第4話 あなたの名前
「そうですねえ。」
青年は物珍しいもの物を見るように紅茶と珈琲を交互にみて、それから匂いをかいだ。
「こっちにします。」
彼が指さしたのは紅茶だった。
なるほど、紅茶派か。覚えておこう。
私からカップを受け取ると、彼はゆっくり紅茶を口元へ運んだ。少し恐る恐るしているようにも見えるのは、紅茶がホットだからだろうか。あ、もしかして猫舌とか?
なんてことを考えながら私も珈琲を口へ運ぶ。
私の視線に気づいたのか、青年はスッと顔を上げて、私を見つめて微笑んだ。
「君が選んでくれたものなら何でも美味しいですから、そんなに心配そうに見つめないでください。」
ブフーっと音を立てて私は思わず自分の分の珈琲を吹き出してしまった。
「ごほっ。」
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です、ちょっと気管に…ごほっ。」
喋ろうとすればするほどむせてしまい余計恥ずかしい。顔も真っ赤だ。
それから少しして何とか呼吸が落ちついた。せき込みすぎて目尻に浮かんだ涙が頬を伝う。ロマンチックの欠片もあったもんじゃない。
彼は心配そうに私の顔を覗き込んだ。違う、これはそういうロマンチックな涙じゃない。
何か話題を変えなくては。そう思った時にふと頭をよぎったのは今日の目的。
そうだった。彼に名前を聞くんだった。
「そうだった!名前、名前を教えてください。あなたの名前。」
「名乗ってませんでしたっけ?」
「本日冒頭のやり取りを繰り返すおつもりで?」
「あははっ。よく覚えてましたね。」
青年は本日冒頭のように笑うと、一呼吸おいて名前を口にした。
「葉一といいます。」
「よういちさん?」
「はい。葉っぱという字に、数の一です。」
「なるほど。苗字は?」
「苗字はありまんよ。」
「は?」
「いや、だからないんですよ。」
ニコニコと笑う彼、葉一さん。まるでこれ以上の詮索をするなと圧をかけるようだった。そして案の定かれは話題を変えてきた。
「ここの植物園で一番最初に植えられた花って何だと思います?」
なんだろう。私はうーん、と首を傾げ、適当に言ってみる。
「山茶花、とか?葉一さんと最初にお会いしたときに山茶花の紹介をしていただいたので。」
「すごい。正解です。風子さんはすごいなあ。」
葉一さんは目をまんまるにして驚いた。どうやら適当に回答したつもりが正解を導き出してしまったらしい。
「いや、ほんと偶然なので。」
「偶然でもすごいですよ。」
彼は少し食い気味に私の言葉に続けた。
「ここ、元々は大きなお屋敷があったんですよ。当主は元々そこまで花が好きな人ではなかったのですが、ある日当主の息子さんが流行り病でなくなってしまったんです。まだ幼かったので、当主も妻もそれはもう落ち込みまして。」
葉一さんは目を少しだけ細めて続ける。
「子の成長を見られないかわりに、ここに山茶花を植えたんです。小さな苗木を植えて、日々成長を見守りながら本来だったら子が成長していたであろう時間を花と過ごしたのがこの植物園の始まりです。」
こくり、と小さな音をたてて葉一さんは手元にある紅茶を飲んだ。
「一本だけじゃ寂しいだろうから、って少しずつ花や木を増やし、いつの間にか植物園になってしまったのがここの植物園の始まりです。」
「へえ、そうなんですね。」
「ええ、ですからこの植物園の中でも一番古いのがここの椿園なんですよ。特にガーデニングの知識もなかった当主が植え始めたのがきっかけですから、ほら、ここから見ても分かるくらい植え方が観賞用といった感じじゃないでしょう?」
確かに、遠めでも分かるくらい、簡単に言うなら雑というか、スペースを特に考えず、植えたような感じはある。ただ、一つ言うなら
「でも綺麗に大きく成長しているのですから、きっと大切に育てられていたんでしょうね。」
葉一さんはまた少し驚いた顔をした。そしてそれから椿園へ視線を送り、慈しむような笑みを向けた。
「そうですね、そうだと思います。」
二人で並んでカップに残った飲み物を飲み干す。
「というわけで、この後は椿園にいきませんか?今から夕方、西日が入ってきますから、光に反射した山茶花と椿は綺麗なんですよ。あ、足の調子は大丈夫ですか?」
「ええ、十分休憩できましたし、貴重な話も聞けたので私も椿園に行きたいと思っていたところです。」
「それはよかった。」
カップを設置されたゴミ箱へ捨てると、私たちは椿園へと足を進めた。
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