第2話 郷愁の地

 王彪おうひょうは体を起こし、地面に寝そべったままの蘇秀そしゅうの顔を見つめた。


(前は可愛い顔だったのに……)


 蘇秀そしゅうは子供のころ、ふわふわとした細い毛や垂れ気味で大きな目、色白でふっくらとした頬にさくらんぼを思わせる赤い唇で、非常に可愛かった。


 だが今はすっかり変わってしまった。

 濃くはっきりした眉と切れ長の目はやや吊り上がり気味で、高い鼻と薄い唇は冷たそうな印象を与える。造形的には美しいと言えるが、その美しさがかえって威圧感を増幅させ近寄りがたい雰囲気をまとっている。

 今の彼を見てかつての蘇秀そしゅうだとわかる人はいないだろう。


 王彪おうひょう蘇秀そしゅうの目が好きだった。薄い茶色の瞳にはいつでも自分に対する親しみが込められていた。

 だが純粋に好意を感じられるからという以外にも理由があった。

 蘇秀そしゅうの左目の虹彩には、斜めに傷がついているかのような模様があったのだ。


 実は王彪おうひょうの左目にも同じ模様があった。

 彼は幼いころ、初めて自分の目にある模様を見たとき、たまらなく不安な気持ちになった。地の底に引きずり込まれるような、得体の知れない恐怖に体が震えるほどだった。

 近くで見なければわからないものだったが、彼は鏡を見るのを避けたし、他人に見られるのも嫌で、距離をとるようにしていた。


 しかし蘇秀そしゅうと出会い、その左目に自分と同じ模様を見つけたとき、心の底から安堵したのだ。

 そのときからずっと、王彪おうひょうにとって蘇秀そしゅうは特別な存在であり、できる限りそばにいたいと思っていた。


(左目だけは変わってなくてよかった)


 王彪おうひょうが昔を思い出しながら親友の顔に触れようと手を動かしたとき、懐から小刀を取り出した蘇秀そしゅうが自らの左手の甲を切った。


「え?」


 思わず声が出たが、蘇秀そしゅうはそれにはかまわず、左手を差し出してくる。傷口からはどくどくと血が流れている。


「早く飲め」


 蘇秀そしゅうの言葉にはっとして、王彪おうひょうは慌てて自分の手で傷を押さえた。


「何やってんだよ、止血しなきゃ」


「止血したらまた切らないといけなくなるだろう。早く飲め」


「そうじゃなくて、俺は血が足りなかったわけじゃ……」


 言いかけたとき、横から黒い塊に突進され、王彪おうひょうの体は蘇秀そしゅうの上から転がり落ちた。

 何回転かしてうつ伏せに倒れた王彪おうひょうが顔を上げると、黒い塊が蘇秀そしゅうに覆いかぶさっていた。


「おい黒毛玉くろけだま!なにすんだ!」


 黒い塊は王彪おうひょうが声を掛けるもおかまいなしで、尻尾を振りながら蘇秀そしゅうの左手を一心不乱に舐めている。


「無視すんな!」


 憤慨している王彪おうひょうをちらりと見た蘇秀そしゅうが体を起こし、左手を舐め続けている大きな犬の頭を撫でた。

 この犬は蘇秀そしゅうの飼い犬で、たっぷりとした長い黒毛に覆われている。


くろが戻ってきたということは、この辺りにあいつの手がかりになりそうなものは何もないだろう。帰ろう」


 王彪おうひょう黒毛玉くろけだま蘇秀そしゅうくろと呼ばれた犬は、主人が顔を近づけるとせわしなく口を舐めた。

 王彪おうひょうは起き上がり、ずかずかと近づいていくと黒毛玉くろけだまを後ろから抱きかかえ蘇秀そしゅうから引きはがした。


 きゅんきゅんと鼻をならしてじたばたする黒毛玉くろけだまを乱暴にぐしゃぐしゃと撫でまわしてから離してやると、今度は王彪おうひょうに飛び掛かって顔を舐めて来る。


「ぶはっ!やめろって!もう!」


 一人と一匹がじゃれあっている間に左手に布を巻いた蘇秀そしゅうが先に歩き始めていた。


「帰るぞ」


「わん!」


 自分から離れて勢いよく蘇秀そしゅうを追いかける黒毛玉くろけだまを見ながら、王彪おうひょうは深くため息をついた。



 それから一晩歩き続け、日も登ったころに隠れ家のある山へ戻ってきた。

 獣道を上ってしばらくすると大岩があり、人ひとり通ることができる亀裂を抜けると、四方を崖に囲まれた草地がある。それほど広くはないが、湧水が溜まった泉の周りには花が咲き、いくらか生えている木の木漏れ日がきらきらと光る幻想的な風景の中、つる植物に覆われた岩肌に洞窟への入り口が隠されていた。

 王彪おうひょうが子供のころに見つけた秘密の場所で、蘇秀そしゅうと初めて出会った場所である。


 この洞窟の奥が彼らの現在の拠点だ。


「あ~、やっと帰って来られた」


 王彪おうひょうは大げさに体を伸ばしてから、洞窟内の一角に敷かれたむしろの上にどっかりと腰をおろした。すかさず黒毛玉くろけだまが隣に寝そべってくる。座っている王彪おうひょうの太ももへ片方の前足をかけて、撫でろと言わんばかりにぐいぐいと力を入れるので、王彪おうひょうは前足を掴んで黒毛玉くろけだまをひっくり返した。


「まったくおまえは、節操のないやつだな」


 仰向けで腹を撫でられながら黒毛玉くろけだまは気持ちよさそうにうっとりとしている。

 洞窟内の壁面に置かれた松明へ火をつけ終わった蘇秀そしゅうが近づいてきて言った。


くろはどこも欠けていないだろう」


 一通り黒毛玉くろけだまの体を撫でていた王彪おうひょうは頷いた。


「ああ、大丈夫だ。それにこいつは昨日お前の血を舐めてただろう。霊力も足りてるだろうし、見ろ、この満足そうな顔を」


 王彪おうひょうに顎をつかまれて蘇秀そしゅうの方へ向かされた黒毛玉くろけだまの顔は、まさしく満足そうだった。

 普通の犬と何一つ変わらないこの愛くるしい黒毛玉くろけだまも、王彪おうひょうと同じくずいぶん前に死んでいる。


 蘇秀そしゅうの術によって、生前と同じように主人たちに可愛がられている黒毛玉くろけだまだが、本来この犬は白かった。

 真っ白な綿毛のような子犬だった時に、王彪おうひょうから蘇秀そしゅうに贈られたのだが、その時にはすでに王彪おうひょう白毛玉しろけだまと呼んでいたため、蘇秀そしゅうは他に良い名をつける機会を逃してしまった。


 そして今は黒くなってしまったので白毛玉しろけだまから黒毛玉くろけだまへと呼び方も変わってしまったのだ。

 色こそ真逆になったが、かつての通りいたずら好きで甘えん坊な性格は少しも変わっていない。

 目の前で腹を撫でられ、うっとり満足気なその顔を見た蘇秀そしゅうは、わずかに表情を緩めたが、すぐに王彪おうひょうへ向き直り、彼の正面まで来てしゃがんだ。

 そしてそのまま何も言わずに王彪おうひょうの帯を引っ張った。


 王彪おうひょうは一瞬息を呑んだが、蘇秀そしゅうが無表情で淡々と帯をほどいているのを見て冷静になった。


(昨日のことは何にも気にしてないんだな)


 蘇秀そしゅうがほどいた帯を置き、着物を脱がせるため衿を掴んだときに目が会った。


「どうした?」


 じっと見つめてくる王彪おうひょう蘇秀そしゅうは怪訝そうに聞いた。


「別に。ただ子供の頃にもお前がこんな風に俺の服を脱がせたことがあったなって、思い出しただけだ。覚えてるか?」


「覚えている」


「あれがもう十五年くらい前なんだな」


「そうだ」


 王彪おうひょうは目の前にある薄茶色の瞳を見ながら、自分たちが出会った頃の情景に思いを馳せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る