第2話さようならお母さま
「お母さま、今日も城に行ってきますね」
ベッドで眠るお母さまに声をかける。挨拶は大切にと教えられたので、毎朝欠かすことはない。
王様から皇帝のもとに嫁ぐように言われてから数日。あれから毎日のように城に赴き、ちょっとした礼儀作法を学んでいる。
謁見の前にも数日間、学ぶ時間を与えられていたけど、その時には歴史などの一般教養が主だった。
かつてこの地には妖精や天使などの種族が大勢いたらしい。
だけどある日、神の怒りを買い、彼らは多くの制約を受けた。
人との間にしか子を成すことはできず、しかも中々できにくい。そうして次第に数は減り、今では各国の王がそれらの血をひくだけになった。
私が嫁ぐ予定のアドフィル帝国、もといアドフィル王国は元は天使を始祖に持つ王族が統べていたそうだ。
ちなみに、エイシュケル国は妖精を始祖に持っている。
「ようやく国に貢献できるようになったのですから、妖精の血をひく者として威厳のある振る舞いを心がけるように」
厳しい目で言うのは、私の教育係であるリーンさん。
歴史も一般教養もこの人から学んだ。とても厳しい人だとは思うけど、それは国を、王様を、お姫様を大切に思っているからこそなのだろう。
「本当はもっと時間をかけて教えたかったところですが……付け焼刃だということを自覚して行動なさい」
一国の王のもとに嫁ぐのだから、それなりの作法は身に付けておくべきなのだろう。だけど私に与えられたのはほんの数日だけ。
あの程度の男には私程度の礼儀作法でじゅうぶんだと、王様が判断したらしい。
「わかりましたね?」
「はい! 頑張ります!」
だけど私にはそれでちょうどいい。
私がアドフィル帝国ですることは簡単だ。
王様はお姫様が危ない目に遭うのを嫌がっている。つまり、皇帝がお姫様にひどいことをしなければいい、ということだ。
そのためには、私がささいなことで殺されればいい。
あと少しで落とせるはずだったエイシュケル王国に和平の使者を送ったのだから、穏便に済ませたいはず。それなのに気分一つで私を殺したとなれば、非難が殺到するだろう。そうなれば、次に嫁いでくるお姫様には細心の注意を払うだろうし、優しくしようという気も生まれるかもしれない。
実際どうなるかはわからないけど、誰からも愛されるお姫様なのだから、きっとうまくやってくれるはず。
王様もお姫様も、そしてお母さまも幸せになるためにはこれしかない。
そういう意味では、私の礼儀作法が拙いのは都合がいい。知っていて礼儀を無視するのと、知らないで礼儀を無視するのとでは後者のほうが気が楽だからだ。
「わくわくしますね!」
胸の高鳴りを隠し切れず言うと、リーンさんは深いため息を落とした。
「……あなたの教育係を仰せつかってからすでに一週間以上が経っていますが……ここまで飲みこみの悪い生徒は初めてです」
それは申し訳ない。
しゅんと肩を落とすと、リーンさんは眼鏡の縁に指をかけ、くいと動かした。
「ですがこれ以上は私にはどうにもできません。明日の朝、出発することが決まりました」
「朝、ですか」
「はい。明朝……日の出とともに城を立ちます。あなたのいた小屋から持っていきたいものがあるのなら、これにまとめておきなさい」
差し出された鞄を受け取りながら、何を持っていこうかと考える。
あれもこれも持っていきたいけど、エイシュケル帝国は遠い。割れやすいものは避けたほうがいいかもしれない。
エイシュケル帝国でも同じものが手に入るといいけど。
「なんでもいいんですか?」
「ええ、あなたの母親以外でしたら」
渡された鞄はそこまで大きくない。さすがに人を入れるのは無理だ。
それにお母さまはここで面倒をみてもらわないといけないのだから、連れて行くわけがない。
「そんなことしませんよ」
笑って言うと、リーンさんはおあいそのような笑みを浮かべた。
住み慣れた小屋の扉をゆっくりと開ける。鬱蒼と茂る森の中にある小屋は、陽の光が差しこまないせいか、薄暗い。
壁にかけられたランプに火を灯し、小屋の中をぐるりと一望する。ベッドが一つと、食事用のテーブルと椅子が一つずつ。それから作業台が一つ。
元々は森の管理小屋か何かだったのかもしれない。一人暮らし用としか思えないほどの小さく狭い小屋。
だけど十六年も育ってきたのだから、愛着の一つや二つはある。
「明日でここともお別れかぁ」
ぼやきながら、ベッドに近づく。木でできたベッドには薄い布が一枚敷かれているだけ。そしてその上では、お母さまが眠っている。
「お母さま、これからはふわふわのベッドで眠れるかもしれないんですよ」
床に敷く絨毯ですらあんなにふわふわだったのだ。ベッドなんて、想像もできないほどに違いない。
「私はアドフィル帝国に行ってきます」
お母さまの白く滑らかな頬を撫でる。
私が小さい頃にうっかり毒を飲み、それからずっと寝たきりになっているお母さま。その頃の私は毒を作り慣れていなくて、解毒剤を作るのに時間がかかってしまった。
もしもあの時解毒剤があればと、後悔しない日はない。
だけど、もう安心だ。薬姫と呼ばれているお姫様なら、お母さまを目覚めさせるほどの薬を調合してくれるかもしれない。
それに食事も、届けられる乾いたパンや、森で生えている草ではなく、しっかりしたものを用意してくれるだろう。
それを食べれば、やせ細ってしまったお母さまも、昔みたいな元気な姿に戻るに違いない。
「あとの面倒は王様がみてくれるそうなので……元気になってくださいね」
その姿を私が見ることはないと思うけど。
お母さまから視線を外して、作業台を見る。作業台の上にはガラスでできた調合材料がいくつも並んでいる。
だけどそれらには手をつけず、すり鉢などの頑丈なものだけを鞄に入れていく。
服は用意してくれるそうだけど、作業用の服は持っていきたい。それに毒の材料も。
ひょいひょいと思いつくままに入れていくと、すぐに鞄はいっぱいになった。
ずしりと重くなった鞄を床に置き、椅子に座る。ベッドはお母さまが使っているので、私はいつも作業台に突っ伏して眠っていた。
こうして眠るのもこれで最後だと思うと、感慨深い。
年季の入った木の作業台をひと撫でし、瞼を閉じた。
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