子が手を繋いで歩いているという内容だった。暗闇でマスクを付けていた僕は判別されなかったのだろうか。しかし、あの現場で誰かが僕らをジロジロ見ながら外部に報告していたのかと思うと気分が悪くなった。僕と彼女だけの時間を持ってはいけないのか。
「龍弥」
「ん?」
「この事は内緒な」
「分かってるよ」
彼女から何の言葉もない、既読もつかない。そんな状況で、僕から働きかける理由はなかった。僕も忘れなければいけない。急なデートを申し込んできた彼女。何の前触れもない消滅。拡散の早い噂話。繋がらないところは多いけど、今一人で考えても答えが出るとは思えない。しかし彼女だけを意識してきたメンタルには、ぽっかりと空洞ができた。時たまクラスで話す他の女子よりも、他の誰なんかよりも僕は柳井が良かったんだ。学校でコソコソ噂をするくらいなら、もう放っておいてくれよ。お前らなんてどうでもいい。みんなジロジロ見てんじゃねえよ・・・。
「まあ他の子がいるさ。忘れろって」
龍弥は重い空気を察し、軽やかに言い放った。
「なあ、龍弥」
「ん?」
「オレ、もう明日からインキャでいいや」
二人は売店の菓子パンを食べ終わると、さっさと平和な屋上を退いた。
帰り道は夕方。久々の終日授業には疲れた。県道に至る迄の団地の並木道はもう真っ暗だったが、時を同じくして自転車で帰路につく生徒は多い。その多くは仲間と併走しながら帰っているので話し声が聞こえてくる。龍弥もチャリ通学だったらいいのに。帰り道が寂しいと感じたのはこの時が初めてだった。暗い夜道は好きだった。視界を覆う闇が、景色を軽いノイズで包んでいる様で落ち着くのだ。加えて、県道からの眺めもいい。ベイブリッジはネオンを纏い、黒い海上には光を放つ船が点々と見える。そんな景色目掛けて県道はひたすら下る。この時間はもう交通が殆どなく公園にも人影がない。等間隔の街頭だけが存在感を持つ。そして、あのハイエースも見当たらない。あの親父はお昼時しか現れないのだろうか。
最低限の握力でブレーキを握り市民公園を颯爽と通過しつつあった時、僕は電撃を受けた様にブレーキを強く握って舵を切り、脇の住宅街に突入した。座標の場所に向かってみよう。住宅の間は更に暗い。新興で綺麗な一軒家が軒を連ねているが、この辺りは静かすぎて馴染めない。そして柵に囲まれた森はさらに暗く、人を寄せ付けない気を放っている。金網フェンスの向こうに広がるのは針葉樹林。等間隔で綺麗に真っ直ぐ聳え立つ木々が不気味だった。この森のどこかに彼が居るのか。一体何をしているのか見当もつかない。まさか秘密基地だろうか。
森を突き抜ける遊歩道が一つだけある。峠道のようにくねくねと森を横断する道なのだが、街頭もろくに立っておらず歩道の両脇はフェンスで覆われている。その入り口の前で自転車を停めた。目立たないようにフェンス際に寄せて、侵入口を探してみる。丁度、道路と遊歩道の交差点でフェンスが途切れて、人一人が身体を細めて通れる程度の隙間がある。ここを通らなければ、フェンスをよじ登る事になるだろう。僕はブレザーを脱いでそこを通過した。眼前に広がるのは暗闇のみ、真冬でも生い茂る針葉樹の葉が天井を覆い、光を受付けない。僕は周囲に怪しまれないように、森の奥へ数十メートル程入ってからスマホのライトを点けた。スマホを前方へかざすと同じ形をした木々が照らし出され、どちらを向いても景色が変わらない。沢山の細い脚が真っ直ぐ生えて静止している様に見え気味が悪い。そして、こんな所に誰か居るのかと言いたくなる程静かだ。こんなところに誰かいるのか。そもそも何があるんだ。あの親父はいるのか。森の中は徐々に勾配が強くなり、頂上の市民公園側まで抜けるには苦労しそうだ。息が上がってきたところで、もう一度座標を確認してみる事にした。すると、自分が今突っ立っている地点がほぼ座標のアイコンと重なっていた。
座標がアバウトなんだろうか。いや、例えズレていたとしてもこんなに広い森では同じ事だろう。やっぱり嘘なのか。僕は歩く気力を失って、一旦そばの木に保たれて座り込んだ。こんな場所に長居したくない。でもすぐに帰ってもしょうがない。どうせ母は居ないだろうし、帰宅時間を気にするのは止めよう。座っていると、火照った身体が徐々に冷え寒気を覚えたので、ブレザーを着直した。そこで一度耳を澄ますと、そよ風だけが微かに聞こえてくる。
流れるような音。沢山の葉が触れ合ってさわさわと音の流れを作っていると思った。しかし、音はある方向から聞こえてくる様だ。どうやら天井の葉っぱが重なり合う音ではないらしい。僕は違和感を覚え、立ち上がって歩き始めた。そこで、音のボリュームが変化している事に気付く。確実に音が大きくなる方へ歩いていくと、やがてそれが水の音だと分かった。地図アプリで確かめると、数十メートル先に川があった。それは住宅地の中心から森の真ん中へ流れて途中で消えている。海へと繋がる川がこんな所にあった事を今まで知らなかった。
明らかな流水音に変わった時、景色が一気に開けて固い地面が現れた。コンクリートの土手に挟まれた完全なる人口河川だ。対岸まで十メートルはあるだろうか。川の水はある程度勢いがあって、とても向こうへ渡れそうもない。僕は森の方へと流れる川を辿ってみることにした。森自体が登り斜面であるのに対して、この川は緩やかに下降している。川の両脇はすぐに高い壁に挟まれ、目の前にはトンネルが現れた。暗い森の中心に位置するトンネルはまるでブラックホールだった。しかし、座標は真っ直ぐこの先を指している。トンネルの中であるという可能性は排除できない。僕は一旦入ってみる事にした。
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