川の姫のはなし

@Teru_mizuumi

川の姫と青年

 それが私の中に初めて落ちてきたとき、私は美しいという感情を知った。

 最初に見たのは泡だった。大きい泡、細かな白い泡。みな天へ昇っていく。天へ昇るうちに光を浴びて金色に輝いてゆく。くるくると回りながら。ときにはぱちりと消える、手にすることはできない儚いものたち。

 水面にあがるとすべて消えていった。夢から覚めたようなあっけない終わり方で、それも私の気に入った。

 ふり絞るさいごの一泡まで見届けたあと、それはすっかり底に沈んでいた。

 見たことのないもの。えんじ色の板で白くてぶあつい何かをはさんでいる。しばらくのぞいてみたが、動かない。わたしはゆっくりゆっくり手を伸ばす。

 あ。

 白いものがとろとろ流れ出した。その周りの水がそれを含んでもったりと重くなる。ひとすくい口に入れると、とろりと、甘い。後はもう夢中だった。白いものはかたまりではなくもともと裂けていた。一枚すくって舌の上にのせてゆっくりころがす。ときにはおもいきり歯で噛んでみる。やわやわとくずれていく感触。葉っぱのようでそれよりもずっと柔らかなもの。

 さいごの一枚まで食べつくすとえんじ色の板だけが残った。私はそれからえんじの板を抱きしめて眠った。金色の光をぱんぱんにためこんだ美しい泡の夢を見ながら。


 それからしばらくたって、男がひとりであれをめくっているのを見つけた。わたしのそばに座り込んで。あれに泡を立てさせるでもなく、口にするでもなく、ひたすらめくっては見つめ、まためくる。

 一枚でもいいからくれないかと思って、川の中から声をかけると彼は心底驚いたようだった。でもほかの人間がうっかり私を見て叫ぶような、ばけものだとかお化けとはちがう驚きのようだった。

 「やあ、君はこれがほしいの」

 私がほしいと言うと、これが読めるのかと聞いてきた。よくみると白いあれの一枚一枚にはびっしりと黒いアブラムシのようなものが縦にまっすぐ並んでいる。

 彼はこれをもじだと言った。何にするものかときいたら、ちょっと考えて物事を忘れないために記録したり、誰か別の人に伝えるためのものだと言う。私には人間の考えることはわからない。忘れたくない出来事とはなんだろう。声にならなくても伝えたいこととはなんなのだろう。

 私が水の中で沈んでいくそれがきらきらする泡をたてて美しかったこと、とかすとやわらかくて甘くておいしかったことを話すと、彼は笑った。君は本を食べちゃったんだね。それはたぶん、三日前に僕が落としたアンデルセンの物語だよ。すごく高価なものだったけど、君がそんなに喜んでくれるならよかった。

 「知ってるかい、アンデルセンのはなしの中には足だけ魚のお姫様がいるんだ。髪が長くて、美しい声をもってる。それで人間の男と恋に落ちてしまうんだ。」

 それから彼は口をつぐんで、読み方を教えてあげると言った。

 本は溶かすだけじゃもったいない。一度読み方を覚えればずっと楽しめるよ。

それから彼は雨の日とあつすぎる午後以外は私のもとへやってきた。一文字ずつ、丁寧に。そうして私を川の姫と呼んだ。


 子供向けの本ならばつっかえず読めることができるようになったとき、季節はもうすっかり夏だった。遠くで子どもたちが私の中に入り、水をかけあっている。

 彼も汗だくだった。彼の鼻はまっすぐで大きすぎも小さすぎもしない、おさまりのいい鼻だと見上げるたびに思う。その鼻に汗が浮かんでいた。その水滴は私の中に流れる水とどう違うのだろう。疑問が浮かぶともうだめだった。たまらなく、その水が欲しくなる。

 私の中で顔を洗ったらと言ったら、彼は躊躇した。君を知っているから、ただの川とは見えなくなった、と。じゃあせめて手を浸すだけでもと言うと、恐る恐る手を差し入れた。

 つめたく青い水の中に、手がひらひらと舞っている。長くてまっすぐな指で手首の骨が尖っていた。

 私はそれを口に入れた。ぴくりと反応があったが、そのあとはじっと動かなかった。しょっぱくて、ぬくもりがあってなめていくうちに甘い。私が水面に顔をあげると、彼も手を浸すのをやめた。一言も声を交わさず、その日は帰っていった。

 それから暑くない曇りの日でも彼が来ないときが増えていった。

 「妻に子どもができたんだ」

 久しぶりに来たとき、彼はまるで明日この世界が滅びると聞かされたかのように白い顔をして告げた。私はそう、と言っただけだった。

 もうすぐ生き物が死に、木が眠る冬がやってくる。私は、冬は寒いし読み方を教わるのはおやすみにしましょうと言った。

 あくる日の朝、誰かが枯れ草をぱりぱり踏みながら近づいてきた。その人影が去ってから、私は水面に顔を出した。そこには手紙が置いてあった。水色の便箋と彼のつかう万年筆のインクのにおい。

 私はそれを水の中に沈めた。一瞬浮き上がる、泡。こぷこぷと音を立ててすぐに消えた。それは徐々にやわやわと溶けていく。私はそれをゆっくり含んだ。甘く、とろりとしていて、少しずつ水との境界線がなくなっていく。



 あれから何年もたった。

 私の水が流れるところはのっぺりとした石ではないものに覆われ、私の水も随分減った。周りにはつるつるしたガラス張りの巨人のように大きい建物がたくさん立っている。彼はもうきっと生きてはいまい。

 それでも彼は残してくれた。いらっしゃいませ、激安、カラオケ、ちかんに注意、コーヒーの屋台、やすいよ、ここは渋谷川です、工事しております。ご迷惑をおかけします、あぶない、川に入らない、ここにごみを捨てないでください。


 文字、忘れたくない出来事を記録するもの、遠くに行ってしまった人に伝えることば。私の中に唯一残るもの。



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