第21話

アラームで奏太は起こされた。時計を見ると8時だった。マットレスから身体を持ち上げる。取り付けた小さな窓から陽光が差している。埃が光を反射していた。

「起きたか」

 聞き慣れた掠れた声がした。扉の横に大男が立っていた。威圧感で胃が重くなった。

 昨日の出来事は夢ではなかった。

「用意しないと……」

「学校に行く必要はない」

 奏太はホウヤの顔を見る。顔が歪んでいる。彼は笑っていた。

「お前は戦士になるために生まれたんだ」

「何言ってるんだよ……」

「2ヶ月後だ。この町に嵐が吹き荒れる。お前は強くならなければならない。地獄の使者を迎え撃て」

 まともに会話が成り立たなかった。奏太は本当にホウヤなのか疑った。

「どいてくれよ」

 奏太が扉に向かおうと立ち上がる。昨日殴られた箇所が痛んだ。

「朝食を運んでやる」

 ホウヤは扉を閉め、出て行った。錠が閉まる音がする。階段が軋む音が遠ざかる。

 奏太はひとり取り残された。部屋には奏太の背丈ほどの戸棚がある。床はコンクリートが剥き出しのままだ。先端のつぶれた鉄パイプが昨日のまま放置されていた。

 半地下の窓には真新しい鉄格子がはまっている。ホウヤが改造したのだろう。ここからすぐに脱出するのは難しそうだった。

 奏太は鉄パイプを拾う。足が思うように動かなかった。痛む右腕の代わりに左腕で鉄パイプを握る。

 上階から物音がした。階段が軋み、近づいてくる。奏太は息を殺し、扉の横で待つ。鉄パイプで殴って怯んだ時がチャンスだ。

 ぎし、と扉が開いた。奏太は鉄パイプを握りなおす。

「人を殴る」。ホウヤがやってはいけないと言ったのを思い出した。いとも簡単に破ったあの男はホウヤではない。奏太は自分に言い聞かせた。

 ドアからホウヤが現れる。奏太と目が合った。肉食獣のような眼を前にして足がすくんだ。

「食え」

 ホウヤの手には食事を運ぶお盆が乗っている。その上にはスープとパンが並んでいた。構わず殴ろうとすればできただろう。だが、それが奏太に逃げるチャンスを与えるとは思えなかった。

 奏太は鉄パイプを落としてマットレスに座るほかなかった。ホウヤもまた床に腰を下ろした。

 スープに口をつけると塩辛かった。コンソメの味が後味でようやくわかる程度だった。奏太はパンを浸けて塩辛さを軽減しようとする。野菜は乱雑に切られており、普段のホウヤの料理とは思えなかった。

「立て。武器訓練だ」

 奏太が食べ終わったのを見ると、ホウヤは立ち上がった。鉄パイプを奏太に渡し、昨日の続きが始まった。奏太が手を抜こうとすれば、たちまち叩きのめされた。

「武器を手放すな」

 張り手が奏太の頬を打つ。倒れても蹴りが腹に打ち込まれた。

「地獄の使者に慈悲はない。人間を音の出る糸屑だと思っている」

 ホウヤは鉄パイプをコンクリートに突き刺した。

「今のでお前は死んでいた」

 時計を見ると午後二時を回っていた。

 全身が痛い。手足がちぎれていないのが不思議なほどだった。なんとか奏太は立ちあがろうとする。

 ただ、生き残ることだけを考えた。ホウヤの動きを見続け、避ける手立てを探った。

「足を掬われるぞ」

 ホウヤの足払いで容易く床に転がった。

 不意に外で物音がした。その後に男の声が聞こえた。

「すいません。一年B組の坪井ですけども」

 坪井先生の声だった。

「助けて! 先生っ!」

 奏太は声を振り絞った。一日殴られ続けた身体ではうまく声が出なかった。声が擦れて喉がやすりがけされたように痛くなる。

 ホウヤが扉を出る。ガラス戸を叩く音が消えた。ぼそぼそと声がしたと思うとそれ以上、坪井先生の声は聞こえなくなった。

 何事もなかったかのようにホウヤが戻ってきた。

「続けるぞ」

 奏太は力が抜けていくのが分かった。


 窓からの陽光がとっくに見えなくなっていた。時間の感覚があやふやになる。マットレスに倒れたまま奏太は長針と短針を見る。午後9時を指している。

 ホウヤを名乗る男は食事を置いて8時に去った。睡眠を取ることをホウヤは重要としていた。逃げるチャンスは夜だと考えた。奏太は脱出を試みようとしたが、上階では絶えず物音がしていた。

 諦めて奏太は目をつぶり、眠りにつく。

 夢の中で、ホウヤとの訓練が再生された。自分の軟弱な打撃が蹂躙されるイメージが繰り返される。隙があれば、ホウヤは何倍もの暴力で奏太を咎めた。身体の痛みが打撃の強さを教えてくれた。想像したホウヤはより凶暴だった。怒りを撒き散らすマシンだった。奏太は何度もホウヤに殺された。寸止めで終わっていた拳で頭蓋を打ち砕かれ、絡め取られた膝関節を破砕された。

 幻の痛みで奏太は目が覚める。汗で背中にTシャツが張りついている。奏太は目を拭う。頬が涙で濡れていた。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。元のホウヤに帰ってきて欲しかった。いつものように学校の話をしたかった。畑のインゲンを獲ったことを伝えたかった。

 暴力に奏太が打ち勝てる術はなかった。「令嬢」を救えなかったのも、ホウヤがおかしくなったのも自分のせいではないかと思った。

「じいちゃん……」

 奏太は再び夢に落ちた。


 じゃりん

 大きな音がした。金属が擦れるような音だった。奏太は身をすくめる。塞いでいた悪夢の扉が開きそうになる。

 時刻は午前5時だった。

 じゃりん じゃりん

 奏太の肩を捥いだ化け物の得物と同じ音がした。奏太はマットレスを掴む。自分が夢の中にいないことを認識した。

 おおおお おおおお

 金属音の後に慟哭がした。聞いたことのない谷底から響くような恐ろしい声だった。奏太は扉に耳を当てた。

 おおおお おおおお

 ホウヤが慟哭していた。

 金属を研いでいる音がした。次いで、呪詛のような言葉が聞こえた。

「ツブラ……サイトウ……ビランビラン……ツブラ……サイトウ……ビランビラン……」

 研ぐ音と呪詛が不気味な旋律を奏でていた。恨みに燃える声だった。奏太は昔話で読んだ鬼婆を思い出す。旅人を食うために出刃包丁を研ぐ姿を想起する。

 己の怒りと憎しみをホウヤは金属に擦り込んでいるようだった。一欠片も残さぬように相手の肉を切り裂く毒になるよう刃物を研いでいる。

 じゃりん じゃりん

 鉄が擦れる音が脳内に反響する。やめてくれ。奏太は目をつぶり、耳を塞ぐ。それでも頭にこびりついた言葉は反響していた。

「ツブラ……サイトウ……ビランビラン……ツブラ……サイトウ……ビランビラン……」

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