第3話 同じ左目

 十歳になった王彪おうひょうは、もう一人前の男になった気で邸宅を抜け出し、都の城外にある山中へ一人で探検にでかけた。


 そして迷った。

 とりあえず下山しようと歩き回っているときに見つけた獣道を辿っていくと、途中から上り道になり、さらに大岩が現れたため引き返そうとしたが、ふと岩の裂け目に気がついた。一見亀裂が入っているだけに見えるが、近づくと通り抜けられるだけの幅があった。


 警戒しつつ覗き込むと奥から光が漏れてきていることがわかり、もしかしたら反対側の斜面に出られるかもしれないと、岩の裂け目を通り抜けたのだが、その先の光景に驚いた。


 まるで一幅いっぷくの絵のようだった。

 その美しさに遭難していることなどすっかり忘れ、しばらくの間立ち尽くしていると、突然後ろから肩を叩かれた。


「うわー!」


 びっくりして大声をあげつつ振り返ると、そこには自分より少し幼く見える子供が立っていた。


「あ、ごめんなさい。おどろかせちゃって」


 その子は困ったような顔で謝りつつ、王彪おうひょうへ一歩近づいた。

 肩を叩かれたとき、とっさに数歩後ずさってはいたが、それでも近かった距離をさらに詰められそうになったことで動転した王彪おうひょうは、慌てて離れようとして足がもつれ、しりもちをついてしまった。


 無防備なまま思い切りしりもちをついたため、臀部でんぶの痛みに思わず目をぎゅっと瞑って涙をこらえた。


「大丈夫?」


 タタっと駆け寄る足音がして、すぐ近くから心配そうな声が聞こえた。

 目を開けると、自分を覗き込んでいた相手と目が合ってしまった。それもかなり近い距離で。

 その瞬間、王彪おうひょうの思考は停止した。彼の目は相手の左目にくぎ付けになっていた。その瞳には自分の左目にあるのと同じ傷の模様があったのだ。

 時がとまったかのように、お互い無言のまま見つめあった。

 世界から切り離された次元に二人だけが存在している、そんな風に思えるほど、その他の一切が排除されていた。


 ふっと相手が笑ったことで王彪おうひょうは我に返った。


「あ、えっと……」


「立てる?」


 王彪おうひょうはしどろもどろになりながらも、差し伸べられた手を取って立ち上がった。

 とりあえず礼を言わなければと、改めて相手の顔を見てまた言葉を失った。


(めちゃくちゃ可愛い)


 ゆるく弧を描く眉と長いまつ毛に縁取られた大きな目は、それだけでも人を惹きつけるのに十分な魅力があるのに、小さくつんとした鼻も薄紅色の唇も愛嬌があり、それらが完璧なバランスで配置されている。

 さらに色白の肌は蒸したての餅のように柔らかそうで、思わずその頬をつつきたくなるほどだ。


「少し座って休もう」


 王彪おうひょうがまだ呆然としているのを、気分が優れないのだと思ったようで、握ったままになっていた手を引いて適当な岩へ座らせてから、革の水筒を差し出して水を飲ませてくれた。


 落ち着きをとりもどした王彪おうひょうはどうにか「ありがとう」と言うことができた。


「どういたしまして。気分はよくなった?」

 聞きながら隣にちょこんと腰かけた相手の二の腕が少し触れ、妙に胸が高鳴ってしまう。体が触れないようわずかに横にずれながら改めて見ると、質素なほうを着ていて、高い位置にまとめられた髪には簪もなく、巻かれた布の端が垂れさがっている。

 その格好から平民の男児なのだと思われるが、どうにも顔が火照ってしまい、それをごまかすために手でぱたぱたと顔を扇いだ。


「うん、大丈夫だ。ちょっと暑かっただけ。それよりここって明山めいざんだよな?」


「そうだよ」


「知らなかったな。都の寿京じゅけいからすぐの山なのに、こんな場所があるなんて」


寿京じゅけいに住んでるの?」


「ああ。おまえはどこから来たんだ?」


「同じ。寿京じゅけいだよ」


「そうか、一緒に来た人は?はぐれたのか?」


「一人で来たんだ」


「おまえひとりで?危ないだろ」


「君こそ、一緒に来た人はいないの?」


「俺は十歳になったから一人でも大丈夫なんだ」


「なんだ、同い年じゃない」


「え!おまえ十歳なの?」


「よく幼いって言われるんだ。背もちょっと低いから……」


 王彪おうひょうは相手が気にしていることを言ってしまったのだと気づき、話題を変えることにした。


「あ、そういえば名乗ってなかったな。俺は王彪おうひょうって言うんだ。」


「え?」


 名乗った途端に驚いた表情を向けられたため、王彪おうひょうは相手が自分のことを知っているのかもしれないと思った。

 今日初めて会った相手が自分を知っているかもしれないと思うのにはちゃんと理由がある。王彪おうひょうの父、王燕おうえんは左丞相として一国の王を補佐する要職についている。寿京じゅけいに大きな邸宅を持ち、権勢を振るう王氏一族はかなり有名なのだ。

 その王家の嫡子である王彪おうひょうは良くも悪くも人々の噂話の種になりやすかった。


「俺のこと知ってるのか?」


 知っていても不思議ではないと思い聞いたところ案の定「左丞相の?」と返事が来た。


「そうそう、父上が左丞相の王家の王彪おうひょうだ。で、おまえは?」


「あ……、え、その……」


 先ほどまでとは打って変わって言葉に詰まってしまった相手を見て、身分の違いに恐縮しているのだと思った王彪おうひょうはいかにも大したことではないという風に軽い口調で話した。


「なんだよー、俺が王家の人間だったら名前も教えてくれないのか?」


「いや、ちがうよ、そんなんじゃなくて……」


「じゃあなんていうんだ?」


「……秀」


「ん?なんだって?」


宋秀そうしゅう


 王彪おうひょうの方を見ずに小声で答えたその様子に、やはり身分を気にしているのだと思ったが、そんなことはどうでもよかった。王彪おうひょうはすでに心に決めていた。宋秀そうしゅうを必ず自分のそばに置くと。


 宋秀そうしゅうの左目を見たとき、正確にはその瞳に自分と同じ傷の模様があるのを見た瞬間、これまで漠然と抱いていた恐怖心が消えたのだ。

 極めて簡単に言うならば、運命を感じた。


 得体のしれない不気味な模様を見るたびに、何か大きな罪を犯したような、そしてそれを責められているような、耐えがたい苦痛を感じていた。

 誰かに話したいと思っても、いざ話そうとすると言葉が出てこない。結局一人で苦しむ以外にどうしようもなかった。

 だから鏡を見ることをやめたし、家族以外には一定の距離をとって目を合わせないことでどうにかやり過ごしてきたのだ。


 十歳になり、同年代の従者をつけようと、父親が家格の良い子息たちを連れてきたこともあったが、なんだかんだ理由をつけて選ばなかった。


 だがこの宋秀そうしゅうを従者とすればいつでも一緒にいることができる。もうわけのわからない恐怖に苛まれることがなくなるのだ。


宋秀そうしゅうっていうのか。寿京じゅけいのどこに住んでるんだ?」


「え……」


「家だよ。おまえが住んでる家」


「えっと、左丞相府からは、遠い……かな」


 左丞相府は寿京じゅけいの北東区画にある。そこから遠いとなると対極の西南区画だろうか。そこで王彪おうひょうは、なるほどと思った。西南区画には大きな寺がある。寺では身寄りのない子供たちを弟子として受け入れていた。


「もしかして白夏寺はくかじの弟子か?」


「え!?」


 振り返った宋秀そうしゅうの大きな目は驚きでさらに大きく開かれていた。


「確か、朱雀門から近いところにあったよな。おまえそこの坊に住んでるのか?」


「……」


 宋秀そうしゅうが何も言わずにいたため、肯定と受け取った王彪おうひょうは、孤児である彼が左丞相の息子の前で自分の身分を明かすことに気まずさを覚えているのだと思い、それ以上は聞かないことにした。


「まあ、どこに住んでてもかまわないよ」


 そう言うと、腕を組んで何か考え事をするように視線を斜め上に向けた。

宋秀そうしゅう王彪おうひょうが追及をやめたと思い、小さくほっと息をついた。

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