第2話「ビュリダンのロバ」
「ぬああああ、疲れた」
私は生乾きの髪でベッドに倒れ込む。
ワンルームで一人暮らし。当然、誰かからの返事があるわけでもない。
突っ伏したまま、今日一日を反芻する。
サークル活動、遅すぎる見学者、そして思考実験。
「いや、思考実験って! 何言ってんのよ私!」
頭を抱え、丸くなる。
変な人だと思われたに違いない。あのとき、「クイズでも始めるんですか?」という七芽の言葉に、素直に頷いておけばよかった。それか、無難に心理テストでもチョイスしておけばよかった――心理テストの本なんてサークル室の本棚に腐るほどあるのに!
スマホが鳴る。
誰だこんなときに、と腹立たしい反面、誰かと話していれば気がまぎれそうにも思える。そんな矛盾した気持ちを抱えながら、芋虫のようにベッド上を移動し、スマホを手に取った。
画面には「平子」の表示。
ほっとする。平子なら、一連の流れを全て知っているし、何より私のことをよく理解してくれている。彼女はおバカキャラを気取っているが、その実は相当に聡明な女の子だ。
「もしもし、平子?」
「お疲れー」
「もー、本当に疲れた」
「あはは、そうやって一人で悶々としていると思って電話したわ」
「あー、ありがと」
やはり平子は賢い。こうやって、誰に対しても心の機微に敏感で、必要なときにいつでも連絡をくれる。
私は今日の一日についてまくし立てた。
「本当にやらかしたわ、思考実験て」
「普段はもっと器用に立ち回るのにね。もしかして思考実験の本でも読んだ?」
「御名答。ちょうど読み途中だったから、それに引っ張られて変なこと言っちゃったのよ」
「読んだ本に影響されるところは昔からだね」
私は、「それよりも」と続ける。思考実験が出てきた過程はこの際どうでもよくて、この先のことが心配だ。
「私のこれまで積み上げてきたキャラクターがぁ……」
「大丈夫だって、そんなおかしな感じじゃなかったぞ」
「本当?」
人のことをよく見て、思いをよく汲んで、必要なときにそっと力になってくれる頼もしい先輩、それこそ私、小野立花!
大学に入ってから一年と少し、それこそ薄いガラス片を積み上げるようにして形成してきた私のキャラクター像が、今まさに揺らいでいる。
「誰もそこまで考えないって。うちのサークルは風変わりなやつらも多いし、絶対大丈夫。それに、思考実験でも何でも、目的は果たせたでしょう?」
目的――サークルの見学者に、みんなと打ち解けてもらう。
それは確かに達成できたかもしれない。しかし、この点についても私には不満があった。
「あの七芽ってやつ、その名のとおりナナメ上って感じだったわね。何よ、あの受身な態度! 説明を聞くだけ聞いたらずっと窓の外を眺めているって……気ぃ遣うわ!」
「そうか? 悪いやつじゃなさそうだったぞ」
「そりゃ悪い人ではないと思うよ。でももうちょっと、ねえ?」
「世の中、コミュニケーション能力の高いやつばっかりじゃないからな」
とにかく、極めて受身体勢の見学者に対し、私が変に気を回した結果、私の築いてきた「小野立花像」がぐらついているのだった。憤懣やるかたなし、とはこのことだ。
とは言え、平子がたしなめるように、決して悪い人ではないだろう。それに、人間だもの、得意不得意があるのは当然だ。少しずつ、私も落ち着いてきた。
「立花はよくやったよ。あたしや他のやつらがサークル長だったら、見学初日にあれだけ打ち解けるなんて無理さ。しかも七芽くんだって、ノリノリで自分の解釈を話していたじゃないか。もっと単純なクイズだったら、ああはならなかったぞ」
平子の一言一言が、私の心をほぐしていく。うむ、そうだ、よく頑張った私。たぶん、自分で思っているほど悪い状況ではない――むしろ、他の人たちからすれば好感度が上がるエピソードになっているはず。
「最後なんか頬を赤らめて、あれはもう立花にぞっこんだな」
「はい?」
急転直下、唐突な言葉に私は混乱する。今日、いつどこで、七芽くんが私に惚れたと言うのか。
「気付かなかったか? 思考実験について七芽くんが私見を述べた後、拍手が起こったろ? あたし、結構面白く思えて、七芽くんの様子をずっと見てたんだけどさ。明らかにそれまでと雰囲気が違ったぞ」
「ないないないない。あり得ない。仮に好きになられたとしても困るし」
「お? 他に思い人でもいるのか?」
「そりゃあ、新入生で同じ講座を受けている的場くんとか、爽やかでノリもよくていい感じ――ってそうじゃなくて、今は恋愛よりもやりたいことがたくさんありすぎるのよ」
「サークルか?」
「それもある。だいたい、三つもサークルを兼ねて、アルバイトもしなきゃいけなくて、さらにそれなりの成績をキープするってだけでへとへとよ。恋人なんか作っている暇なんてないわ」
なんだか忙しさをアピールしているようで、恥ずかしい気分になってきた。すべて自分で選んだことだし、それを言い訳にするつもりはない。ただ、恋をする余地がないというのは素直な気持ちだった。
「んー、あたしは結構、七芽くんはいい子だと思うけどなあ。正直、タイプと言えばタイプだし」
「はあ? あれが――あの人がタイプ?」
平子の感覚も、時々よく分からない。
「ははは、冗談だって。それよりも、最初から恋愛を選択肢から除外しちゃうのはもったいないな、と思って」
選択肢から除外する。そうなのかもしれない。私はすでに、恋というものを自分の中から切り捨てようとしている。これについては、私も思うところがあった。
「ねえ、また思考実験を紹介してもいい? 『ビュリダンのロバ』って言うんだけど」
「今か?」
「うん」
「いいぞ、言ってみろ」
ロバがいます。ロバは二方向の分かれ道に立っています。
左右のどちらにも、同じ距離の位置に、同じ量、同じ質の干し草が置かれています。
つまり、ロバのもつ欲求は、左右どちらについても等しいことになります。
ロバは、結局どちらも選べず、餓死してしまいました。なぜなのでしょうか?
「またややこしい話だな。それで、あたしがこういうのに答えられるとは思ってないんだろう? 立花はどう思うの?」
「これは受け売りだけど、『合理性を追求しすぎると、ときに自分の首を絞める』っていうたとえ話」
「だろうね。それで、立花にとってはどんな意味があるの?」
私は少しうれしくなる。この思考実験そのものの意味ではなくて、これを私が持ち出してきた意図を汲み取ろうとしてくれている。
「私にとって、サークルに打ち込むことも、勉強を頑張ることも、アルバイトで社会経験を積むことも、どれも等しく大切なことなの。昔から憧れてきたし、今でも大事にし続けたいと思える。実は、恋愛も同じ。他の子と同じように憧れはあるし、もし恋人ができたらすごく大事にする。だけど、その結果自分のキャパを超えてどれも中途半端になるのなら、どれか一つを初めから切っておいた方がいい」
「なるほどね。言いたいことは分かるよ」
「ありがと。平子はどう思う?」
電話の奥で、少し間が空いた。これまでの様子からして、たぶん私の言い分に平子は納得していない。それを、私を傷つけずにどう説明したものかを考えてくれているのだ。
「あのな、立花」
「うん」
「ロボットとか人工知能なら、今のたとえ話は分かるんだ。完全に同等なものについてどちらか一方を選べ、ってなったらエラー起こしそうだろ? だから、『右と左で迷ったらとりあえず右行っとけ』って感じのプログラミングが必要になるのは分かる」
平子らしい理解の仕方だ。私は笑い出したくなる。そう言えば、ああ見えて彼女は情報系の学部に所属していたはずだ。
「でもな、立花」
改まった雰囲気で彼女は言う。
「この思考実験で、対象になっているのはロバだろう? あたしは頭よくないから分かんないけど、それなら餓死するわけはないんだよ」
「うん」
「思考実験としてルール違反なのは承知の上で言うけど、最初に目に入った方を選ぶとか、ちょっと道の雰囲気がよさそうな方を進むとかさ。あたしは絶対両方手に入れようとしちゃうタイプ。あー、何が言いたいかっていうとさ」
ぼりぼりと頭を掻きむしる音がこちらまで聞こえてくる。
「あたしたちは生き物なんだから、後先考えずに行動しても、まあ何とかなるんじゃね? ってこと」
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