2、打算的な約束

ここは彼女のお気に入りらしい。週末にはよく一人で訪れると言う。僕も店の雰囲気がすぐ気に入り、「いいカフェだね」と言葉を添えた。天井からぶら下がる幾つものランタンが、木材に囲まれた店内を照らしている。


「この木の雰囲気好きだな。シックっていうか。落ち着くね」


「うん、そうなの。でも今日はちょっと人が多いから落ち着かないかも」


 クリスマスだしね、と言いかけたが思い留まる。

「いい場所だね。教えてくれてありがとう」


「ふふ、勉強がしたかったんだよ」


 彼女はさらっと言い放つ。


「・・・そうだね。でも、もう勉強はいいっしょ。ゆっくりコーヒーでも飲もうか」


「うん」


「今日クリスマスだし!」


「・・・うん」


 結局、苦し紛れに発言してしまった。やはり彼女の反応はどこか物寂しげで、僕は咄嗟に出した芽を引っ込めたくなる。話題を変えなければ。


「飲み物注文に行く?」


「あ、ここテーブルなの」


 テーブルの横にはメニューの標札があった。僕は苦笑いして、浮いた腰を再び落とす。


「ほんとだ。気づかんかったわ」


「初めてのお店だし、落ち着かないよね」


 落ち着かない理由はこのカフェではない。それでも僕は彼女の言葉を受け取って落ち着きを得た。


「そうだね。オレ、あんまカフェとか行かないんだ」


「そうなんだ。矢島君とも?」


 龍弥のことだ。僕は思わず吹き出した。


「行かない行かない。あいつとはもっぱら放課後にコンビニとかレストランに寄り道する程度だよ。一緒に予定決めて何処か行く事ってあんまり無いかな〜」


「そっかあ。すごく仲良さそうだから、お休みの日も遊んだりしてるのかなって思ってた」


「たまにどっか出かけたりはするけど、お互いインドアだし、学校で会うくらいかな」


「そうなんだ、意外だね。めっちゃアクティブなイメージ」


「ほんとに?オレらあんま遊びに出ないよ。案外インキャだよ!仲は悪くないけどね!」


「ふふ」


 彼女は微笑んだ。少しレアな彼女のスマイル。


「みんな、オレとあいつが超仲良しとか思ってんのかな」


「さあ。私は仲良さそうって思ったけど」


 スマイルが消える。


「・・・そうだね」


 気まずくなってきた。緊張が余計な言葉をつけ足してしまう。少しの沈黙の後、今度は彼女が口を開いた。


「いいな〜って思って見てたの」


「え?」


「柳原くん、クラスでいつも後ろ向いて矢島くんと話してるでしょ?それを見てると、ああ、仲良いんだな〜って思ってたの」


「なんか恥ずいな。監視されてるじゃん」


「あははっ、違うよ〜。ただ素敵だなって思ってたの。だからお休みの日とかも楽しく遊んでるのかなって思ってた」


「休日はあんまり会わないかな。学校で一緒に喋ってたらそれで良いかなって感じなんよね。多分あいつもそう思ってる」


「素敵だね」


「とんでも」


「きっと理解し合えてるんだよね。素敵だと思う」


 言葉を終える度に、彼女の表情は無に帰る。何かが奥底で感情を打ち消しているかの様。次第に彼女を知りたい気持ちは増してきたが、どうもアプローチの手法が思い浮かばない。


「柳井も仲良く話してる子いるんじゃない?うーんと、あの橋場がいるところとか」


「うーん。そうでもないかな。一緒にいる事は多いけど」


 彼女の表情から光が落ちる。


「そっか・・・」


 寒い反応しか帰って来ない。いっそコミュ障になってやろうか。と、その時。


「お待たせいたしました。ウインナーコーヒーとカフェ・アメリカーノになります」


 昔ながらのレストランなどに居そうなウエイトレスの服を着た女性店員が、二つのコーヒーを木製の黒いお盆に乗せて運んできた。コーヒーカップにはアラビア絨毯のような細かい模様が描かれており、僕と彼女のカップでは全く異なる模様が描かれていた。まるで個人で収集したコレクションみたいだ。


「濃いの飲むんだね」


 コーヒーフレッシュも混ぜずに、そのままコーヒーを啜ろうとする僕を見て言った。


「あ、うん。糖分控えてるから」


「え〜なんで?糖質制限?」


 彼女は意外そうに僕を見つめる。


「そうそう」


 実際、濃い方が見栄えがいいと思っただけだった。彼女の方のウインナーコーヒーは上に白いクリームの塊がカップいっぱいに乗っている。これがウインナーコーヒー。名を初めて聞いた僕は当初、燻製と熱いコーヒーが同時に思い浮かび、一体どんなモノが来るのかと気になっていた。


「ウインナーコーヒーも美味しそうだね。クリームの香りがこっちまで伝わるよ」


「そう。このクリーム美味しいの。」


「ホイップクリームみたいな?」


「飲んでみる?」


「いいの?」


 一口つけさせてもらうと、まだ溶けきっていないクリームの上澄みが口の中で広がり、後から熱いコーヒーが少しずつ注がれてくる。空気を孕んだ生クリームと熱々のコーヒーが口内で混ざり、ボリュームのある甘い飲み物に変わっていく。


「美味しい・・・」


「美味しいでしょ。よかった」


「ウインナーコーヒーって初めて飲んだよ。こんなに甘くて美味しいんだね」


「そうなの。私、ここのウインナーコーヒーが好きで、喜んでもらえて嬉しい」


 甘く熱い液体が胸の奥まで流れていく。肝が温まり、ひとつの和みが生まれた。彼女と目が合う。瞳が動きを止めてこちらを見ている。二重の下にすわる明るい瞳。奥まで透き通る虹彩。真ん中に留まる黒点だけが光を受け入れない。やがて僕は耐えきれなくなり、彼女の視線から顔ごと逸らしてしまった。


「ぶっ」


 僕は吹き出す真似をした。すると彼女は目線を下に落として笑った。


「なんか、変な感じだね」 と、彼女。そしてまた無に戻る。


「だね」


 相槌を返した。しかし、今の彼女の瞳には少し光が残っている気がした。顔色がさっきまでより明るい。


「目が明るいね」


「え?」


「いや、なんていうか、明るい目だって思ってさ。もしかして色素薄い?」


「ああ、そうなの。よく分かったね。色素薄いから夏の日差しとか大変なんだよね」


「そっか、それ分かるよ。夏はほんと眩しいから目を細めちゃうな」


「そうそう。それに私、眉間に皺が寄っちゃって人を睨みつけてるみたいな顔になるんだよね。だから夏場はよくサングラスかけてるの」


「え、マジ?柳井のグラサン姿、死ぬほど見てみたい」


「イヤだよ」


 そこから話は深まった。だから夏は嫌いだという結論から冬の好きなところをたくさん挙げ、冬の朝の心地良さや、夜に鍋を囲む幸せまで。色んな情景を共有した。


 気付けばコーヒーを飲み干していた。会話の緩衝材を失った僕は、次の場所を提案する。彼女はそうだね、と一言頷いて素っ気なくショルダーバッグに手を回した。外は寒い。ずっと暖冬だったのに昨日あたりから急に冷え込んで、只々空気が冷たい。みなとみらい駅から赤れんが倉庫までは距離があった。海沿いの広い公道に沿って淡々と歩き続けるが、ニュータウンの無機質な景色は会話のネタに欠ける。


「柳原くんってさ」


 横を歩く彼女がまた戦端を開いた。


「沈黙って大丈夫な人?」


「え?ああ、大丈夫だよ!もちろん」


「そっか、よかった。人によっては、喋らないと苛立っちゃう人もいるから」


「そうだよね。僕は気にしないよ。柳井は?」


「私も大丈夫。むしろ必要かも」


 電撃的な問いだった。斬新な確かめ方を知り、また一つ氷が砕かれた。僕はその時、元々沈黙は嫌いじゃないが沈黙という選択肢を受け入れて来なかった事に気づいた。彼女とは、今それが共有できる。歩く途上で沈黙は和みに変わり、僕らはお祭りの入り口にたどり着いた。赤れんが倉庫のそば、海沿いの広場がクリスマスマーケットに様変わりしている。大きな入場門の奥には洋風な屋台が暖色のネオンを放ち、下には無数の人だかりができていた。人だかりは門のところまで迫り、門外は入場者の行列を作っていた。


「人、多いね」と、彼女。


「うん」


 クリスマスイブなら人が多いのは当然か。クリスマスマーケットを知らない僕にはピンと来なかったのだ。


「並ぼうか」


「入れるかな」


「チケット取ってるから、ちょっと待てば入れるんじゃないかな」


 僕らは、10分ほど暗闇に並んだ。沈黙の暗闇で、脱力した指が時々ぶつかる。僕は彼女の手を握った。それでも沈黙は続く。それからの時間経過は早かった。門を越えてからも、屋台を決めて料理を受け取るまで手を繋いでいた時間は、ほんの一瞬で過ぎていった。敷地内を歩き回ってようやく見つけたベンチは、街頭の真下にあった。昔のガス灯みたいな見た目で、炎の様に揺らぐ光を放っている。僕らが座った場所は少し眩しい。座ると完全に光の炎に包まれ、周囲の景色は遮断される。目の前に見えるのはプレッツェルを頬張る彼女だけ。こんな場所に今日この子と来れるなんて。冬休みの頂点だった。プレッツェルは美味しいそうだ。僕が齧り付くカリーブルストは少し冷めている。途中から肉を取り込む作業になった。早々に食べ終わると、少しずつ短くなっていく彼女のプレッツェルを眺めていた。


「食べる?」


「うん」


 半分頂いた。彼女が美味しいというプレッツェルも、口に放り込むと冷たかった。そこに僕は傷つく様な、言葉にしたくない感情を覚えた。周りでは、カップルたちの食事を交えた会話がそこかしこから聞こえて来る。食事はこんなにも冷たいのに・・・。百合籠みたいな空気の中で、無視できないギャップを見つけた。 食べ終わって場内を2人で歩き回っても、拭えない違和感がつきまとう。雰囲気だけ楽しもう、というのがどうも苦手だ。救いなのは、彼女も似たようなタイプに見える事。やがて会場の端まで至ると、柵の外にスケートリンクが見えた。


「スケートあるんだね!」


「ほんとだ」


 僕はスケートに誘った。彼女は少し躊躇ったが一緒に滑ってくれた。心機一転、僕らはスケートリンクに立ち入った。借り物のスケートシューズに履き替えて再び合流。スケート姿になるだけで、美人は違う一面を現す。お互い手を繋いだままぎこちない足取りで、靴履き場のゴムの地面にスケートの刃を突き立てながら、リンクまで進んでいく。ようやく届いたリンクに片足を乗せた途端、摩擦が完全に消えて足が滑る。


「気をつけて!」


 リンクに入っても僕らはぎこちなかった。手を離しては繋いでを繰り返して、少しずつスピードを周りに合わせていく。リンク内は、反時計回りでゆっくりと周回する流れができている。何十分滑ったかも忘れた頃、僕らは手を繋いだままその波に重なって滑り続けていた。周りは他校の制服や家族連れが目立つ。


「ちょっと休む?」


「うん」


 リンクの隅、人通りが少ない入り組んだ場所を僕は指差した。丁度リンクのガードレールが交差するところだった。あそこなら、お互いがガードの手すりにもたれ掛かる余裕がありそうだ。行くと決めると一直線にそこへ滑り込んだ。お互い向き合って座ると、彼女と再び目が合った。今度はもっと明るい。リンクを照らす白いスポットライトは強力だ。白い氷の面も反響して、周囲全体から光が届いてくる。今度こそは目を逸らさなかった。僕は彼女の顎に指を添えて近づいた。彼女の唇は冷たい。そして動かない。もう一度付けると彼女も応じてくれた。唇を合わせたまま、柳井を抱き締めようとした時、彼女の肩が震えている事に気づいた。


「ごめんね」


「ううん、違うの」


 彼女は俯いて首を振る。やり過ぎたかと思い気が引ける。それでも抱かない選択肢はないと思った。僕はキスの代わりにぎゅっと彼女を抱いた。


「告られてもないんだけど」


 耳元で彼女は囁き、僕はすっと身体を離す。


「あははっ、ごめんなさい」


「遊びなの?」


「え?」


「遊びなのって」


 違う!と言えば通じるのだろうか。誤解はされたくない。


「ちょっと大胆だったかな」


 その一言で、彼女の険しい表情は弛んだ。


「かなり大胆」


「今度は告白してからハグする」


「ふふ、分かりました」


 彼女の肝が見え隠れする。その日最大の思い出はこうして過ぎ去った。全ての喧騒を後にして、僕らは歩いて来た夜道を戻って行った。

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