第3話「世界五分前仮説」

 俺はフードコートの椅子にどっかりと腰を下ろし、七芽と向かい合った。

 こいつとは高校時代からの腐れ縁。仲がよかったかと言われると疑問だが、なんとなく昔から放っておけなかった。

 だってこいつ、斜め上過ぎるんだもの。

 こっちは春から大学デビューでエンジン全開、やれサークルだ、やれ合コンだとはしゃぎまくり。特に、二つ上の小野先輩は、同じ学部ということもあってよく面倒を見てくれて、正直俺の心にどストライク。連絡先を交換してたまに話すくらいの関係をどう発展させようかと、そればかりに腐心していた。

 そんな毎日で、七芽とは顔を合わすこともなかった。それで先日、久々に廊下ですれ違ったら、若干痩せていて顔色も悪い。どういうことか問い詰めると、「単位制」の仕組みを理解するのがものすごく大変だったとか。

 ――いや、聞けよ!

 俺でよければいくらでも教えたよ? 何なら同じ大学に兄貴もいるから、講義選択のコツなんかも伝授できたよ?

 見たところ連れもいなさそうだったし、こりゃあボッチ街道まっしぐらだなあと俺は判断した。でも俺がずっと一緒にいるわけにもいかない――それではこいつのためにもならない。

 そこで、四月に配布されたサークル紹介の冊子を半ば強引に渡し、とりあえず見学でもして来いと焚きつけたわけだ。

 そうしたら、こいつは素直に見学をしてきたと言う。しかも、「好きな人ができた」という報告付きで。

 そこまで言われたら、俺としてもじっくり話を聞かねばならん。この七芽が俺の伝えたとおりにサークル見学……きっとかなりの勇気を振り絞ったに違いない。その気持ちに応えるのも友の役目だろう。

「それで、どうだったんだ? 見学は」

「ああ、読書サークルがいいかなと思って、見学してみたんだけど――」

 七芽は見学の様子を語ってくれる。

 どうやら、自分に合ったサークルを見つけられたようだ。メンバーとも打ち解けたようだし、何よりサークル長の存在が大きい。

 七芽自身は気付いていないかもしれないが、サークル長がうまいこと取りまわしてくれていたのだろう。「思考実験」がどうなのかは置いておいて、七芽のために骨を折ってくれたのは間違いない。

 てことは、こいつは、そのサークル長にホの字(古いか?)なのだろう。読書サークルのトップって誰だっけ、と考えるが、読書と縁遠い俺には分からない。

「すてきな人だったんだ。決して主張しすぎず、でも場を上手に和ましてくれて……」

 いつの間にか、七芽の話は恋する相手の賛美に移っていた。

 色恋の話をこいつから聞いたことは皆無だ。自分が好意を向けられても気付かない節さえある。

 ――いいじゃねえか。

 無性に応援したくなってきた。

「それで、連絡先を聞いたり、告白したり、って予定はあるのか?」

「え? ああ、そうか。連絡先と、告白ね。うん、そうね」

 反応を見て唖然とする。こいつ、恋したはいいものの、その進め方を全く知らないんじゃあないか?

「とにかく、この先関係を深めて、ゆくゆくは恋人になりたいって気持ちはあるんだろ?」

「え? あー、ない」

 ――ないだって?

 俺は頭を抱える。さっきまで目をハートにしてしゃべっていたじゃねえか!

「ちょ、ちょっと待てよ」

「待つ」

「お前は、その人のことが好き。これはオーケーな?」

「もちろん」

「でも恋人にはなりたくない」

「そう」

「そこが分からないの!」

 大きな声を出しすぎたらしい。近くにいた女子高生たちから怪訝な目を向けられる。

 そりゃそうだ。金髪でチャラついた大学生がフードコートで騒いでいたら、誰だってむっとする。俺は姿勢を低くし、声のトーンを押さえて続けた。

「恋人になりたくない、その心は?」

「なりたくないわけではないんだ。ただ、僕もこういう気持ちは初めてで戸惑っているし、なんだか現実感がない。だから恋人になるって言っても、イメージができないんだよ」

「なるほど、そういうことか」

「最近は、あの人と出会ったことが現実なのか、あの人が本当に存在しているのかも疑わしい」

「え、そこまで?」

 開いた口が塞がらない。やはりこいつは斜め上だ。

 今度は七芽の方から身を乗り出して来る。

「ねえ、思考実験の『世界五分前仮説』って知ってる?」


 世界五分前仮説とは、世界が五分前に作られたという仮説です。

 我々のもつ記憶や関係性も、五分前に作られました。歴史的な書物や建造物も、実はすべて五分前に作られただけのものです。

 この仮説を否定することはできますか?


「そう考えると、実は僕と的場が友達関係なのも、実は五分前に『そういうもの』として作られただけなのかもしれないんだ」

「ほう」

「だから、最近思うんだ。もし世界が五分前に作られたのなら、僕があのサークルを見学に行って、あの人と出会った記憶も、『そういうもの』として作られただけなのかも。極端なことを言えば、今この瞬間、あの人が本当に存在しているのかどうかも疑わしい――僕の記憶の中にしかいないのかも」

 俺は冷や汗をかく。どうやら、七芽は斜め上の方向へ考えすぎているようだ。このままではちょっと一線を越えてしまいそうで怖い。

 しかし、俺にはこれを乗り越えるだけの手札がある。なぜなら、俺は「世界五分前仮説」のことも、よく知っているからだ。


 ――俺は、哲学科だ。


「あのな、七芽」

 もったいぶって切り出す。

「まず前提から確認しておくぞ。この思考実験は否定できない。なぜなら証拠がないから。それは分かるな?」

「分かる」

「同時に、それは証明もできないということだ。なぜなら証拠がないから。これも分かるな」

「うん」

 一度、深呼吸を挟む。ここからが大事なところだ。

「そもそも、これは厳密な意味での思考実験じゃあないんだ」

「そうなの?」

「もとは、ラッセンっていう人が、『記憶』とか『過去』について論じるときに使った、ただのたとえ話なんだよ」

 必死で頭を回転させる。まったく、どうして俺はフードコードで友人相手にこんな講釈を垂れなきゃならないんだ?

「世界が五分前に作られたという仮説が否定できない。ひいては、過去が本当にあったということも証明できない。俺たちが『過去』を振り返ったり、教訓を得たりするためには、『今』あるデータを参照したり、『今』の自分の記憶を探ったりする必要がある。それって無意味なんじゃないか、という考え方なんだ。つまり――」

 ああ、何と説明したら分かりやすいだろう? 今の俺には、どうにも杜撰な説明しか思い浮かばない。

「たぶんラッセンさんは、歴史や古典の勉強がしたくなかったんだよ」

「あはあ、なるほどね」

 七芽はへらへらと笑い出す。どこまで伝わったのか疑問だが、とりあえず、深刻そうなムードから脱却することには成功したらしい。

 しかし、これで終わりじゃない。気分を明るくするだけなら誰でもできる。ここから先、いかに七芽を現実的で前向きな態度にもっていくかが勝負だ。

「ま、それは冗談にしても、過去の教訓やノウハウに囚われすぎるなってことだと思うよ」

 俺は畳みかけて言う。

「それよりも、俺たちは未来に生きるべきだ」

「未来に?」

「そう。迷ってないで、行っちまえ!」

 背中を押せただろうか? とりあえず、俺のもちうる手札はこれで使い果たした。

 七芽はどこか考え込んでいるようだ。

「そうだね。迷ってばかりもいられない」

 何かを決心したような声。

「決めた! 僕、恋を実らせてみる! 平子さんに、告白してみせるよ!」

 俺の中で、何かが真っ白になる。それから、少しずつパズルのピースがはまっていく。

「え、そっちぃぃぃぃぃぃ?」

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