鯨の心臓となんでも屋
研究所を訪れたらエントランスに巨大な靑い結晶が鎮座していて、思わず開いた扉を閉めてしまった。自分の見たものが信じられず、恐る恐る扉を開くと先程と同じ光景があって思考停止する。この研究所に来るようになってから幾つも自分の常識が崩れる事が起きて来たが、今日のは五本指に入る位の衝撃だった。
「何だ、来たのか」
靑い結晶の後ろから所長がひょっこり顔を覗かせる。見慣れた相手が出て来た事で少しだけ落ち着く事が出来た。思い切って中に入り所長と結晶に近づく。改めてじっくり観察する。照明の光を受けた部分は鮮やかな靑だが、床側に近づけば近づくほど黒により深みのある色へ変わる。質のいい大きな
「この大きな結晶は一体……」
「
「久しぶりだね、白藍くん」
何度か聞いたがまだ聞き慣れぬ声が所長の横から発せられ、そこで初めて彼の存在に気付いた。
髪の毛からコート、靴に至るまで暗がりの闇に溶けそうな黒を纏う『なんでも屋』の男。
瞳すら黒い硝子のはまった色眼鏡に遮られ見えない。前に偶然色眼鏡の奥に見えた瞳は暗い赤色をしていた。人の悩みを聞く、アドバイスをする、頼まれた仕事をする……明確な職業名を語らなかったので勝手に『なんでも屋』と呼ばせて貰っている。
一見警戒してしまういでたちの男だが、話をしてみれば警戒が霧散する程優しく話しやすかった。……という感想を朱殷さんと旧い友人だという所長へ言えば「あいつは良い男だぞ。時折無自覚に『隣人』を誑し込む癖さえなければな」としかめっ面と共に返って来た。『隣人』の意味が分から無かったが詮索出来ずそれ以上聞けなかった。思考があらぬ方向へ逸れていた私の耳に耳ざわりの良い朱殷さんの声が入り込む。
「この靑い結晶は深海で眠りについた鯨の心臓だ」
「……鯨の、心臓?」
鯨の心臓と目の前にある靑い結晶が結びつかず困惑する。表情に出ていたのだろう。朱殷さんは小さく笑った後説明を続けてくれた。
「深海で一生を終えた鯨の中にごく一部心臓が結晶化し残る個体がいる。何故結晶化するのかは未だ解明されて無いらしいね。用途は色々。装飾品にもなるし加工すれば薬にもなる。先日いつもの散歩道から外れてみたら偶然見つけて……群靑が喜ぶだろうと思って持って来た」
「『鯨の心臓が手に入ったから持って行く』と便りで知らされたが、まさか心臓一つ分が来るとは思わなかったぞ」
「何、君の事だからこれだけあっても足りない位じゃ無いのかい?」
「知り合いに配っても余る位だ。というか希少過ぎて軽々しく使えないな」
「海の底から持って来た身としては使ってくれた方が嬉しいんだが」
鯨の心臓を前にあれこれと会話をする2人は何処か穏やかな空気を纏っている。私の知らない側面を目の前にするというのは何処か居心地の悪さが滲む。しかし同時にこの無機質で人との繋がりが見えない所長にもちゃんと友がいるのだと何だか安心した。
「ところでこんな大きな鯨の心臓をどうやって運び入れたんだ?」
2人の会話が途切れた所を見て一番気になった事を問いかける。所長が少し顔を顰め、朱殷さんは相変わらず人当たりの良い笑みを浮かべている。
「これの使う『運び屋』が運び込んだ」
「彼は重たいものでも軽々持ってくれるからね、重宝しているんだよ」
「運び入れる為に壁を分解されて大穴空けられた時はどうしようかと思ったぞ」
「ちゃんと戻したじゃないか」
運び屋。
この巨大な結晶を持ちあげられる。
壁を分解。
そして戻す。
質問の回答を貰ったにもかかわらず会話の単語が理解出来なくて固まってしまった。2人は固まる私を他所にケーキを用意してあるとか美味しい茶葉を貰ったから持って来ただの話を弾ませている。
「白藍、お前も少し付き合え」
「今日はイチゴタルトだそうだよ」
「……いただきます」
理解する事を放棄した私の頭の中に浮かんだ言葉は『類は友を呼ぶ』だった。その後お茶会に出された聞き馴染みのない産地の茶葉を使ったミルクティーも、赤々としたイチゴがたっぷり使われたイチゴタルトも美味しかった。
なので幾つも浮かぶ疑問や謎について考えるのはやめにした。
……考えるだけ無駄だからというのは誰にも言えない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます