第6話 お礼はちゃんとしないと
おかあさま、おかあさま。いつも泣いているおかあさま。
『あなたさえいなければ』
おかあさまはどうすれば笑ってくれるんだろう。
『あなたなんて産まれてこなければよかったのに』
泣きわめくおかあさま。
もうわたしはうまれていて、だけどわたしはおかあさまに泣いてほしくない。
だから、だから――
『わかりました! がんばってしにますね!』
そうすれば、おかあさまは笑ってくれますか?
ふわり、と何かが触れる感触がした。だけど瞼が重くて、ぼんやりとした頭は半分夢の中にいる感じがして、触れられたのが夢なのか現実なのかわからない。
体が浮いて、ふんわりとした雲の上に置かれる。ふわふわの雲は、体を包みこんでくれるようで、暖かい。
雲の上にいるなんて、きっとこれは夢なのだろう。
気づいたら、朝になっていた。そして私がいるのは雲の上、ではなくベッドの上だった。
「あれ?」
きょろきょろと見回してみると、私が寝ていたはずの長椅子が目に入った。
夢遊病のごとく歩いて移動した、とは思いたくない。そこまで寝相は悪くないはずだ。
「陛下が運んでくれたのかな」
この部屋を利用するのは、皇帝と私だ。まさかヴィルヘルムさんや侍女が来て運んでくれた、ということはないだろう。
長椅子で眠る私を見た陛下が指示した可能性はあるけど。
「あとでお礼を言わないと」
何かをしてもらったらお礼を言いなさい、とお母さまは言っていた。
どうして私をベッドに運んでくれたのかは不思議だけど、運んでくれたのならお礼はしっかり言わないと。
「おはようございます」
ふわあ、とあくびをしたところで、礼儀正しい声が扉の向こうから聞こえてきた。
「入ってもよろしいでしょうか」
「あ、はい、どうぞ」
促すと、扉を開けて入ってきたのは侍女のお仕着せを着た女性だった。彼女は今日、朝食までの間、私の世話をしてくれるらしい。
朝食は皇帝と食べるそうで、朝の支度が済み次第食堂まで案内してくれるそうだ。
それ自体は問題ではない。問題なのは、侍女が何から何まで手伝おうとしてくれたことだ。
私はこれまで、小屋でお母さまと二人で暮らしていた。誰かを従えることなんて慣れていないし、着替えを手伝われることにも慣れていない。
だから昨日も、私は湯あみから着替えまで手伝おうとしてくれる侍女に、何度も無理です無理ですと言って、自分でできるからと言い張った。
「……王妃様の身の回りのお世話をするのが、私の役目です」
だけど侍女は頑なで、結局私が折れるしかなかった。人の仕事を奪いたいわけでもなかったから。
私の持ってきた服――王様が用意してくれた服は簡素なものが多く、小屋から持ってきた服も一人で脱ぎ着できるもので、誰かに手伝ってもらうほどのものではない。
そこで侍女と張り合った結果、着替えを手渡してもらって、私が自分で着る、ということで落ち着いた。
馬車での旅の道中では、誰も私の世話を焼こうとはしていなかった。世話役の一人もついたことがないと、騎士さんたちも知っていたからだ。
「まさか、食事も手伝ってもらうとか、ないですよね?」
食堂まで案内してくれている年若な侍女に話しかけると、彼女はぱちくりと目を瞬かせたあと微笑んだ。
「毒見はありますけど、そこまでではないですね。あ、でも、お貴族様によっては切ってもらう人とかもいるらしいですよ」
昨晩、私の世話役をしてくれた侍女とは違う。人手不足なため、私の世話は手が空いている人がやることになったらしい。
そして私を案内してくれている彼女は、若いからか気さくな喋り方をする人だった。
「こちらが食堂です。体調が優れなかったりする際にはお申し付けいただければ部屋まで運びますので、気兼ねなくおっしゃってくださいね」
「はい、わかりました」
そして厳かな大きな扉を侍女が開けると、中にはこれまた厳かな長テーブルが置かれていた。
「おはようございます」
石でできたテーブルの奥に座している皇帝に頭を下げて、侍女が引いてくれた椅子に座る。椅子も石でできていて、ひんやりとした感触が伝わってきた。
長テーブルは本当に大きくて、端と端に座っている皇帝との間にはだいぶ距離がある。だからか、私の挨拶は皇帝に届いていなかったようで、皇帝は黙したまま食事に手をつけはじめた。
さすがにこれではお礼を言えない。食事が終わってからにしよう。
そして私は、前に置かれたスープをスプーンですくった。
そして口に入れて、その味わい深さに目を丸くする。草を煮詰めたスープとは違う。手の届く場所に置かれていたパンも柔らかく、これまで食べてきたものはなんだったのかと考えてしまうほどだ。実際、固いパンと雑草スープだったので、違うのは当たり前だけど。
お母さまにも食べさせてあげたいけど、寝ているのであげることはできない。それでもいつか――目覚めた後においしいものを味わってもらえたら嬉しい。
食べられるだけたいらげて、食後のデザートまで完食しきったところで、皇帝が席を立った。一言も発することなく、立ち去ろうとしているようだ。
「あの!」
慌てて立ち上がって発した声は思いのほか大きくて、皇帝の足がぴたりと止まる。
私が入口側に座っていてよかった。もしも逆だったら、呼び止める間もなく去られていただろう。
「昨晩はありがとうございました」
「……なんの話だ」
深々と下げた頭に冷え冷えとした声が降ってくる。お母さまと二人で――お母さまが寝たきりになってからは一人で過ごしていた私にとって、皇帝の低い声はどうにも耳に慣れない。
そう思ったところで、ふと、慣れはしないが覚えがあるような気がした。
「以前、どこかで会ったことがありますか?」
私が暮らしていた森に立ち入る人は多くはない。さすがに餓死させる気はないようで、必要最低限の物資や食料を運んでくる人や、私の作った毒を持っていく人ぐらいだ。
そのどちらもほとんど顔を合わせず、言葉も交わさなかった。だから、私の知っている声は少ない。
「知らん」
ちらりと目線だけ上げると、こちらを見下ろす皇帝の赤い瞳と視線がかち合った。
「……そういえば私、陛下の名前を知りません」
アドフィル帝国の新しい王。血塗られた玉座に座った王。そういった話はたくさん聞いた。
だけど、皇帝の名前を教えてくれる人はいなかった。
「お前……俺の名も知らないで妃だ妻だと言っていたのか」
「婚姻書に署名をしたのは私ではないので」
結婚を証明するための書類は、夫と妻、両方の名前が必要になる。だけど、政略で結ばれる結婚はたまにどちらかが拒否し、断固として名前を書こうとしないことがあるそうだ。
そのため、親の代筆が認められていた。
そして私の場合、王様に嫁ぐように言われた時にはすでに結婚が成立していた。
「……ルーファスだ」
顔を上げて皇帝の返事を待っていると、しばらくしてからようやく、皇帝の口が重々しく開かれた。
「ルーファス陛下ですね。ありがとうございます」
「お前に名を呼ばれるいわれはない。これまで通り、陛下と呼べ」
「妻ですので、親愛を持ってルーファス陛下と呼びます」
そこで、ヴィルヘルムさんに教えてもらった皇帝取り扱い方法を思い出し、ルーファス陛下の手を取り、握りしめることにした。
親愛の握手はおかしなことではない、だけど、ルーファス陛下は人に触れられるのが好きではない。
しかめられた顔に満面の笑みを返し、無礼だと咎めてくれるだろうかと、期待に満ちた眼差しを向ける。
「聞きたいことはそれで終わりか。ならば俺はもう行く」
だけど私の期待もむなしく、手を振り払われるだけで終わった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます