第22話
──二〇XX年九月
アラームが鳴る。奏太が目覚まし時計を止める。いつも通り8時きっかりだった。部屋の中には日が差し込んでいる。
何度も夢だと思いこもうとしたが朝はやってきた。
上階から軋む音がする。アルミトレイに料理を乗せたホウヤが地下の扉を開ける。
ミネストローネの香りを敏感に感じる。空腹で鼻の利きが良くなっていた。すぐに飛びつき飲み干したい欲求に駆られる。九月になり、さらに訓練は過酷になっていた。ホウヤから一本取らなければ食事はとれない。それは獣同士の食い合いに似ていた。
ホウヤが水筒を投げ渡す。
「飲め」
奏太は喉の渇きを潤す。飢えが増していた。水筒が空になると、がらがらと音がした。何か入っている。
奏太が中身を確認する時間はなかった。目の前の異変に気づいた。ホウヤが扉の前から消えていた。体勢を低くして奏太の懐に潜りこもうとしていた。
間一髪で拳をかわす。
睡眠が人を強くするというホウヤの言葉は本当だった。夜間に整理された記憶がホウヤの動きに対応できるようにしていた。
水筒の中身を取る。ラップに包まれたナイフだった。
ホウヤの拳が空を裂く。まともに受け止めれば腕がもがれてしまいそうだ。奏太は何度もそう思った。
奏太はラップを素早く解く。ホウヤの胸めがけ、ナイフを突く。奏太の手を払い、ホウヤの掌が奏太の顔を捉える。顔を鷲掴みにしたまま後ろに倒した。かろうじて奏太は受け身を取る。起き上がり、距離をとった。
じりじりと円を描くように互いに距離を縮める。ホウヤの動きに適応した奏太の眼は、右脚を注視していた。次に動くとすれば、左回し蹴りだ。初動は軸足の右足の踏み込みだ。じゃりっとホウヤのサンダルが鳴った。予想通り。奏太はナイフで左脚を切り落としにかかる。人を殴るのではない。獣にはその道理は当てはまらない。迷いはなかった。ホウヤが望むのならばそうするべきだと思った。
だが、次の瞬間、奏太は地面に叩きのめされていた。ホウヤの右脚はフェイントだった。注意がそれた上半身から手刀を放っていた。
追撃が来る。奏太はホウヤの動きを見逃さないようにする。まだ動いていない。一瞬、ホウヤが笑ったような気がした。
手刀を放った腕に細い切り傷ができている。
かろうじてナイフは手から離れていなかった。奏太は無意識にホウヤの手刀に合わせてナイフを傾けていた。不完全とはいえ、夢の中での実践と記憶の整理が功を奏した。
「まだ足りない」
ホウヤが左で前蹴りを放つ。爆ぜたような擦過音が遅れて聞こえる。明らかに先ほどよりも速い。奏太は身をかがめた。目をつぶらず避けるので精一杯だった。畳み掛けるような両拳での連撃が降り注ぐ。拳の風が吹き荒れる。ナイフと素手のハンデなど無いに等しい。猛攻を防ぐ一方だ。拳はやがて奏太の鼻を撃ち頬を穿つ。脇腹に鈍い痛みを感じる。切れた唇を噛む。意識を失うわけにはいかなかった。
自分に失望したくなかった。「令嬢」の家で何もできなかった自分に戻りたくなかった。
白い家が「令嬢」にとって牢獄だったことを思い出す。何もできずに見るだけだった自分を怒りの炎に焚べる。この化け物を倒さなければ。
奏太は防御を捨て打撃を放つ。ホウヤの肘がこめかみに入る。同時に奏太の右手はホウヤの耳を叩いていた。いくら筋肉で固めていても鼓膜は鍛えられないはずだ。
奏太の読み通りだった。ホウヤはわずかに呆気に取られていた。それで十分だった。奏太は鳩尾に膝蹴りをいれ、そのまま扉に向かった。錠を閉め、ホウヤを封印する。
急いで蔵の上階に上がる。奏太は棚の横にポリタンクを見つけた。今の自分にはこれでしか勝てないと奏太は思った。
轟音がする。扉を破ろうとしていた。悩んでいる時間はなかった。タンクを開き、中の液体を階段にかける。石油の臭いが鼻をつく。
棚や引き出しを漁る。古いマッチがあった。
肉親を燃やす。それがどれほどの罪に問われるのかは今は関係ない。それよりも地下に囚われ、人間性をなぶられることの方がよっぽど堪えた。奏太はマッチに火をつけ、地下に投げ入れる。同時に扉から大きな音がした。木製の扉の裂け目から太い腕が伸びる。
ぼっと音が立ち階段が火の海になった。奏太はボロ布を投げ込み火の手を強めさせる。一際大きな火が燃え上がる。皮膚が焼けそうだ。振り返らず走った。奏太はそのまま蔵を飛び出す。ぱちぱちと木が弾ける音がする。死んだのか確認するのが怖かった。奏太は逃げた。あてはない。伯希町から消えてしまおう。夜見坂を駆け出した。
学校に行く生徒は一人も見かけない。
白い家が見えた。車が停まっている。奏太は今日が休みの日だと分かった。
やり残したことがあった。以前は忍び込んだがその必要はもうなかった。奏太は手頃な石を拾い窓を割った。この町に帰ってこないのだから。カーテンを脇に寄せて居間に入ると夜見坂のおばさんがいた。奏太は構わず地下室へと向かった。
おばさんが奏太の手をつかむ。ホウヤに比べれば弱い力だ。すぐに振り切り、地下室に続く階段を目指す。灰色の廊下を抜け、「令嬢」のいる扉を開ける。
父親がこちらを向いていた。「令嬢」が倒れている。顔はあざだらけになり、普段の装いには茶色や赤黒い汚れが目立っていた。
「また君か」
父親は奏太を見るなり殴りかかってきた。避ける必要もなかった。痛みは速さで決まることを知っている。ホウヤが身に染みるほど教えてくれた。奏太は避けずにいた。
頬に父親の拳が到達するまでに、奏太は肘を無防備なこめかみに打ち込んだ。身体が自然と打撃に反応していた。
奏太は「令嬢」を抱え、階段を上がる。
「待て……返してくれ……」
地下室で父親はうめいていた。脳が揺れてすぐに身体が動かないのだろう。必死に這っている。
「行こう」
「令嬢」は弱々しく頷いた。彼女の身体は軽かった。背負ったまま玄関を出ようとする。目の前に夜見坂のおばさんが立っていた。手には包丁を持っていた。
「奏太くん、やめて……」
「町を出ます」
奏太は歩みを進める。包丁の切っ先が奏太に向いている。構わず進むと皮膚を切った。鋭い痛みが走る。それでも進み続け、Tシャツに赤いシミができた。おばさんが包丁を取り落とした。
「この子は……特別な子なの。昔から笑わず泣きもしない」
「彼女から聞きました。痛みも感じないそうですね」
「傷もつかなかった……。神様がくれた子なの。だから夫と汚れないように神聖なままでいるようにしていたの。返して……」
「もとから彼女はただの女の子なんじゃないですか」
おばさんは奏太を見て首を振った。
「そんなことない……。今に見ていれば分かる。私はずっと見てきたんだから」
遠くから消防車のサイレンが聞こえた。ホウヤの家の炎は勢いを上げていた。
ホウヤの皮を被ったあの獣が追ってくるかもしれない。
「さようなら」
奏太は一礼して歩きだした。夜見坂のおばさんは追いかけてこなかった。奏太は「令嬢」と巳月公園を目指した。目的は駅に続く近道を使うためだった。
最初に来た時のことを遠く感じた。木の根だらけの道は来る回数を増やす度に簡単に渡れるようになった。「令嬢」を背負っていても平気だった。
「ん……」
「令嬢」が背中で動きだした。
「起こしてごめん」
「いいよ。もう歩ける」
「大丈夫なのか」
「背負ってくれたおかげで休めた」
「令嬢」はそう言って歩きはじめる。歩く速さは遅くても足取りは安定していた。時折、奏太が支えながらふたりは公園に着いた。
「見て」
彼女が指さす先にブナの木があった。ブナは以前見たときよりも小さく見えた。葉がだいぶ減っていたからだった。
「どうしてだろう」
「風が強い日もあったからな。葉が飛ばされたんじゃないかな。知ってるか? 半地下は大雨だと水槽みたいになる」
「へえ」
「令嬢」と奏太は走る。公園の奥へと進む。途中で透け地蔵を探したが見つからなかった。
「どこに行ったんだ」
「一回見つけたからしばらく見つからないんじゃないかな」
お化けホテルの時を身体が覚えていた。ほとんどあの時と変わらない。奏太は木々を抜け、駐車場に着く。踏切の音がする。
「奏太!」
振り返ると森の中から声がした。掠れた声だった。
「今のって……」
「急げ!」
奏太は叫んだ。疲労を無視して走った。疑いようがない。あれはホウヤの声だった。奏太を探しているのだろう。何度も声が響いた。胸が痛い。「令嬢」も限界に見えた。駅に入り、乗車票を取る。「令嬢」とホームまで上がる。
「待てっ!」
身がすくむような声だった。道を隔てた駐車場の奥。車の間からのっそりと筋肉質の男が現れた。
まもなく電車が来た。ホームを挟んで別の線の列車が止まる。駐車場側にあるのは神凪行きだ。もう一方の列車はどこに行くのか分からなかった。どちらにすべきか奏太は迷う。
「こっち!」
「令嬢」が手を引き、奥側にある電車に乗り込んだ。降りる人に構わず、奏太たちは体をねじ込む。
駐車場でホウヤが吠える。驚くべきスピードだった。駅のフェンスに手をかけ、神凪行きの列車に辿り着こうとしていた。
列車のドアが閉まる。がこんと緩慢に電車が動き出す。駐車場側の電車はホウヤの登場で混乱していた。あちらの列車を選べば電車は急停車して捕まっていた。
「奏太! 戦士の誇りを忘れるな!」
びりびりと窓ガラスを震わせた。乗客は騒然としており、後ろをカメラで撮ろうとする人もいた。
ホウヤは他にも何か叫んでいた。ホウヤの声は電車の速度が上がるにつれ小さくなっていった。
奏太と「令嬢」は顔を見合わせる。
「ほんとに逃げて来ちゃった」
「ああ、ほんとだ」
安心感で全身の力が抜けた。くすぐったくなる感じだった。「令嬢」と笑いあった。
「……それにしても、どこに行くんだろう」
「令嬢」が言った。奏太にも分からなかった。車窓から景色を見る。「天狗岩」を見た神凪駅とは違う景色だ。車内を見回しても路線図は見当たらなかった。
列車は奏太たちを運んでいく。線路が一定のリズムを刻む。家が流れる。自分達はどこにいるのだろうか。
知らない駅名が聞こえた。列車は徐々に速度を落とし止まる。フェンス越しには田んぼが見える。しばらく見ないうちに稲穂がついている。
奏太たちは空いた席に座る。
「ねぇ、見て」
「令嬢」が懐からネックレスを取り出した。
「痛くてもこれがあったから大丈夫だった」
「ずっとあの地下に?」
「それがあの家だから」
「おばさんは……?」
「無理だよ。父さんの前だとみんな殴られるか見ないふりするしかないんだから」
「昔からあんな風に殴る奴だったの?」
「令嬢」は頷いた。
「でも仕方ないんだ。私は殴られても傷つかないからどんどん暴力に慣れちゃったみたい」
奏太は「令嬢」の手を掴んでいた。強く握ってしまった。「令嬢」の手は相変わらず冷たかった。
「奏太くんは優しいね」
あざだらけの顔で彼女は笑い、奏太にネックレスを手渡す。
「ネックレス、つけてくれない?」
「令嬢」が後ろを向く。白いうなじが露わになる。思わず電車の中なのを忘れそうになった。見てはいけないものを見てしまった気がした。
奏太は鎖を首にかける。鎖の片端を持ってもらい、髪を巻き込まないようにする。肌に触れないようにもした。片端を再び持ち、小さな金具を掛け合わせようとする。電車が揺れた。手が首に触れてしまった。心臓が飛び上がる。
「ごめん」
「全然」
肌が冷たい。汗をひとつもかいていなかった。
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