内通者

@TheYellowCrayon

1、黒い塊

     一、黒い塊


高校二年生の冬、二学期最後の登校日はいつになくクラスが騒がしい。午前のホームルームが終わり、担任が通知表の手渡しを呼びかけるとクラスの空気は変わり、皆が教壇の担任に注目した。廊下側の席にいた僕は、後ろの友人と話すのやめて鎮まったクラスを見回してみた。遂に迎えた終業式だが、夏休み前ほどの高揚を感じられない。窓を閉め切った冬のクラスは空気が篭り、冷気の開放感を遮断してしまう。


 担任の若い女性教師が、出席番号順に一人ずつ名前を呼び始める。呼び出しの流れが出来上がったところでクラスは再び騒ぎだす。僕もまた後ろを振り向くが、友人の龍弥は机に置いた鞄に顔を伏せて眠っていた。本当に眠っている訳ではなく、ただ無気力を表現したアピールだろう。僕はスマホにぶら下げたキーホルダーで彼の台風の目をなぞってみる。無気力な友人は鈍い反応と共に、ゆっくりと頭を起こす。


「・・・んだよ」


 しょぼしょぼの顔が現れた。本当に眠っていたようだ。


「次だぞ」


「お、まじ」


 彼は気だるい足取りで教壇まで歩いていった。皆の机の横にぶら下がった学生バッグが足に干渉して邪魔そうだ。そんな事をものともせず、彼はどしどしと前に進む。かつては狭苦しいと感じた教室も、これがナチュラルになっている。龍弥の次の次が僕の番だ。間には一人、女子がいる。龍弥に続く二人も立ち上がって教壇へ向かったが、龍弥は教壇前で担任からごちゃごちゃと責め立てられている様子で、彼女と僕は黒板の前で立ち往生していた。龍弥は担任の叱責に対してただ小刻みに頷いて、通知表の厚紙だけ受け取るとさっさと引き返していく。次の女子の番が来たが、彼の時とは対照的で、担任から何の指摘も受けずに紙一枚を渡されて戻っていく。彼女は比較的地味な子だった。担任は彼女と目も合わせずに、「はい」と手渡しする。一言のコメントも残さないなんて、少し寂しいなと思った。担任教諭、安西美智子が見せたポーカーフェイスは、図らずも僕の記憶の端くれと重なった。内気な彼女に対して周囲のクラスメート、特に周囲の女子が見せる振る舞いと似ていた。直感だが、とても似たものを感じた。教師だろうが同級生だろうが一度印象付けられたら、それは定着してしまうものなのだろうか。いや、そもそも僕の考えすぎか。


 彼女が退いて、目前に担任が現れる。通知表なんて些細な事のはずなのに、無意識的に緊張感が湧いてくる。


「はい。柳原君ね。うん、英語と現代文はとってもよく出来てるけれど、理数系が苦手みたいね。他はよく出来てるから、後は底上げも頑張ってみて!」


「はい」


と、返事だけして僕は引き下がる。この数字が良ければ嬉しい。悪ければ凹む。深い理由もなく精神に影響してくるこの数字を悪い結果にはしたくない。要は、その程度の理由しかなかった。席に戻ると、すでに友人は顔を伏せていた。


「ふう・・・。龍弥、今日どこいく?」


 成績の話など、お互いに興味がない。


「どこも行かん。てか今日、ばあちゃん家行かないけんのよ」


「まじか。じゃ、また連絡して。おれ冬休み暇だし」


「他のやつと遊べばいいじゃん?」


「いや、おらんのよ」


「ぼっちかよ」


 沈黙に入ると、彼はまた顔を伏せた。もしこいつがいなければ、僕は周囲のクラスメートと成績の話で奔走していたかも知れない。貰いたてピカピカの通信簿を見せ合って、自分のヤバいところを叫んでいたに違いない。去年はそうだった。演技を少しでも減らせるこの出会いは貴重なのだ。道化しか知らなかった時代は、焦りに駆られて会話をするのが人付き合いだと思っていた。今でもそうなのだが、少なくともこいつと居る時だけは違うのだ。


 最後の礼をスッキリ済ませて、僕は廊下に出た。予定は無いのだから帰ろう。駐輪場が混雑する前に、さっさと校舎を出てしまいたい。教室階を離れると校舎内は一気に静かになる。教室や廊下の騒めきは下駄箱までは届かない。静かな空間では寒さに敏感になる。分厚い雲に覆われた空が、学校の敷地をモノトーンに染めている。


 僕のママチャリは、一列に自転車が並ぶ駐輪場の奥の方に停めてある。長蛇の列に並んでいるチャリの殆どがママだ。マウンテンやロードバイクもちらほら見えるが、変に注目されたくないので買い換えようとは思わない。自分のチャリに跨るとサドルの冷たさが制服越しに伝ってくる。学園都市の丘の中心にあるこの県立高校の門を出れば、帰路はひたすら坂道を下ること。ここは、まさにベッドタウンの頂上なのだ。


 冬の風が冷たい。今日はマフラーを忘れた。下り坂に身を任せていると、ブレザーの間から容赦なく冷気が入り込む。やがて団地を抜けると景色は開け、県道の交差点から東京湾の海が一望できる。県道を一直線に十分程下れば、数キロ先の海沿いまですぐに辿り着く。僕はいつも通りブレーキも掛けず、正面に広がる海原とその脇に見える横浜ベイブリッジを眺めながら下っていた。


 道の両脇は、身長ほどの高さの石垣の壁で覆われてお堀の様になっている。この壁の向こうには市民公園があり、土地が開けたこの辺りはいつも人が少ない。加速する下り坂道で、顔に当たる風圧が増していく。坂を半分近く降りた辺りで、路肩に車が停まっているのが見えた。グレーのハイエースだ。ブレーキランプがずっと点灯しているのが、なんとなく気になった。いつもなら海をぼんやり眺めながら下るこの道で、今日は見知らぬ自動車が目を奪われる。通行人とすれ違う事も少ない閑散とした道で、あのハイエースは尚更目立つのだ。それに目前まで迫った時、車の窓から何かが転がり落ちてきた。それは広い歩道をころころと進み僕の進路上で止まった。落とし物か?丁度目の前だから厄介だな。回避を試み、軽くブレーキを握った。そして、石垣側に少し逸れようとハンドルを振ろうとした時の事。


「ああ、すまない!あんちゃん!」


 車の中から声が聞こえた。窓から顔を見せて手を振っている。僕の事か?


「あんちゃん、そこに落ちたのを取ってくれないか?うっかり落としちまって・・・」


 僕は急ブレーキでハイエースの横に止まり、声の主の顔を見た。おじさんだった。顔の皺が濃い、丸顔で濃い眉毛。怪しさは否めなかったが拾うだけなら、と道の真ん中に落ちた物体を自転車から降りて拾い、見知らぬおじさんに片手で差し出した。


「へへっ、申し訳ない。ありがとうな」


 彼は気さくな笑顔を見せてきた。


「いえ。でもそれ、なんなんですか?」


 「それ」は黒い鉄の塊だった。でも何なのか分からない。黒い鉄板を曲げて角柱の様な形を成したモノで、手の平を覆う程のサイズだった。何かの部品だろうか。黒い鉄板の隅に小さな赤い点が三つ並んでいるのが見える。持ってみると妙に重いのも気になった。


「ああ、これはちょっとした資材なんだ。俺はここら辺で警備を担当してる業者でね。仕事で使う道具なんだよ」


「そうですか・・・」


「君、申し訳ないね。どうだ、そこでジュース買ってやるから、それで詫びにしてくれないか?」


 歩道脇の石垣を登ったすぐ先のところに公衆トイレがあり、その隣に自販機がある事を僕は知っていた。僕は遠慮したが相手はお構いなしで自販機へと向かい、エナジードリンクを一本買ってくれた。


「ありがとうございます」


「これでいいな!じゃあな兄ちゃん。これから俺は仕事だからよ」


 僕はエナドリの冷たい缶を受け取るとすぐに開栓し、拭えない違和感を洗い流す様に飲み干した。エナドリ特有の炭酸の刺激が胃袋まで刺激する。


 僕は改めてママチャリに跨ると、もう一度ハイエースに目をやった。グレーのボディには特に企業名やロゴなどはなく、完全な無地だ。窓から中の様子が確認できるかと思ったが、暗くてよく分からない。そして不可解なものが目に止まった。その車のナンバープレートが「わ」ナンバーだったのだ。それはレンタカーを意味している。つい最近、お昼時に流れていた刑事ドラマを観ていた時に得た知識だった。そのドラマでは、連続誘拐犯が日本各地のレンタカーを梯子して小さな子供を誘拐するというエピソードだったのだが、その誘拐シーンがこの現実と重なって、軽い鳥肌が生じた。僕は逃げる様にその場を去った。家に着いてからも考えが止まない。警備会社なら、社用車があるんじゃないのか。現場に行くためにレンタルするものなのか。答えの出ない悩みに気味の悪さが拭えない。それは高校二年生の冬休みを迎えた初日の事だった。


 冬休み三日目、その日はオープンキャンパスだった。都心の第二希望校へ行くために、あまり馴染みのない東横線に乗らなければならなかった。世間の子供も冬休みのせいか、列車の中は窮屈で騒がしく、渋谷で乗り換える頃には既に倦怠感を帯びていた。メトロに乗り換えれば目的地はもうすぐだ。来年春からのキャンパスライフを妄想する。


 地下鉄出口の階段を登りきれば、目の前に大学の建物が見えた。これはオフィスビルじゃないのか。高校とは違うスケールに加え、高校の校舎なんかよりもさらに無機質感漂う施設が幾つも聳え立つ。夏の見学でもここには来た事があるが、この景色を見る度に大学生という生活に困惑する。ここは滑り止めだが、今の受験勉強のモチベーションなら第一希望は難しいだろうから、ここに入学する可能性は高い。その日は希望学部の英米文学科の説明講義を受けに行った。高校で予め貰っていた大学のパンフを片手に、昨日チェックを入れておいた学科を順番に回っていく。パンフを見ながらでないと、行く場所を覚えていられない。


「そもそも行く気がないから・・・」


 そう思った途端、足取りが遅くなった。


「ここで僕は何をしてるんだ。受験、受験・・・」


 この静かな「オフィス街」で講義を受けている大学生の自分というのが、どんな人生なのか想像できない。いざキャンパスライフに突入すれば、全てがリセットされて心は適応し、ここでも羽を伸ばせる様になるのかもしれない。ただ、今のモチベーションから想像できる未来は、どうも曇った事ばかり考えてしまう。勉強も学校生活も、何というか、何というか。


 その日はチェックを入れた講義だけちゃんと参加してからすぐに帰った。オープンキャンパスと言うだけあって、キャンパス中央の広場ではホットスナックなどの屋台が並んでいた。これはしめたな。龍弥も呼べばよかった。颯爽と門を出て帰ろうとしたとき、スマホの通知が光った。LINE「新着メッセージがあります」と。お!あいつ丁度よく連絡寄越してきたか。そう思って開いたトーク履歴のトップにいたのは、柳井結衣。僕の一つ前の女子だった。LINEを知っている事すら忘れていた。一学期の頃は、たまにテスト範囲とか確認し合ったりしてたっけ。それも彼女から稀にメッセージが来るから応じていた事だった。恥じらいが勝り、こちらから言葉をかける事はしなかったのだ。


「柳原君、おはよう」


 その一言だけがトーク欄にあった。僕は「おはよう!」と、こだま返しする。


「冬休みって空いてるかな?よかったら一緒に勉強できたら、なんて思ってて」


「いいよ!勉強しよ。オレ、暇してるし」


「うん!ありがとう」


 お礼に対し、僕はグースタンプを送った。


「ちなみにいつ空いてるかな?」


「大体空いてるよ(笑)。大晦日と三ヶ日以外なら大丈夫かな。」


「そっか。じゃあ、24日どうかな?」


 彼女が提案した日だった。


「いいよ!24日ね!」


 クリスマスイブだね!とは返さなかった。僕は率直に嬉しかった。何も考えなくとも、キャンパスの憂鬱はもう吹き飛んでいた。


 十二月二十四日、その日はみなとみらい駅で待ち合わせていた。十五分ほど早く到着した僕は改札の前で特にする事もなく待っている。近くのカフェで一緒に勉強してから、赤れんがのクリスマスマーケットに行こうと約束していた。初体験だ。誘われでもしなければ、そんな場所へ行く事はない。


「ついた!」


 と、彼女からひとこと連絡。クラスでの内気な雰囲気と文面のギャップを感じる。スマホを納めて前を向くと、改札の奥から歩いてくる彼女が見えた。僕と目が合った彼女はささやかに笑いながら手を振ってきた。私服姿の彼女を初めて見て、少し心臓が高鳴る。小柄な彼女はベージュのトレンチコートに身を包み青白いマフラーで武装している。白く薄い小顔をモコモコのイヤマフと黒いロングヘアが覆う。髪の毛は胸の前まで垂れているが、クラスで見た時よりも繊細そうで綺麗だった。


「お待たせ。待たせてごめんね」


「いいよ、ぜんぜん!おれが先に着いちゃったから。」


 デート慣れしてない僕は、照れ臭さをオーバーリアクションで隠す。早くカフェに入りたいところ。

「カフェ、どこに行こうか?」


「あっ、あたし行きたいところがあるんだ。すぐ近くなんだけど、そこでもいいかな?」


「もちろん!」


 そこはみなとみらい駅から赤れんが倉庫へ向かう途中のモールにあった。通りは人で賑わっていたがカフェの中は静かだ。聞いたことのない名前のカフェで木製の机と椅子が並んでいる。


「雰囲気いいね」


「そうなの」


 素気ない。テーブル席で向き合って座り、僕は早速模試対策のワークをテーブルの上に出した。


「何から勉強しよっか?」


「ええ、あたし理系科目が苦手なんだよね。だから、柳原くん賢そうだから理系科目を教えてもらえればなって思ってたんだ」


 思わぬ期待に、僕は苦笑した。


「まじか、オレ理系苦手だよ。一緒だね」


「そうなんだ」


「うん。だから今日、理系科目のワーク持ってきてないや。ごめんっ」


「いえいえ、いいよ」


「柳井も理系が苦手とは思わなかったな」


「そうなの。だから理系の底上げをしなさいって安西先生から言われてて・・・」


「そうなんだ。オレと一緒じゃん!同じこと言われてる笑。『底上げ』ってね」


「そうなの、嫌になっちゃうよ。嫌いな科目までやらなきゃいけないなんて」


 彼女は言い切った。


「そうだね」


 嫌いな科目に取り組む理由が本当に理解できないといった彼女の態度は、僕にとって新鮮だった。絶対に外せない前提が崩れたような、そもそも勉強の必要性を疑わなかった自分に何かが刺さった。


「勉強って何なんだろうね」


 と、僕は問い掛けた。


「ほんとだよ」


 こうやって普通に会話しているのが何だか不思議だった。思えば元々そんなつもりはなかったのだ。ただ彼女と勉強を少し頑張って、あとは初めてのクリスマスイベントを歩くだけ。彼女と普通にしんみり会話する事は想像していなかった。


「じゃあさ、勉強しなくていっか!」


 僕は提案した。その時から、少し彼女の事を知りたくなった。


「うん。そうしよ」


 彼女は再びささやかなスマイルを作った。普段の彼女の落ち着いたテンションではちょっとした笑顔も際立って、僕の心臓を揺らした。

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