第5話 また明日
「わあ、綺麗。」
差し込む西日に照らされて、山茶花の花びらが輝いているように見えた。
風が吹けポトリと落ちる花びらも、一瞬光に手されて反射していく様子はまるで光の粒が零れていくようだ。
そして地面に広がる花びらはまるで真っ赤な絨毯のよう。
「綺麗でしょう?」
所狭しとたくさん植えられた山茶花と椿の花。椿は蕾がふっくらと大きくなってきていて、まだ咲かずとも、その存在感を主張している。
緑の葉が生き生きとしている。
「あれ、説明文?」
ふと視線を落とすと、ある山茶花の木の根元に説明の板が添えられていた。花びらに埋もれていて文字は良く読めない。私が花びらを退けようと手を伸ばすと、その手は葉一さんによって制止された。急に腕を掴まれた物だから驚いてビクっと肩を揺らしてしまった。
「そのままにしておいてください。」
「すみません、触ってはいけないものでしたか?」
「いえ、そういうわけではないのですが…まだそのままにしておいてほしくて。」
どういうことだろう。葉一さんに聞こうと思ったが、掴まれた腕は何となくそれを拒絶しているようにぎゅっと握られている。
葉一さんはこの問いには答えてくれないような気がした。
「わかりました。」
そう答えると、安心したのか掴まれた腕は優しく離れた。ごめんなさい、という小さな声の謝罪付きで。
ゆっくと傾いていく西日。どんどんと空が紺色へと変わっていく。近づく閉館の時間。植物園の他のスタッフの人たちも、片付けの作業を徐々に始めつつある。
「そろそろ時間ですね。」
「そうですね。」
その時だった。山茶花の隙間から見えたスタッフの一人が、通路で派手に転んだ。
「わっ、大丈夫かな。」
「大丈夫ですよ。あの人、昔からおっちょこちょいなんです。遠くや草木はよく見ているのに、自分足元をよく見ていない人なんですよ。」
「そうなんですか。」
「ええ。慣れっこさんです。彼もここに務めてもう10年以上になりますね。」
「へえ。」
転んだスタッフに駆け寄った若い女性のスタッフ。
大丈夫ですか?なんて言葉が聞こえる。
「あの子は小さい頃からよくこの植物園に来てくれていてね。数年前からここで働くようになったんですよ。こーんな小さい頃に、よくお爺ちゃんに連れられて。」
葉一さんは、地面から膝より少し上のところで手をかざす。
「帰りたくないってよくこの椿園の前で地団駄踏んでたんです。それが今じゃあんなしっかり者さんになっちゃって。ほんと成長っておもしろいですよね。」
そう笑う葉一さんの瞳は、西日に手されて少しだけ橙色に光っているように見えた。艶やかな黒髪も光に照らされて、何だか少し浮世離れした存在のように感じた。
「葉一さんは人も花もよく見ているんですね。」
「まあ、向こうも僕の事はよく見てくれていますからね。さりげない悩み事なんかも打ち明けてくれたりしてましたし。」
「聞き上手なんですね。」
「そうですかね。」
そうこうしている間に、あっという間に閉館時間になってしまった。
「そろそろ時間ですね。出入口まで送りますよ。あ、紅茶御馳走様でした。初めて飲みましたが、なかなか美味しかったです。」
「それはよかったです。」
お互い向き合って深々と頭を下げる。
「風子さんと一緒だと時間が過ぎるのがあっという間です。ありがとうございます。」
「いえ、こちらこそ。貴重なお話が聞けて楽しかったです。毎日でも通いたいくらいですよ。」
「僕は毎日来てくださっても構いませんよ。ずっとここにいますから。じゃあ、明日お待ちしていますね。」
「明日!?」
「ふふっ、冗談ですよ。また気が向いたら足を運んでください。」
ふふっと冗談交じりに笑う葉一さん。
何だか今、一線を引かれたような気がした。
ふわっと風が吹き葉一さんの髪が揺れる。
今にも風と一緒にふわりとどこかへ消えてしまいそうな儚さも感じさせてしまうこの人はいったい何なのだろう。
このまま足が遠のけば二度と会えないような、そんな気がする。
「じゃあ、明日来ます。」
「え。」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした葉一さん。
「明日、仕事終わりに来ます。」
「いや、ほんと気が向いた時で…。」
「いいから来ます!あ、そうだ!ここって飲食の持ち込みOKですか?」
「ええ、お弁当を持参される方もいらっしゃるくらいですから…。」
「分かりました。じゃあ、明日は美味しい紅茶買ってきます。一緒に飲みましょう。」
ポーン、と園内アナウンスがなる。
『当園の閉園時間となりました。お客様は速やかに退園をお願いいたします。またの御来園をお待ちしております。』
「じゃあ、また明日。」
「は、はい。」
予想外の返しに混乱しているのか、葉一さん。今日初めて見せる表情をしていた。
何となくその顔を見れたのが今日一番の収穫のような気がした。
「明日、仕事なんとかして早く終わらせればギリギリ間に合うかな。」
なんて考えながら私は出入り口へ向かって走り出したのだった。
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