ベガとアルタイル
※なまえを きめて ください
嶋田 直樹の物語
嶋田直樹は今日も自堕落な人生を歩む予定だった。
7時間のバイトを最低限のコミュニケーションと元気で無気力に過ごし、残りの17時間はYouTubeかゲーム、それと惰眠で使い尽くすつもりだった。
直樹が起きたのはちょうどバイト開始の5分後。遅刻常習犯の彼にとってそれはたいしたことでは無かった。ただいつもと違う点は、店長からの電話履歴が無い。習慣で枕元の携帯の電源を付けても、09:05の文字の下に何も表示されていなかった。
遅刻はこれで5度目。ついにクビになったか。そう考えた直樹はのそりと上体を起こし、そして手持ち無沙汰にテレビを付ける。
その瞬間、彼の人生は地球と共に砕かれることを知ったのだ。穏やかなクラシックと、繰り返しのアナウンスによって。
「隕石が衝突するまで後24時間となりました。どうか地球のみなさま、最後の時を心安らかにお過ごしください」
7月7日、ベガとアルタイルが煌々と瞬き、織姫と彦星が運命的な出会いをするその日、どうあがいても地球が滅ぶという運命に、地球上の全ての人類は騒然としていた。
普段いつもテレビをつければ見かけるような大人気アナウンサーが、いつもとは違うスーツを着て、厳粛な雰囲気でテレビの前の自分たちに語りかけている。何度も、何度も……。映像をすこしかじっていた直樹は、これが繰り返しの映像だと気づく。
世界が終わるその時まで、人は労働者になり得ない。人は労働に死ぬのではない。その人生に死ぬのだ。だから皆それぞれの家庭に戻り、「自分」として最後を過ごすのだろう。
それだからか、警察も消防も、規律を守る立場の人々も自らの人生に後悔のない終止符を打とうとしている。今この瞬間、この地球上にルールなどあってないようなものだ。だからか、家の中にいても怒号や破壊音がそこらかしこから聞こえてきて、画面の中の人間が望む安らかな世界とは言えない騒然とした世界が広がっていた。
後24時間で全ての人類が滅ぶ。
なのに、直樹は何をすれば良いのか分からなかった。
彼が生まれ落ちてからの27年。その27年の道程を平均して例えるなら、起伏も障害もない、ただ平坦な下り坂だ。
特に誰ともトラブルを起こさなかった直樹が初めて挫折を覚えたのは大学受験だった。それなりで過ごしてきた彼にとって、自分らしさを求められる大学受験とは致命的に相性が悪い。地頭の悪さも手助けして、名前を言われてもパッと思い出せない三流校に後期試験で入学することになった。
その後も、まともな熱意を持たずなあなあに過ごした結果、2度の留年を経て就職の失敗。苦肉の策フリーターという今の立場に落ち着くことになった。
――9:20――
直樹は雑に焼いて真っ黒になったトーストをかじりながら、先ほどと何ら変わりないテレビを眺めていた。
「好きなこと……ねぇ」
トーストをかじった一口目で何も塗っていないことに気がつき、片手間でジャムか何かを探しながらそう独りごちた。有意義な終焉の迎え方を思いついていない。今の直樹にとっては、普段立つことの無いキッチンからジャムを見つけ出すことよりも難しいことだった。
今の直樹には狂うほど熱中する趣味も無ければ、目指している目標も無い。結局直樹が朝の支度を終える10時半まで起こすべき行動は思いつかず、いつも通り過ごすことにし、先ほど降りてきた階段を上って自室の扉を閉めた。
――16:00――
携帯の充電にポップアップで現れた、「充電残量があと10%です」の文字ではっと気がついた。あれだけ高かった日もいつの間にか傾き、空に僅かな暖色を加えている。どうやらあれから6時間近く携帯を見て時間を殺していたらしい。携帯を充電しようと机に向かったが、次の日が無いのだからこれ以上充電を延ばしても意味が無いと気づき、熱くなった携帯本体を放り投げた。
大げさな効果音や演技のような人の声がひっきりなしに流れていた部屋が数時間ぶりに静かになり、周りの音がより際だって聞こえる。外の喧噪がこの自室の静けさを浮かすように際立たせ、この自室が不思議と名残惜しいものに錯覚する。そして直樹はベット横にある、乱雑に散らかったこの部屋に似つかわしくない不自然に空いたサイドテーブルに目線を移した。
かつてそこには彼女、長谷川美夏との思い出があった。
彼の人生に、もしただ一つだけ輝いた瞬間があるとすれば、それは長谷川美夏と付き合っていた2年間だろう。
「直樹くん。ちょっと、いい?」
大学3年、合コン帰り。改札に向かおうとした時、後ろからこう言われ、帰ろうとしていた足取りを止め、振り返った。そこにはすこし頬を赤くした長谷川美夏がいた。
彼女、長谷川美夏とは学部が同じで、履修が被ることが多かった。比較的真面目な性格で、出席は欠かさない優等生。何度かレジュメを借りることはあったが、ここまでの事を言われる関係値は作っていないはずだった。
だからこそ声をかけられた理由が分からなかった。合コンで意気投合したわけではない。つかず離れずの距離感でただ一緒の空間で飲み食いしただけだ。美夏は直樹が足を止めたのを好機にまだ続ける。
「もう少し飲んでいかない? 二人で」
彼女は先ほどより赤くなった顔で笑う。駅の目の前だったのに喧噪は少しずつ遠のいていき、彼女のその姿が輝き始めた。ショルダーの空いたワンピースから除く健康的な肌色、暗くても分かるほど白い歯、その歯が顔を覗かせたえくぼの似合う笑顔。終電近くのどのきらびやかなネオンや街灯より彼女の存在はまぶしかった。その言葉の真意を理解するのに時間はいらなかった。大学3年の夏、初めて女性にお誘いされたのだ。その衝撃はあらゆる感覚を置き去りにして、ただ驚くことだけしか出来なかった。
それから美夏との関係は始まった。それは何よりも楽しく、嬉しく、素晴らしい日々だった。端から見たらそれは充実したカップルだっただろう。しかし優秀な生徒では無かった。もともと器用では無い直樹にとって彼女と勉強の両立は難しく、進級を2度逃してしまうのは予定調和とも言えた。
「ねぇ直樹、今年進級できる?」
「あー多分出来るよ」
「でも最近学校行ったの見てないよ。私もう社会人なんだけど」
美夏はすでに卒業していたが、未だに直樹は3年のままだった。
「だからなに?」
「焦りとか……、ないの?」
「何で焦る必要なんかあんだよ。なんとかなんだろ」
「……それ、いい加減にしてよ。なんとかなるなんて言って、結局なにも変えようとしてない! 計画性は? 私が好きだった直樹は何処行っちゃったの!!?」
「うるせぇな!」
灰皿が割れた。いや、自分が割ったんだ。怒りにまかせて、己が拳を振り下ろしていた。静まりかえった部屋のカーペットに赤いシミが出来ていく。薄明るい色の生地が赤黒く染まっていく。まるでそれがエンドロールだと言わんばかりに、音に焦って直樹はせき立てる。
「偉そうに言いやがって! お前に何が分かるんだよ! ちゃんとしてるお前には俺のことなんて分からねぇよ!」
言葉は止まらない。もう直樹は止まれなかった。もはや別人と成り果てた直樹は灰皿の破片を握ると、それを
様子の変わった美夏を見て、初めて自分のした過ちに気がついた。焼け付くように熱を持った顔も拳も、彼女の顔つきがすべて奪ってしまった。何も言えなくなった直樹に、ただポツリと彼女が言った。
「……間違いだったんだね。もう出てって」
その会話を最後にこの関係は終わってしまった。何より輝いていたあの笑顔はそこには無く、代わりにあったのは食いしばった歯と、体現していた怒りと失望だった。それからはもう一言も言葉を交わしていない。今じゃ何をしているかすら知り得る術はなかった。
あれだけサイドテーブルにまぶしい思い出があったはずなのに今は埃しかない。それが自分の人生のまぶしい瞬間はすでに過ぎさってしまったことを示しているようで、余計に惨めさを感じる。
誰もいなくなってしまって、周囲の騒音しか聞こえてくれない自室にただ一人。まるで世界からつまはじきにされているような錯覚を覚えた。世界に必要とされていないのなら、世界から忘れ去れるようにして消えてしまおう。そう思い、布団にもぐりこんだ。
――19:00――
睡眠が浅くなった。この時間は大体家族の夕飯の時間だ。きっと27年の生活で染みついた生活リズムが直樹の意識を眠りの泉から引き上げたのだろう。そして気づいた。まぶたの奥側が寝たときと僅かに明るい。電気を付けっぱなしにしてしまったのか、そう考え、一度目を開けることにした。
目を開けると、そこには先ほどと
なぜまだ薄明るいんだ? 部屋の中にあるデジタル時計を見ると、そこにはやはり19:00の文字が表示されている。夕日も傾き始め、電灯の光も徐々に目立ってくるぐらいには暗くなってくる。しかしカーテンの向こう側から見える外の明るさは、人の営みが終わる気配を見せないほど明るい。変だと思い、その布を数年ぶりに開いた。
そこには幻想的な世界が広がっていた。普段の街中の様子は変わらない。いつもより騒々しいぐらいではあるがそこは想像の範囲内だった。しかし、それを凌駕してしまうほどに、星空はひどく鮮烈だった。
夕日はとうに沈んでいて、太陽の光はもう水平線の下に沈みかけている。役目を終えた太陽は手短に自分の周囲を橙にそめ、宇宙は主役交代だと言わんばかりに、太陽が届かなかったところを深紺に染めていた。そのグラデーションはあまりにも圧巻であったが、その空にはまだ煌めくものがあった。隕石だ。何千、何万もの箒星が、四方八方に、しかしほぼ全てが、自分の立っている大地に向けて、空にない光色を瞬かせていた。まるで空から咲く何輪もの彼岸花のように、未曾有の流星がそれぞれ大気との摩擦で己を燃やし、太陽の代わりに空を染めていたのだった。
直樹はこれで実感する。これで世界は終わるのだ。自分達人類は、その文明と知恵を理不尽に奪われようとしているのだ。すると途端に口惜しくなってきた。最も、直樹の場合は「後5時間で何かできることはないか」ではあったが……。
あるものが目に入った。それは充電が切れかけた携帯だ。先ほどから3時間ほど立っているからか、いつの間にか携帯がもう虫の息だということを知らせている。しかし直樹が見ていたのはそこではなく、その下のバナーだった。
表示されていたのはもうまともに使われることのなくなったメッセージアプリのアイコン。長谷川美夏のアイコンだった。
大急ぎでメッセージを開くと、そこに彼女からのメッセージは無かった。代わりにあったのは「長谷川美夏がメッセージを取り消ししました」の表示。彼女が数年ぶりに、自分に何かメッセージを送ってきた証拠だった。
何年ぶりかの彼女からの連絡。これほど心がざわつくことも無かった。一体彼女は何を伝えたかったのだろうか。まるで自分で答えにたどり着け。そう言わんばかりに携帯の画面は真っ黒に暗転し、なりを潜める。
「美夏……。今何してんだろうなぁ」
言わないように無意識に避けていた彼女の名前を口にした刹那、彼女との眩しい思い出が脳を駆け巡る。彼女といることが嫌だったわけでは無い。むしろ自分の人生で、唯一主役にしてくれた彼女には感謝してもしきれない。美夏に家から追い出されたあの夜、自分は後悔した。成長し続ける彼女と、いつまでも成長することができない自分を比べ、勝手に劣等感を感じてしまっていた。
だからあの一言を吐いた。彼女なら、それを吐いても許してくれると思い込んでいたから。堕落した自分に根気強く声をかけ続けた彼女なら、自分を変えてくれると思い込んでいたから。
手のかからない観葉植物でさえ、最低限の手入れは必要だ。彼女と幸せになるためには、自分自身も成長をし続けなければならなかったのだ。今の自分ならば分かる。彼女は自分すら認めてくれる女神なのだから勝手に甘えても良いのだと解釈した。とどのつまり未熟だったのだ。未熟であるが故に、何物にも代えがたい愛を捨てた。今の境遇はきっとそれの報いなのだろう。
「謝りてぇなぁ……」
あの時若かった自分も今やアラサー。今なら、自分がどれだけの罪をしでかしたのか分かる。自分勝手な考えと理由で、何の罪も無い彼女を傷つけた。その事がどうにも心のしこりになっているのだ。そして考える。
直樹はそうやってたどり着いたのだ。自分が黙示録を目前としてするべき行動に。
そうだ。謝らなければ。あの時、どうせ出来ないと捨ててしまった夢が、一つの流れ星のように空から降りてきた。あの日全てを諦め、輝くことを辞めた自分に寄り添ってくれた彼女に謝罪の言葉を。それが、自分が最後にするべき行動なんだ。そう自覚した瞬間、あの時押さえた自分の野望が胸の内で息を吹き返す。静かでいつも通りだった心臓が激しく脈動をしだす。
そして激しく脈打つその胸はやがて大きな衝動となる。いつの間にか、その衝動は自分の体を突き動かしていた。
直樹は躊躇しなかった。確実に会える保証はどこにも無い。だが、最後に言い争ったあの家にきっと彼女はいるだろう。そう本能だけが言っていた。バイトで使うスニーカーを履き、家の鍵も閉めずに駆け出す。戸締まりなんて知ったことか。今は何より時間が惜しい。30キロ以上の遙か遠い旅路を駆け抜けねばならないと認識するには、直樹の心臓の鼓動はいささか激しすぎた。
机の上の時計は19:15と表示している。この時この瞬間、彼の贖罪のエピローグは、こうして始まったのだ。
――23:15――
一周回って閑静な住宅街。直樹がマンションにたどり着いたのは、まさに地球が終わる45分前。変わらぬ学生街だと思ったが、すぐに否定した。
そういえば、あの時と明らかに違っていた点があったな。見上げた空は昼よりも明るく、赤白く染まっていた。いや、赤白で埋め尽くされていた、と言った方が良いかもしれない。先ほどの色鮮やかな彗星はもう見えず、頭上に輝く星一つが、炯然と存在感を露わにしていた。
かつて入り浸っていた家、通り慣れていたコンクリートの道路、ハザードランプを炊いてそこに普通に止まる普通車一台。そして、目の前にいるスーツ姿の
約束を交わした訳では無い。メッセージを見ることが出来たわけでも無い。ただ予感だっただけだ。いるかもしれない、会えるかもしれない、ただなんとなくそう思っただけなのに。直樹はただ驚くことしか出来なかった。
追い出され、もう来ることは無かったかに思えたそのマンションの前にはかつての彼女、美夏がいた。
「ひさしぶり。直樹」
ぎこちない笑顔で美夏は声をかける。えくぼの良く似合う、変わらない笑顔だ。ただ、その顔にかつて会った若々しさはない。自分たちはすでに27歳。しかも美夏は社会に出ている。寄る年波とつきまとうストレスには叶わない。彼女はすでに
「その……。随分変わったね」
「そりゃこうなっちゃうよ。5年も社会人やってたらね」
そう言って彼女は胸ポケットから煙草を取り出して、吸い始めた。右手にキラリと、何か光るものが見える。その煌めきは、変わらなかった直樹には眩しすぎて、それを指摘せざるを得なかった。
「それ……」
「あ、煙草? 社会人になるといろいろあってさ、私も吸うようになっちゃった。直樹も良く吸ってたよね」
「いや、違……」
美夏は最初何を言っているのか理解できなかった。が、直樹が指輪に気づいていることに気がつき、その挙動不審に合点がいった。
「あー指輪か」
動揺が隠せなかった。こんなことを言う道理は無いはずなのに、自分の宝物をいつの間にか盗られたような絶望感に、ただ目を泳がせるしか出来なかった。
「5年も立てば、いろいろあるんだよ」
煙草の煙を気だるそうに吐き出して、大人になった美夏は答える。うす灰色をした煙がキラキラしてたはずの彼女に取り巻き曇らせる。その目は嫌悪感を孕んでいる。
「とっくに私の事ブロックしてると思ってた。なんで分かったの? ここにいるって」
「分かんない。分かんないけど……」
核心があった。きっと美夏はここにいてくれているって。だってそこは、自分の人生に光を点してくれていた場所だったから。だが、それを言うには気恥ずかしすぎるし、色んなことがありすぎる。
何か言いたいが、何を言えば良いのか分からない。何かを言おうとしてるが、鼻の奥でそれを塞き止めてしまう。気持ちだけが先走る。
「で、直樹はなんでここまで来たの? まさかただそんな姿を見せたかったわけじゃ無いでしょ」
昔の話とはいえ、お互い付き合った間柄、近況は知らないが、癖は知っている。直樹が目線を右下に向けるのを見て意図を汲み取ったのか、美夏は助け船を出してきた。
「俺は……」
瞬間、遠くの方でドンと爆発音が聞こえた。赤色の軌跡は一閃を描き、衝撃波と土煙を回りに散らす。もう時間がない。確定された人類滅亡のの瀬戸際だ。落ち着いて、最後の言葉を伝えるんだ。かつて輝いていた、僕の一番星に。
「ごめん。あの時、最低なことを言って。最低な俺でごめん」
一度深呼吸をして、そして頭を下げる。バイト先で見せるような形だけのものじゃない。誠心誠意、心からの謝罪だ。そして、胸のうちに秘めた言葉を明かす。
「ただ、悔しかったんだ。美夏は成長してるのに、俺は変われない。そんな現状を突きつけられるのが、ただただ情けなくて、辛かった。君に、失望されたくなかった。失望されたくなかったのに、させてる自分が大嫌いだった」
「そして何より、君に向かって灰皿を投げた。尽くしてくれた君にあんな仕打ちをした。本来なら、顔すら合わせる権利は無いのかもしれない。でもここに来た」
だから、ええと、つまり……。口が上手く言葉を紡がない。上手くまとめられなかった。しっかりと伝えなくちゃ。その気持ちだけが先走り、何が言いたいのか分からなくなってしまった。周りの流星の音は次第に数を増やしていく。声も聞こえなくなってきた。ただ、美夏は、直樹の言葉をじっと聞いていた。
「しっかり目を見て、ごめんって伝えたかった。それと、ありがとうって」
いつの間にか、自然と目は合っていた。彼女の姿に重なって見えた自分の罪から目を背けなくなっていた。いつしか彼女の姿より小さくなって、そして、ついに彼女しか見えなくなった。その瞬間。唇になにか暖かいものが当たった。
キスだ。彼女からの、5年ぶりの甘酸っぱくない、ほろ苦い大人のキス。唇に気を取られていて気がつかなかったが、いつの間にか彼女の華奢な手が自分の手に重なっていることに気づく。冷え切った手が彼女の健気さを暗に語っていた。きっと長い時間、この寒空の下で待っていたのだろう。美夏はその手を、今度は自身の腹に添えてきた。
「実はさ、ここに子どもがいるんだ。今の旦那との子ども。今5週目」
直に触れて初めて分かった。彼女の腹部が僅かに膨み、張っている。お腹に命が宿っている何よりの証明だった。そしてそれは、自分の人生の敗北の証明のようにも感じられた。やっぱり俺は、彼女に会うべきで無かったんだ。これは彼女からの復讐なのだろう。あんたといたときよりも私は遥かに幸せですと、そう表現されているように感じてしまった。
自分の人生の、たった幾ばくかの輝いた瞬間を否定されてしまったようで、視界がぐらついた。ただ、これも最後に出来る贖罪だ。彼女の言葉を待って、そして死刑宣告を受けよう。そう思い、直樹は次の言葉を待った。彼女は続ける。
「私、幸せだよ。幸せだと思ってた。思ってたはずなんだ。でも、やっぱり考えちゃう。直樹との子どもだったら良かったなって」
彼女の表情が僅かに曇り、目線が外れた。正直何故かと問い詰めたかった。自分より遥かに良い人を見つけ、結婚し、子どもを成した。幸せという言葉の代名詞じゃないか。なのになぜそのような、満たされないような、曇った表情をしているのか。彼女はその困惑を見ずとも見抜いていたのだろう。うつむいたまま
「全部分かってた。分かってたからここに来たんだよ」
そうつぶやいた。そして続ける。
「直樹なら、またこうやって戻ってきてくれるって。2年間、私だけが楽しかったんじゃ無いんだって否定しに来てくれるって、どこかで信じてたんだよ」
世界は崩れている最中なのに。無慈悲の鉄槌は降り注いでいるはずなのに。なぜか彼女の言葉は耳に届き続ける。それは彼女が胸に秘めていた秘密。なぜ、
「この5年間、ずっとどこかで直樹の事考えてた。不器用で、変わろうとする姿だけは誰よりも立派だった。それが大好きだった。不器用なデートプランも、私のために変わろうとする姿勢も。誰よりも好きだった」
そこまで言って彼女は離れていく。いつの間にか短くなった煙草を、もういいかと道ばたに捨てながら。落ちる煙草の火花がちらちらと煙の軌道にそって散っていく。彼女は煙を目で追いながら空を見た。火花の儚さとは比べものにならない星々が、もう目前に迫っていた。絶望なんてこれっぽっちもない彼女の顔が、七色の煌めきに照らされ、自分を魅了する。
「だけど最後は正直疑ってた。あの喧嘩の日から、直樹を完全に信じられなくなっちゃった。その姿勢も私ってアクセサリーを手放したくないからなんじゃないかって。だからここに来て、待とうとしてた。もし来なかったのなら、私の好きは無駄だったんだって。それで諦めようとしてた。でも怖かった。私の好きが無駄だったのかもって突きつけられるのが怖かった。だから、直樹が見る前にメッセージ消しちゃったんだ」
巨大な星からこぼれた欠片が、自分の存在証明を上書きするようにあちらこちらに穴を開ける。まるであの日手からこぼれた滴のように。あの時は薄明るい思い出を赤黒く染めた。今度は薄暗い今を明るく壊していく。時間は深夜。空はもう暗いはずなのに、昼と同じぐらい明るいはずなのに、彼女はそれより一際輝いて見えた。
「なのに会いに来てくれた。メッセージ消して、伝わるわけが無いのにこうやって再会出来た。まっすぐっていうか、素直っていうかさ。自分が正しいって思うことに頑張れるって、この世の全ての人間に出来る事じゃ無いと思う。だから私は、直樹がまだ好きなんだ」
ひらりと振り向いたその姿は自分の目玉を虜にした。27歳。既婚女性。そんなことを一切感じさせないような快活で明るい、元気な姿。あの時の長谷川美夏その人だった。彼女はそのまま指輪をはずし、どこかに放り投げる。放った指輪はどこか明るい響きをさせて、彼女の口を綻ばせる。そんなこと気にせずに彼女は続ける。
「それにほら、世界の終わりだよ? 人生最後の時間に私を選んでくれた。そして謝ってくれた」
ここまで言い切ると同時に、視界の端に何か見えた。それは隕石だった。目の端で捉えたのは、彼女の車の真上に隕石が落ちてくる瞬間。直樹と車に挟まれる形で美夏は立っている。このままだと、彼女は巻き込まれてしまう。そう考える前に体は動いていた。駆け寄って、手をつかみ、自分側に引き戻す。それと同時に響く爆発音。彼女の車が隕石によって砕き爆ぜた音だった。そうだ。長年腐って生きていたから忘れていた。自分は彼女のためなら何だって出来るんだ。
「やっぱり私、間違ってなかった」
直樹の腕の中で、笑顔でそう続けた。それは、あの日見たような、えくぼの似合う素敵な笑顔。微笑む目には星が輝き、もう世界終焉が目の前に迫っていることを示している。自分は彼女に釘付けだ。
その後に言葉はいらなかった。満点の星空、降り注ぐ帚星。降り注いだ石の雨はやがて地球の文明を砕き、そこには瓦礫と、何も無くなった地平線のみ。そこにただ二人だけ。瓦礫と炎、そして瞬く天の川の星光りが彼等を照らす。直樹はなにかを口にして、愛おしそうに美夏をなでる。美夏は直樹の手に手を添えて、嬉しそうに笑い……
そして目尻に星一つ。最後にキラリと瞬いて、世界はやがて白くなる。二人だけの世界に隕石が落ちていく。
もう空は見えない。それでもなお感じることが出来る。ああ。やっぱり君は僕の
ベガとアルタイル ※なまえを きめて ください @nanashi0320
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます