思考実験から始まらなかった僕らの恋
葉島航
第1話「スワンプマン」
「ねえ、問題出してもいい?」
僕は面食らって返事もできぬまま、彼女に顔を向けた。
「いい?」
ダメ押しのように尋ねてくる。小首をかしげた拍子に、サラサラの黒髪が彼女の肩で踊った。
僕は声を絞り出す。
「問題って? クイズでも始めるんですか?」
「うーん、クイズというか、思考実験みたいな?」
思考実験。いよいよ僕は彼女の意図が分からない。
「初対面同士、仲を深めるのに意外と使えるの。思考実験って、その人の価値観とか考え方がはっきりと出るでしょう?」
僕は頭の中で、思いつく限りの思考実験を列挙する。
トロッコ問題、思考するゾンビ、シュレーディンガーの猫……。
どうやら彼女は思考実験を心理テストか何かと混同しているらしい。
僕の理解する「思考実験」は、現実に実現することが難しい理想的な実験の想定だ。その実験を頭の中で行ってみることで、真理や法則を見出す助けとなる。古くは量子力学、今では哲学の領域で盛んなのだとか。
それでも確かに、ものによっては思考実験について意見を交換することが、相手の人となりを知る一助になるのかもしれない。しかし、初対面では生々しすぎないか?
とは言え、ここでそれを指摘すべきでないことは僕にも分かる。
「いいですけど……」
「よっしゃ」
彼女はガッツポーズを決める。手が小さくて白いなあ、と僕は脈絡なく思った。
嬉々として巨大なホワイトボードを手に取り、問題とやらを書き始める彼女を尻目に、僕は窓の外へ目を向けた。
昼の日差しでてらてらと光る木々が並び、その隙間を縫うようにしてツクツクボウシの声が届いてくる。
夏の終わりを感じながら彼女に視線を戻すと、彼女はすでに問題を書き終え、僕をじっと見つめていた。
「ごめんね、突然思考実験だなんて」
伏し目がちにそう言うので、問題が早速襲い掛かって来ると思っていた僕は困ってしまった。もしかして、迷惑そうに見えてしまったのだろうか?
「せっかくサークル見学に来てくれたんだし、あんまりぼんやりと過ごすのもなんだかなあ、と思っちゃって」
彼女は優しすぎるのだ。
僕はこの「読書サークル『パラパラ』」を見学に訪れたのである。
大学に入学して最初の春が過ぎ、その間を僕は単位取得の仕組みを理解するのに費やしてしまった。気付けば、友人もなく、ただ講義を聞いて帰るだけの無為な日々。
厳密には同じ高校から進学した悪友がいるのだが、彼はやれサークルだ歓迎会だと青春イベントに明け暮れている。授業も重なっていないのでほとんど会うこともないところを、先日偶然すれ違い「今からでも遅くない、サークルでも入れ」と助言を受けたのだ。
勇気を振り絞ってサークル棟にある一室の戸をノックしたはいいが、四月にはあったであろう歓迎の飾り付けはすでにない。サークル長である彼女――小野先輩から簡単に活動の説明を受け、入サーを即決してしまえば、もう他にやることもなかった。
そうして、まばらに座って読書に勤しむ他の面々に倣い、本棚や窓に目をやったり、ツクツクボウシの声に耳を傾けたりしていたわけである。
いずれにしても、彼女に気を遣わせてしまうのは違う。絶対違う。
「あ、う、いや、ありがたいです」
僕がはっきり言えたのはそれだけだ。
小野先輩は笑みを浮かべ直し、ホワイトボードをこちらに向けた。
「有名な『スワンプマン』の話よ」
僕でも名前だけは知っている、哲学の思考実験だ。
「私もうろ覚えだから、違っていたらごめんね――」
そう言いながら、彼女は内容を読み上げる。
あなたが沼の近くを歩いていたところ、雷に打たれ、沼に沈んでしまいます。
あなたは死んだかと思われましたが、その後、沼の中から復活しました。
あなたは「雷に打たれたが奇跡的に生きていた」と考え、日常生活に戻っていきます。
しかし実は、あなたは雷に打たれたとき命を落としていたのです。
雷が化学反応を起こしたことによって、沼の泥から、あなたと寸分違わぬ見た目で、同じ人格や記憶を受け継いだ存在が生まれたのです。
さあ、今のあなたは元のあなたと同一人物だと言えるでしょうか?
僕は、うーんと頭をひねった。おそらく、アイデンティティがテーマなのだろう。「自分とは何か」を、あの手この手でひたすら考え続けた古人たちがいたということだ。
読書をしていた他のメンバーたちも、一人二人と近付いてくる。
正直なところ、僕は内容云々よりも、僕がサークルの中で打ち解けられるようにと彼女がここまでしてくれていることに感動していた。
サークルのメンバーたちも、考えを巡らせているようだ。そのうちぽつぽつと意見が上がってきた。
「同一人物かって、沼の泥から生まれたのなら、そもそも人でもないだろう」
「いや、分子レベルで再構築されていたら関係ないんじゃなの?」
「何ていうの? 主観的に『自分としての意識』みたいのが続いているなら自分なんじゃないかな」
「てことは、記憶が連続しているかってこと? でもスワンプマンが自分で体験した記憶ではないよね」
「これアレだよ。『同一人物だ』って言う人は記憶とか意識とかを重視するタイプで、『同一人物ではない』って言う人はもっと肉体的なものも重視するタイプってことね」
メンバーたちのやり取りを聞きながら、小野先輩はにこにこ笑っている。
僕はふと、彼女の後ろにいる女性に目を留めた。ガングロと言うのだろうか、ギャルギャルしいメイクに派手な服。みんなの輪に加わろうとせず、スマホをいじっている。
僕の目線に気付いたのだろうか、そのギャルへ小野先輩が声を掛けた。
「平子、どう思う?」
ヒラコと呼ばれたギャルは、スマホを触りながらも問題自体は聞いていたようで、「うーん、同一人物かどうかって言われてもなあ」と苦笑いした。
その後、僕の方を見て、半笑いでうそぶく。
「あたしあんまり頭よくないからさ、ごめんけど分かんないや。パラパラダンスのサークルだと勘違いして、このサークルに入ったくらいだし」
さざ波のように笑いが広がった。彼女はこのサークルの中で、こういうキャラクターであるようだ。
「ありがと、平子。それで、七芽くんはどう思う?」
満を持して、ということだろうか。彼女は僕に話を振ってきた。
「あの、僕個人としては、『自分』っていうものに必ず『他人』が介在していると思っているんです」
「ほう?」
自分が何かつまらないことを言っていないかと胸をドキドキさせながら、言葉を続ける。
「この場合だと、自分がスワンプマンに置き換わったことを、自分も知らない、他の誰も知らないという状況ですよね。だから、あえて逆を考えてみるんです」
「逆と言うと、誰かが知っている状況ということ?」
彼女の言葉に頷く。
「そうです。僕が死んで、沼から僕そっくりなスワンプマンが出てきたところを誰かが見ていた。あるいは、僕自身にその自覚があった。そういう設定なら、直感的に『同一人物とは言えない』って考え方が優勢になる気がするんです」
「なるほど」
「すなわち、自分がスワンプマンに置き換わったことを、自分も知らず、他の誰も知らないのなら、それは『同一人物である』と言ってもよいのかなと思います」
言いながら、自分でもいくつかの反論を思い付いた。穴だらけの理屈だ。それに、抽象的で分かりにくい。
空気を台無しにしないかとこわごわ周囲の反応をうかがってみると、
「おおー」
大げさに小野先輩がそう言って拍手し始める。
周囲もパラパラと拍手をした。僕としてはどんな顔をしてこの場に居ればよいのか分からない。
「え? 今の話分かりました? かなり適当なんですけど……」
「全部は分からなかったよ? でも、七芽くんが相当賢いだろうことは分かった」
サークルのメンバーたちも頷いてくれている。
平子さんもスマホから顔を上げて、「その脳みそ分けろや」と笑っていた。
小野先輩は僕にウインクしてみせた。
「ね、初対面同士の仲を深めるのに使えるでしょう?」
わいわい騒ぐ彼女やメンバーたちを見ながら、僕は不可解な胸の高鳴りを覚えていた。
それは自分の考えを認めてもらえたという感慨だったのかもしれない。仲間として迎え入れられたという喜びだったのかもしれない。
そして、そんなことがどうでもいいくらいに、僕は完全に恋に落ちてしまったのだ。
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