第20話
──二〇XX年八月
「令嬢」に再び会ったのは半月後だった。土曜日の暑い昼下がりだった。
学校は夏休みに入っていた。中学に入ってからはじめての長期休みだった。まずは畑の収穫作業をやる予定だったが、奏太は駅に向かっていた。
終業式にさかのぼる。学校に着くと、また机に紙が置いてあった。紙片を開くと、時間と駅名が書かれている。右下には以前と同じように渦巻きのイラストが添えてあった。
目的地は神凪駅だった。ここから4駅ほど遠い場所にある。伯希町の中部に位置しており、そこには天狗岩があった。
久々に電車を使った。遠出になると、車移動がメインだったため、駅を利用する機会は滅多になかった。券売機を使うにも、もたついてしまった。
奏太が電車に乗り込む。車窓からの景色は知らない場所に見えた。電車内の乗客はまばらで、空席が目立っている。
「令嬢」の姿はなかった。彼女のことだから何本か早い電車で行っているのだろうと奏太は思った。
「南伯希 南伯希」
電車が停車する。駅に立っている客は一人だけだ。奏太が乗っている車両のドアの前に立っている。
「令嬢」だった。彼女が奏太の隣に座る。電車が軋みながら発車した。
「おはよう」
奏太は「令嬢」を向いた。明るいところで見るとやはり鼻が高かった。肌がきめ細かい。人形や仏像のような無機質な美しい横顔だった。
「令嬢」がゆっくりとこちらを向く。奏太の耳元で「あれ、もってきた?」と囁いた。
奏太はカバンから『伯希町伝承集成』を取り出した。「令嬢」に手渡す。彼女はページをめくり、「天狗岩」の項目を開いた。
本には丸い岩の写真が載っていた。天狗岩は天狗といっても鼻が高くも赤くもない。二つの岩に挟まれて丸い岩が浮いている。
説明には一度だけ願いを叶えてくれるとあった。
撮影した場所はごつごつとした岩場になっている。見たところどこかの山地のようだった。
「これ本当にいけるのか」
「令嬢」がうなずく。肩にかかるツインテールが揺れた。彼女は黙って奏太の隣にいた。
気を紛らわせようと奏太は『伯希町伝承集成』を開いた。ページをめくっても頭に内容が入ってこなかった。
「奏太くんは外にでたい?」
ふと「令嬢」が囁いた。
「え……?」
「この町から出たい?」
「じいちゃんが寂しがる。無理だよ」
「令嬢」が笑った。息が耳にかかり、くすぐったかった。
「本当におじいちゃん想いなんだね。嫉妬しちゃう」
「からかうなよ」
奏太がそう言っても「令嬢」は笑っていた。彼女が伏し目がちになると、綺麗に引かれたアイラインが際立った。奏太は彼女の目元が好きだった。カールがかかり、長いまつ毛が魅力的だった。
神凪駅は小さな駅だった。ホームは伯希町に比べて三分の一ほどで、待合室もこじんまりとしていた。
「天狗岩」への行き方を駅員に聞いた。
「そこは遠いな」
駅員は「令嬢」を物珍しそうに見ながら言った。
「どのくらいかかりますか」
「一時間弱だね。石飛良山までバスで30分、ロープウェイで10分。そこから山道を歩いて10分だ」
想像以上に遠い道のりだった。ほとんど県境に近い。それほどの遠出を奏太はしたことがなかった。「令嬢」を見る。彼女は今日もローファーで来ていた。山道を登るのは難しそうだ。
「一番早いバスが、あと十分ほどで出るよ」
駅員が外を指さす。バス乗り場には観光客が多かった。
「令嬢」がバスに向かって早歩きで向かった。奏太は駅員に会釈し、後をついていく。
「本当に行くのかよ」
「令嬢」が奏太を一瞥する。初めて見る頑固な一面だった。諦めてバスに乗った。
バスが発車する。神凪駅が小さくなり、見えなくなった。知らない場所に連れて行かれる感覚だ。奏太はそわそわした。
窓から見る景色は変わっていく。古めかしい看板の旅館が過ぎていく。山道を登る。林をすり抜ける。道が急勾配でくねくねと曲がっている。道のすぐ下は崖になっていた。ガードレールが設置されているとはいえ不安だった。
「こわい?」
「令嬢」が囁いた。
「……別に」
嘘だった。見たことない場所に突き進んでいくにつれて不安が膨らんでいった。
ひやりと冷たい感触が手の甲に当たった。
「令嬢」の手が奏太の手に置かれていた。
「どうして俺とだけ一緒にいるんだよ」
「令嬢」は首を振る。
「奏太くんだからだよ。きっと私を喜ばせてくれるから」
彼女の手に奏太の手が包まれる。
「いまは楽しい?」
「令嬢」がうなずく。うっすらと笑みを浮かべていた。奏太は自分の心臓が高鳴るのを感じた。
「もう怖くないんじゃない?」
「令嬢」といる時間で不安な気持ちは溶けていった。
自分でも単純すぎて笑いそうだった。
バスが石飛良山に着いた。乗車賃を払い、外に出ると涼しかった。辺りは霧に覆われている。
「空が見えない」
「私たち雲の中にいる」
駐車場から歩いて、観光客についていく。道が上に続いており進んでいくと、建物が見えた。そこからは大きな機械の駆動音が聞こえてきた。
「中学生ふたり」
受付で券を買い、3階ほど階段を登る。ここまででかなり歩いたような気がした。
「令嬢」に心配はいらなかった。むしろ、奏太よりも元気そうにしていた。
機械の駆動音がかなり大きく聞こえる。もうすぐ近いのが分かった。
ロープウェイを奏太は初めて見た。半分外になっているせいか涼しい。箱が列に並んで外に運び出される様は、大きな工場のラインを見ているようだ。
案内を受けてロープウェイに乗る。動き出し、地面から離れた。下には森が広がっている。思わず声が出た。真下の地面ははるか遠い。見ていると頭がくらくらするのに、奏太は目が離せなかった。吸い込まれていくような感覚がする。
「このまま落ちたら死んじゃうね」
「令嬢」が横で笑った。
「願いごとどころじゃなくなる」
「それでもいいんじゃないかな。願いはその程度だったってことだし」
「「令嬢」の願いは?」
「まだ言わない。言ったら落ちちゃうかも」
自信ありげに彼女は言った。
その間にもロープウェイは登っていく。雲が奏太たちの下を通り過ぎていった。窓を眺める「令嬢」は楽しそうだった。やはり、学校で見る彼女とは違った。それを知っているのは自分だけだと思うと、奏太は嬉しかった。
ロープウェイが目的地に着いた。外に出ると、背の高い木がなくなりハイマツなどがあった。
乗る前よりも気温が低い。半袖シャツでは肌寒かった。
道なりに歩いていく。岩場のような地形に変わっていく。ゴツゴツとした地面はスニーカーの奏太でも歩きづらい。「令嬢」を見ると、難なく歩いている。
黙々と進む。普段見ない景色だった。高山の植生は奏太が見たことのないものばかりだった。黒いユリが咲いていた。知らない野草が生えている。きっと知っているホウヤなら知っている。今度聞いてみよう。
「あっ」と「令嬢」が声をあげた。奏太が顔をあげる。
目の前に岩の塔があった。6メートルほどありそうだ。上にいくにつれて尖っている。奏太は『伯希町伝承集成』を開く。
「天狗岩と形がちがう」
「回り込もう」
はやる気持ちを抑えて岩の塔を「令嬢」と回り込んでみる。
岩の塔の後ろにもう一つ同じ形の岩が顔を出す。ふたつの岩の間に球形の岩が挟まっていた。写真で見た通りの「天狗岩」だった。
想像していたよりも大きい。家ほどの大きさの岩に球が浮遊している。その重力を無視した光景に奏太は圧倒された。
「わはっ、すごい」
気がつくと「令嬢」は立入禁止のロープに掴まっている。ロープが張られているのは「天狗岩」のほぼ真下だ。
「危ないって」
「地震が起きたら、ぺしゃんこだね」
「冗談じゃない」
また「令嬢」は笑った。
奏太は改めて『伯希町伝承集成』を見る。
「なに探してるの」
「願いのかけ方が載ってるかなって……」
参拝方法はなかった。記載されているのは禁忌とされていることだけだった。
奏太が読む。
「ある時、天狗岩で商売繁盛を祈願して庄屋が小判を投げ入れた。するとたちまち庄屋の家は栄えた。だが、その四日後に鬼が現れて金品を持って行ってしまった。それから天狗岩に小判を投げ入れることは忌避された」
興味深そうに「令嬢」は聞いていた。
周りの観光客を見る。神社の要領で願いごとをしているが、小銭を投げる人はいなかった。
「奏太くん。私たちのやり方でお願いしようよ」
「令嬢」はポケットからハンカチを出す。ハンカチは丸くなって何かを包んでいる。「令嬢」が包みを解くと白はぎが転がった。割れていない綺麗な殻のままだ。
「拝んだらこれを「天狗岩」にお供えするの」
「だめだって」
「小判じゃないから大丈夫。それに、あのおじさん達みたいなやり方じゃ叶わないよ」
「……」
「ねぇ。やっちゃおうよ」
冷たい手の感触がした。奏太の掌に彼女は白はぎを押し込んだ。
「私ね、白はぎで良いことあったんだ。きっと天狗岩にお供えしたら叶えてくれる」
そう言って「令嬢」が白はぎを放った。ロープを越え、からりと乾いた音がする。二度深く礼をして二度柏手を打った。奏太はじっと彼女が願い事をするのを見つめていた。ひたむきに「天狗岩」に祈っている。
最後に「令嬢」が一礼すると、こちらを向いた。
このままでいいの?
そう言われているような気がした。
背中を押されるようにして奏太も白はぎを投げ入れた。
白はぎは放物線を描き、ロープの向こうの岩陰に消えた。奏太も同じように願いごとをした。
願いはひとつだった。
じいちゃんを、治してください。
今もホウヤはベッドに横たわっている。熱を発しながら、筋肉質の殻に閉じ込められている。奏太はその姿を脳裏に浮かべた。
「ひとりは怖いです……」
奏太は呟いていた。
風が吹くと、ぞわりと鳥肌が立った。気温が低いからではない。鬼の哭くような音がした。
奏太は目を開き、天狗岩を見た。ふたつの岩と球の隙間を風が通るたびに、異様な音が鳴っていた。
空が陰っている。天狗岩の球は燃え尽きた太陽を思わせた。
「なにお願いしたの?」
「じいちゃんのこと。そっちは?」
「私はね。みんながいい夢を見られますようにって」
「それだけ?」
あんなに隠していたにしては素朴な願いで拍子抜けした。「令嬢」は首を傾げるだけだった。
再び風が吹いた。
奏太たちはロープウェイに戻った。帰りのバスに乗る頃には疲れて眠ってしまった。久しぶりの熟睡だった。気がつくと「令嬢」の肩を枕にしてしまっていた。彼女は気にしていないようだった。
神凪駅から伯希町駅行きの電車に乗る。車窓から見える空は暗くなっていた。
伯希町は何も変わっていなかった。
奏太と「令嬢」は並んで歩いた。彼女は白い家に帰り、奏太はホウヤの家に帰る。何も変わらない。
家に着いてから、風呂の用意をしていると電話が鳴った。受話器をとる。慌てた女性の声がした。
「伯希総合病院です。外能さんのお宅でしょうか?」
「はい」
「今よろしいでしょうか。その、ホウヤさんの行方を探していまして」
「病室にいないんですか」
「それが……」
玄関の呼び鈴が鳴った。それからガンガンと戸を叩く音がする。
奏太は「あとでかけ直します」と言って玄関に向かう。
電灯が消えた玄関のガラス戸に人影を見た。
「奏太」
しわがれた声は奏太にとって馴染み深いものだった。
だが、影は大きい。奏太が知っているホウヤの二倍の背丈がある。頭の先は玄関の戸と同じくらいあった。
「……じいちゃん?」
「奏太」
願いが叶ったのだろうか。
今日は一緒に夕ご飯を食べよう。たくさん話をしたいこともある。疑念よりも人影をその目で見たいと奏太は思い、玄関の戸を開けた。
山のような男が立っていた。
奏太は一瞬誰なのか判別できなかった。
病衣で辛うじてホウヤと判別できる。衣服の隙間から見える大胸筋には痛々しい傷跡が残っている。ホウヤに手術痕はなかった。
最初に思ったのは御伽噺に出てくる鬼だった。
沈黙したまま、男は奏太の頬をつかんだ。
「一度しか言わない」
男は傷だらけの顔を近づけて言った。
「まもなく地獄の使者がやってくる」
そう言って、奏太を連れ出した。とてつもない力だった。なすがまま蔵の中に連れて行かれる。
蔵は雑多に物が置いてある。石油のポリタンクやランプと、隣にストーブや農具の整備用の工具を置いた棚があった。
蔵の壁から工具棚をどかすと、扉が現れた。
奏太はその扉を覚えている。昔は収穫物や自作の漬物を保存する場所に続いていたはずだ。
扉が軋んで開く。橙色の小さな豆電球が暗い階段を照らす。何年も放置された部屋の匂いがした。
強引にホウヤが奏太の腕をひく。
「今日は何日だ」
「8月17日」
しばらくホウヤは瞑目する。
「……地獄の使者が来るまで時間がない」
「何のことだよ」
声が聞こえていないのかホウヤは説明し続ける。
「千年の拷問か、戦士になるか。決めろ」
「全然何言ってるか分からないよ」
そう言った瞬間、掌が頬にめり込んだ。奏太は地面に突っ伏した。頭が弾けたような衝撃だった。
「張り手でその程度では地獄の使者には及ばない」
奏太の襟首をホウヤは片手で持つ。重機のような力だ。ホウヤは奏太の指を2本取り、己の眼球の前に持ってこさせた。
「俺の目をつぶせ」
「無理だよ」
「やれ」
指を引く力が強くなる。ホウヤの眼球へ吸い寄せられる。60を越えた老人とは思えない力だった。奏太が指を曲げなければ本当に眼球を潰してしまうところだった。
「どうしてこんなことするんだよ……」
「戦士になるための鉄則。冷徹にならなければならない。俺を超えろ」
奏太の前に鉄パイプが転がる。
「俺を殺せ。でなければお前を殺す」
ホウヤの頭が消える。回し蹴りを放っていた。奏太の鼻先を足刀が掠める。ホウヤを軸に地下室の埃が渦を巻いた。
「鼻が削げた。一度死んだ」
奏太は反射的に鉄パイプを取ろうとした。その手をホウヤが取る。奏太の顎に拳が密着していた。
「顎が吹き飛んだ。二度目の死だ」
勝ち目がなかった。ホウヤは本気を出せばいつでも自分を殺せると、奏太は感じ取った。
がむしゃらに鉄パイプを取り、ホウヤに殴りかかろうとする。奏太の膝が動かなくなった。ホウヤの片足が膝に置かれていた。
「目を離すな」
奏太の手から鉄パイプが消えている。ホウヤの指の間に挟まっている。驚くべき速さで奏太の手から鉄パイプを足指で奪い取った。
「進化がなぜ起こるのか」
ホウヤは足で掴んだ鉄パイプで奏太を打擲する。二の腕の内側に痛みの波がやってくる。
「苦痛だ」
腿の内側を強かに叩く。筋肉に電流が走ったような痛みに呻く。
「肉を剥がし腱を引きちぎった先の光だ」
奏太は身体を丸め、痛みから逃れようとする。
金属音が奏太の耳を聾する。奏太の頭の数センチ横に鉄パイプが叩きつけられていた。
「三度目だ」
叩きつけた鉄パイプの先端はコンクリートを砕いている。ホウヤが殴れば頭蓋骨など役に立たないだろう。
がむしゃらにホウヤに向かったが、何度も打ちのめされた。
このまま続ければ死んでしまう。
「10時だ。今日はここまでとする」
蔵から持ってきた時計をホウヤは奏太の目の前に持ってくる。
「寝ろ。睡眠は記憶を補強しろ」
ホウヤはマットレスを指差した。奏太が倒れている間に部屋から持ってきたものだ。
「朝になったらまた来る」
ホウヤはそう言って部屋の扉を閉めた。小さな窓からさす月光が唯一の灯りだった。
静寂が支配する。突然の出来事を処理しきれなかった。奏太にできることは目を瞑ることだけだった。痛みと疲労の中で奏太の意識は溶けていく。
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