第6話 お母様はお見通し
ブライト様と喧嘩別れをして二か月。
わたくしは子供の頃の夢を見ていた。
ベッドで横になっていると、おでこにブライト様の手がひたりと触れた。
「セシリア、ちゃんとお薬飲まないと治らないよ?」
困ったような顔をしたブライト様に、ぷくっと頬を膨らませてむくれてみせる。
「むー……だって、このおくすり、すっっっごく苦いんですもの」
「体に効くものほど苦くできてるんだよ」
「わたくしだって飲もうと思ってますのよ? でも、ごっくんする前にうえってなってしまいますの!」
紅葉のような小さな手を広げて一生懸命説明すると、ブライト様はわたくしが頑なに飲むのを拒んでいた薬を指で摘まみ上げて口に含んだ。
「うーん……子供には苦すぎるかぁ……じゃあ、苦くなくなったら飲めるんだね?」
「え……?」
「苦いから飲めないんだろ? 苦くなくなったら飲める?」
もう一度聞かれてコクリと頷いてみせると、ブライト様は「わかった」と言って、わたくと目の高さを合わせてくれた。優しい眼差しを向けられて心臓が跳ねる。
「じゃあ、僕がセシリアのために苦くない薬を作ってあげるよ」
「ほんとう!?」
「うん。だから、それまでは苦いのを我慢して飲んでほしいんだ――――ね?」
そう言われてしまえば、差し出された苦い薬を飲まざるを得なくなってしまう。
意を決して薬を口に入れた瞬間、うえっという感覚とともにはっと目が覚めた。
ゆっくりと体を起こすと、目の前に歴史学のノートがあった。
どうやら予習の途中で寝てしまったらしい。
椅子に座ったまま大きく伸びをしてから、改めて自分の手に視線を落とした。
そこにあるのは紅葉のような小さな手ではなく、大きくなった自分の手だ。
「…………ゆめ」
今しがた見た夢を思い出して口元が緩む。
確かブライト様とあの約束して以降、苦い薬でも頑張って飲むようになったのですよね。
そしてその半年後、ブライト様は本当に子供向けの苦くない風邪薬を開発したのだった。
***
まだ日が高く、かといって町に出かけるには遅い時間。
なんとなく外の空気を吸いたくなって、ふらりと中庭に出てみる。
寒い季節だと咲いている花は少ない。それでも趣向を凝らして造園された庭に物寂しさは感じられなかった。
目的もなく花を眺めながら歩いていると、「セシリア」と声をかけられた。
声のしたほうを向くと、にこやかに手を振りながらお母様がこちらに向かってくるところだった。
腰のあたりまで伸びた銀髪をハーフアップにしたお母様は、三十七歳には見えないほど可憐に見える。
「お母様、お散歩ですか?」
「ええ。お裁縫に飽きてしまって……ちょっと気分転換。セシリアは?」
「わたくしはお勉強の息抜きに」
「もうすぐ卒業試験ですものね」
お母様はそう言ってわたくしの髪に手を伸ばすと、跳ねていた前髪を直してくれた。
「あんなに小さかった貴女がもう学園を卒業だなんて、時が経つのはあっという間ね。私が通っていたのがもうずっと昔のよう……」
「お母様が学園に通われていた頃もダンスとかマナーの授業ってありましたの?」
「もちろん、ありましたよ」
「やっぱりダンスのお相手はお父様とでしたの?」
「ええ。お父様は何をしてもそつなくにこなしていましたわ」
お母様が昔を懐かしむように目を細める。
貴族にしては珍しく恋愛結婚だったというわたくしの両親は、結婚して二十年近く経つというのに、いまだ新婚のように仲がいい。
わたくしはそんな両親が大好きで、憧れで、目標でもあった。
だからこそ大好きなブライト様と結婚したかった…………まさか、こんな土壇場で約束を反故されるとは思いませんでしたが。
小さくため息をつくと、お母様がわたくしのことをじっと見つめて口を開いた。
「ねぇ、セシリア。貴女、ブライト様と何かありましたね?」
何の前置きもなく投下された問いかけに、体がピクリと震える。
ど、どうしてそれを……! さてはブライト様が何かおっしゃいましたのね!?
まずい、まずいですわ……!
はしたない格好で出かけてしまったこととか、頬っぺたを叩いてしまったこととか、しでかしてしまったあれやこれやが頭の中をぐるぐると回る。
一人百面相をしていると、お母様は残念なものを見るような視線をこちらに送ってため息をもらした。
「先に言っておきますけど、ブライト様からは何も聞いていませんからね」
「ええ!? じゃ、じゃあ、どうして……」
「だって貴女のお母様だもの。様子がおかしかったらすぐにわかりますよ。前にお出かけした時から、ブライト様の話題を避けているでしょう?」
さすがお母様。
普段ぼんやりしているように見えてなかなかに鋭い。
話を強要されているわけではないけれど、お母様はわたくしが何で悩んでいるのかもうわかっているのかもしれない。
わかっていて話すのを待ってくれている。そんな空気が、わたくしの背中を後押しした。
「…………わたくし、学園を卒業したらブライト様と結婚できるものだと思っていましたの」
子ども扱いされていることはわかっていたけれど、わたくしの気持ちが変わらなければ交わした約束は果たされるのだと、何の根拠もないのにそう信じて疑わなかった。
耳元に「僕たちは結婚するには歳が離れすぎている」と言ったブライト様の言葉が甦る。
「でもブライト様からしたら、ただの口約束にすぎなかったのでしょうね――――歳が離れすぎていると言われましたの。わたくしは若いから、おじさんとは釣り合わないって」
静かに話を聞いてくれるお母様の横で、わたくしは埋まることのない歳の差が悔しくて、スカートをぎゅっと握りしめた。
「結婚したらわたくしが不幸になってしまうなんて都合のいいこと言って、結局ブライト様は結婚するならわたくしのような歳の離れた子供じゃなくて、大人な女性がいいってことなのですわ!」
自分の中に渦巻いていたモヤモヤする気持ちを言葉にすれば、今まで黙っていたお母様がふるふると首を左右に振って、それは違うと悲しそうに顔を歪ませた。
予想していた反応と違うことに戸惑っていると、お母様は目を伏せてポツリと独り言ちるように言った。
「…………ブライト様は今も結婚するつもりはないのですね」
「お母様……?」
どういうことなのかと視線で問いかけると、お母様はどこか遠い目をしてゆっくりと話しだした。
「…………もともとブライト様は、貴女と約束するまで生涯結婚はしないと言っていましたの」
「どうして?」
わたくしとの約束をした頃といえば、まだブライト様は二十七歳――女性であれば完全に行き遅れだけど、男性ならまだ結婚適齢期だったはずだ。
ブライト様のお顔立ちであれば、爵位はなくとも相手に困ることはなかったと推測できる。
だからこそ、どうしてと思わざるを得ない。
そんな心の内を見透かしたかのように、お母様がわたくしの疑問に答えてくれる。
「ブライト様がレイ家のご出身なのは知っているでしょう?」
お母様の確認にこくりと首を縦に振る。
わたくしが頷いたのを見て、お母様も一つ頷く。
「貴女も知っているとは思うけど、レイ家の皆さまは占い師や退魔師を数多く輩出している特殊なお家なの。そしてその特殊性から他家に籍を移すことを禁じられている……」
お母様は一度口を閉じると、躊躇うように言葉を続けた。
「デリケートなところだから私からは詳しくは言えないのだけれど、ブライト様は昔からあまりご実家との関係がよくなくてね……それで家を出て研究員をしているのですよ」
「そう、だったのですか……? わたくし、全然知りませんでしたわ……」
初めて聞く話に愕然となる。長い付き合いのくせに、そんなこと全く知らなかった。
どうして研究員になったのか聞いても、「薬学が好きだったから」としか答えてくれなかった。
ご実家の話についても、ブライト様はにこやかに何てことのないように話していたから、仲が良くないだなんて思いもしなかった。年明けはご実家ですごすのですか? とか、無神経なことを聞いていたことをお思い出してサァーッと青ざめる。
どうしよう。知らなかったとはいえ、わたくし何てことを……。
口元を押さえて狼狽えていると、お母様はわたくしの肩をポンと叩いて眉尻を下げた。
「知らなくても無理ありませんわ。ブライト様はきっと貴女やロベルトに余計な気を遣ってほしくなくて隠していたのでしょうから――――まぁ、そのあたりの事情があったから、生涯結婚はしないって公言していましたの」
「でも……でしたら、どうしてわたくしと結婚の約束なんかしてくださいましたの……?」
「あの方は昔から自分より誰かの気持ちを大切になさる方だったから、貴女をがっかりさせたくなかったのかもしれませんわね――――でも、貴女との結婚が現実味を帯びてきたことで、いろいろ考えてしまったのではないかしら」
「?」
「レイ家の方は他家に籍を移すことを禁じられていると言ったでしょう? つまり貴女がブライト様と結婚するにはレイ家に嫁ぐしかない……ブライト様は結婚したら貴女まで不遇な思いをさせてしまうのではないかと心配しているのではないかしら?」
「わたくし、ブライト様と結婚できるのでしたら、そんなこと気にしませんのに……」
何の迷いもなく言えば、お母様から苦笑が返ってきた。
「貴女ならそう言うと思っていましたわ――――ブライト様もそれをわかっていたのでしょうね」
「…………だから、歳の差を理由に?」
ここに来てようやく話が繋がった。
つまり、実家との不仲を理由にしたところでわたくしが結婚を諦めないと思ったブライト様は、歳の差というどうにもできない理由を引っぱり出してきたというわけだ。
なんにせよ嫌いになられたわけでないとわかってほっとしていると、お母様が「セシリアは」と口を開いた。
「セシリアは、今の話を聞いてもブライト様と結婚したいですか?」
真意を確かめるような視線を向けられ、わたくしは姿勢を正して「もちろんです」と答えた。
ブライト様が結婚できないというのがわたくしを気遣ってのことだったら、まだ説得の余地はある。
「わたくし、今までブライト様以外の方と結婚なんて考えていませんでしたもの。今更約束を反故にされても困りますわ」
胸を張ってわたくしが言うと、お母様がくすりと笑った。
「貴女のそういう一途なところ、お父様にそっくり――――でしたら、ブライト様としっかり話し合わないとね」
優しく慈愛に満ちた眼差しをまっすぐに見返して、わたくしは大きく頷いた。
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