第3話 薬姫
そして朝、私は鞄を肩にかついで小屋を出る。まだ日は出ていないので正確には朝ではないけど、朝になるのも時間の問題だろう。
「いってきます、お母さま」
名残惜しさに後ろ髪を引かれながらも、馬車が待っているらしい城門に向かう。
もうここでやるべきことは何もない。
結婚式は王様の謁見の翌日には終えている。
王族同士の結婚の場合、国が遠いことも多いので、代理を立ててそれぞれの国で結婚式を行うのは珍しくないらしい。
結婚自体は書類を揃えれば成立するため、式を挙げるのは自国民に向けたお祭りのようなものだとか。
実際に、自国内を回ってパレードを催すこともあるらしい。
だけど私の場合は、教会で代理の花婿と誓いの言葉を交わすだけで終わった。
書類だけでじゅうぶんとの意見もあったけど、それではアドフィル帝国に示しがつかないということで、間を取って略式で済ませることになったとかなんとか。
花嫁衣裳を記念に持っていっていいと言われたけど、邪魔なので雑巾にでもしてもらうことにした。
ひらひらきらきらした白いドレスは、毒を調合する時には邪魔になる。動きやすく、汚れにくいのが一番だ。
「よろしくお願いします」
馬車の前で待っていた騎士二人に頭を下げる。さすがに私一人で行かせるつもりはなかったようだ。
道中野盗にでも襲われたら困るのは、王様だからだろう。あと多分、監視の意味もあるのだと思う。
「……ああ」
騎士の一人がぶっきらぼうに言って、馬車に乗りこんだ。もう一人の騎士は御者と一緒に御者席に向かう。
用意された馬車は一台だけ。飾り気も何もない素っ気ない馬車。高貴な身分の者が乗っていると一目でわかる馬車に乗っていたら危ないとかで、こうなった。
絵本のお姫様が乗っているような、ふかふかの座席がある馬車に憧れていたので、少し残念だ。
そして見送りもなく馬車は出発する。
ガタガタと揺れる馬車は、固い椅子も相まって乗り心地は最悪だ。
だけど、馬車の窓から見える景色は最高だった。森の中で暮らしていた私にとって、石畳が続く道も、いくつもの家が並ぶ様も、すべてが新鮮だった。
木しか見えない日々はどうしても飽きてしまう。毒になりそうな草花が咲いていたのは嬉しかったけど、たまには違う景色が見たいと思うのは、人の性だろう。
「お母さまにも見せてあげたかったなぁ」
小さく呟くと、視線を感じた。
「騎士さんのお名前はなんていうんですか?」
視線の主――私と同乗している騎士さんに話しかける。
ものすごく話しかけるなオーラを発していたけど、私はお母さまに挨拶をしっかりするように教わってきた。これから何度も朝の挨拶や夜の挨拶をすることになるのだから、名前ぐらいは知っておきたい。
「知ることになんの意味が?」
意味と聞かれると、困る。
名前を知りたいと思うことに理由が必要だとは知らなかった。挨拶する時に不便だから、というのは理由になるのだろうか。
少し考えて、ならない、という結論を出す。名前を知らなくても挨拶はできる。
「ないかもしれません。では改めてよろしくお願いします、騎士さん」
騎士さんは何も言わず、窓の外に視線を移した。
王女としての務めを果たすように言われた私だけど、ないもの扱いは相変わらずのようだ。
王夫妻の仲を壊しかけた存在なのだから、それもしかたないのかもしれない。
固い背もたれに寄りかかり、窓の外を眺める。特別に速い馬を用意してくれたそうで、アドフィル帝国までは一週間で到着するらしい。
その道中で、どれだけ外の世界を満喫できるかに思考を移した。
※※※
アルテシラは生まれながらのお姫様だ。妖精眼を宿す彼女は有象無象の唯人とは違う。誰からもかしずかれるのが当然の生活を送っていた。
そんな彼女が妹がいることを知ったのは、九つの頃。三歳違いの妹――しかも、腹違いの妹がいると知ったときには衝撃を受けたものだ。
アルテシラにとって、母と父は理想の夫婦だった。仲睦まじく、互いを想い合い、尊重し合っている。それなのに、まさか他の女性に産ませた子供がいるだなんて思ってもいなかった。
父親の不貞をすんなりと受け入れることはできず、それからしばらくの間は父親が近づくことすらいやがるようになっていた。
だが長くは続かなかった。妹も、その母親もアルテシラの視界に入ってこなかったからだ。
本当にいるのかすらあやふやな存在に、アルテシラは次第に興味を失った。
そして、アルテシラが次に妹の存在を認識したのはそれから五年が経ってからだった。
毒姫――使用人がそう呼んでいるのを耳にした。それが自分のことでないことはすぐにわかった。誰からも愛される自分が毒などと、不名誉な名前で呼ばれるとは思いもしなかったのだ。
「毒姫? それって誰のこと?」
問いかけるアルテシラに、話をしていた使用人二人は首を垂れた。恐縮しきりの彼女たちを説き伏せてようやく、王城の一角にある森に小屋があることを聞きだした。
そこに向かったのは、ただの好奇心だった。本当に存在しているのかどうか確認してみたいと、そう思っただけだった。
使用人たちは薄気味悪いので近づかないほうがいいと言っていたが、誰からも愛されるアルテシラに怖いものはなかった。
「――気持ち悪い」
だが、件の小屋を見たアルテシラは眉をひそめ、二度と小屋に近づかないことを決めた。
それからさらに月日が経ち、アルテシラは十九歳になった。
アドフィル帝国との戦争が終わり、妹がアドフィル帝国に嫁ぐことを耳にした。
「あの子に妃なんて務まるはずがないじゃない」
毒姫と呼ばれ、小屋で育った妹に教養はない。急遽教師をつけて教育していたようだけど、付け焼刃でどうにかなるのなら、誰も苦労しない。
それに、妹の問題はそれだけではない。だから代わってあげると提案したのに、妹はおかしなことを言いながら嫁いでしまった。
「どうせすぐ返されるわ」
アルテシラは以前目にしたアドフィルの新皇帝を思い、憂い気にため息をこぼす。あんな問題ばかりの娘を宛がわれるだなんて、なんてかわいそうなのだろう、と。
「アルテシラ様。失礼いたします」
侍女の一人がノックの後、首を垂れて入室してくる。アルテシラは用事でもあっただろうかと小首を傾げた。
「小屋に残されていたものたちはどうされますか?」
「お父様はどうするようにおっしゃっているの?」
「処分しろ、と」
「ならその通りにしてちょうだい。あの子の使っていたものなんて、気味が悪くて使いたくないわ」
「かしこまりました」
恭しく退出する侍女を眺めながら、アルテシラはため息を落とす。
妹はエイシュケルの第二王女として嫁いでいった。これまでは毒姫としか呼ばれていなかったが、姫君であると公の場で認められたため、それ相応の扱いをしなくてはいけなくなった。
そのことに、アルテシラは憐憫の情を抱く。あんな子を敬う姿勢をみせないといけないなんてかわいそう、と。
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