六界外道の下の下の一人

生為愉楽

第1話 こんなことをしているのはそうしたいから

 とにかく夢中で貪った。


 さっきまで王彪おうひょうは目の前にある、噛み締められた唇からうっすらと血が滲み出るのを見ていたはずだった。その血が玉になり、滴り落ちそうになった瞬間、自らの舌で舐めとった。


 舐めとられた相手、蘇秀そしゅうは目を見開き、直前まで怒りに満ちていた顔いっぱいに困惑の色を浮かべている。


 王彪おうひょうはショックを受けた。

 蘇秀そしゅうの表情にではない。舌先についた血があまりにも美味うますぎたためだ。


(なんだよこれ!今までと全然違う)


 実際のところ、彼の血を口にするのは初めてではない。諸事情により割と頻繁に飲まされている。毎回必要があって飲むわけだが、足りないものを補う充足感はあっても、今回のような感覚は初めてだった。


 全身の毛が逆立ったようにぞわぞわして、足が震え手にも力が入らない。

 舌に広がる濃厚な味が喉に流れ、鼻から抜ける香りに頭がくらくらする。

 泥酔したかのように物事が考えられなくなり、自分が何をしようとしているのか理解しないまま体は動いていた。


 王彪おうひょう蘇秀そしゅうの顔を両手でつかみ、大きな林檎にでもかぶりつくかのように唇を貪った。

 血の止まっていない唇からはこれまで口にしたどんな美酒佳肴にも勝る甘露が流れ込んでくる。

 傷に舌を押し当てて擦り、甘噛みしては吸いついて嚥下する。

 何度も喉をならして飲み込むたび、腹の中まで熱く痺れてくるような気さえした。


(もっと欲しい、もっと、もっと……)


 もはや唇ではなく、口の中に侵入しようと舌を差し入れた瞬間、ものすごい力で両肩をつかまれ引きはがされた。


「おい!何をしてるんだ!!」


 蘇秀そしゅうは羞恥なのか怒りなのか、顔を真っ赤にして王彪おうひょうを睨みつけていた。

 

(何って、わかんないのか?)


 ぼんやりしたまま再度唇を重ねようと顔を近づけると、蘇秀そしゅうはさらに両手に力を入れ王彪おうひょうを押し返し、体を仰け反らせて顔をそむけた。

 その拒絶の態度にひどく不愉快になった。


蘇秀そしゅう!俺が何をしてるかだって?わかんないのか?」


「わからん」


「お前!」


「……」


 蘇秀そしゅうはしばらく王彪おうひょうを見つめたあと、肩に置いていた手を滑らせて腕を撫で、胸、腹、腰、足と順番に確かめていった。


「欠けてはいないようだが、どこかひびでも入ったのか?」


 王彪おうひょうは片方の眉を上げて、どこか嘲笑するような、挑発的な笑みを浮かべて言った。


「ふん、お前のお人形はぴんぴんしてるよ。でも、そうだな、どこか傷がついてるかもしれない。もっとしっかり見たほうがいい。ほら、いつもみたいにやれよ」


 言いながら帯をほどいて簡素な衣の合わせを左右に開いたが、その手を止められた。


「それなら戻ってからにしよう。こんな山中では危ない」


「別に危なくないだろ。さっきまであのクソ妖怪が暴れてたせいできれいに更地になったし、獣一匹だって残ってない」


 まわりを見渡すと四方数十丈(一丈=2.3メートル)あまりの木々がなぎ倒され、放射状に吹き飛ばされた形になっている。


 蘇秀そしゅう王彪おうひょうは先ほどまでここで敵と対峙していたのだ。

 二人にとって仇敵ともいうべき相手であったが、捕らえることができず逃げられてしまっていた。


「ほら、早く見ろって」


 王彪おうひょうがさっと衣を脱ぎ上半身裸になって蘇秀そしゅうの顔を覗き込んだ。


「わかった。手早く済ませよう」


 もう一歩近づこうと踏み出した蘇秀そしゅうの足が地につかないうちに、王彪おうひょうは素早く自分の足を割り入れ、浮いている足のかかとを軽く蹴り払った。

 そして蘇秀そしゅうがバランスを崩したところにのしかかり、思い切り地面に押し倒した格好になったのだ。


「おい!いい加減にしろ!なんでこんなことを……」


 言い終わらないうちに蘇秀そしゅうの口は王彪おうひょうの口付けによってふさがれてしまった。


 唇から出ていた血は止まりかけていたが、凝固していた部分を擦りとるような、執拗に吸いつくその動作に、蘇秀そしゅうは心の内でため息をついた。


(やはりどこか欠けているようだな。一度気のすむまで飲ませてしまったほうがよさそうだ)


 蘇秀そしゅうはいったん唇を離してもらうため、馬乗りになっている王彪おうひょうの腰あたりをぽんぽんと叩いた。


 優しく腰を叩かれたことで、自分を無理に引きはがす気はないと判断した王彪おうひょうは少しだけ顔を上げ、唇は触れたまま「なに?」と答えた。


「お前の気のすむようにするから、一度体を起こせ」


「気のすむようにって、何?」


「いいから体を起こせ」


「やだ」


「……はあ、いったん体を起こしてくれれば好きにしていい」


「言ったな。俺を突き飛ばしたりするなよ」


「しない」


 王彪おうひょうはようやくゆっくりと体を起こした。

 大柄でがっしりとした蘇秀そしゅうに比べれば幾分か華奢に見えるその体は、生身の人間のものではない。

 彼はもう何年も前に死んだのだ。


 月明かりに照らされた肌は透き通るように白い。

 いっそ青みを帯び、月長石の細工物のように、現実味がない。


 彼を今この世に繋ぎとめているのは蘇秀そしゅうなのだ。

 蘇秀そしゅうの術がなければ魂はとっくに食い散らかされ、呼び戻すこともできなかっただろう。


 二人の関係は幼馴染と言ってよい。

 古くからの親友である彼らにはもちろん固い絆があった。だがその感動的な絆の力によってのみで魂の残留が成し遂げられるほど、この世の理は甘くない。


 蘇秀そしゅうが使った術は、呼び出したものの魂を血の泥で作った人形に封じ、己に隷属させて使役する、いわば外道のものだった。


 紅泥成形招こうでいせいけいしょう

 本来、王彪おうひょうの生家である王家にのみ伝えられていたこの外道の術を、蘇秀そしゅう王彪おうひょうに使った。

 王彪おうひょうは術者である蘇秀そしゅうに隷属することで、現世で生者と同等に活動しうる体を維持している。

 隷属しているとはどういうことか。すなわち支配され自由を奪われるということだ。血泥人形ちどろにんぎょうは術者に命じられればどんなことでも応じる。逆らうことはできない。


 だが、今の王彪おうひょうはどうだろうか。

 行動も感情も好きなように逆らい文句まで言っている。主人である蘇秀そしゅうの「体を起こせ」という極めて簡単な命令にすら反抗的である。


 このようなことが可能な理由はただ一つ。蘇秀そしゅう王彪おうひょう血泥人形ちどろにんぎょうに封じた際にした命令は「何にも縛られず、全て望むままにせよ」だけだったからだ。


 そんなわけで、完璧に隷属している存在であるはずの王彪おうひょうは己の望むままに、主人をすっころばせ、その上に跨り、唇を貪っていられるのだった。


(「なんでこんなことを」だと?したいからに決まってるだろ。お前は……お前は何にもわかんないんだろうなクソったれ!!)


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