第19話
「令嬢」の家の前には白い車が停まっていた。見たことのないエンブレムで車の知識がない奏太でも高級車だと察しがついた。
奏太は確かめなければならなかった。自分と会っていると気づかれた「令嬢」がどうなってしまうのか恐ろしかった。
家の敷地に入る。カーテンの隙間から漏れる灯りを避ける。
窓に顔を近づけ、中を覗く。
部屋の中の調度品はどれも都会的で清潔だった。家具は少なくテレビがなかった。洗練されたデザインの木製の椅子や照明が見えた。
ガラスのテーブルに目を移す。おばさんと「令嬢」、父親と思しき男が食卓を囲んでいた。
男の印象は冷たく感じた。いつも銀縁の眼鏡に白いワイシャツ姿だった。
テーブルには色とりどりの料理が載っていた。肉料理はなく、野菜がメインだった。「令嬢」は白いドレス姿だった。おばさんは黒いノースリーブを着ており、家の中なのに外食をしているように見えた。
食事の間でも誰ひとり会話をしなかった。身動きするのを憚るほど静かだった。
夜見坂のおばさんが何か言った。「令嬢」は身じろぎもせずおばさんを見つめる。おばさんの声が大きくなり、ガラス越しでも聞こえた。
「あなたは汚れていい人間じゃないの。それじゃ神さまも喜ばない」
父親が立ち上がる。「令嬢」の右手を掴む。父親の顔に怒気が張り詰めていた。椅子が倒れ、テーブルの食べ物がこぼれる。皿が割れる。父親が腕を掴んだまま、家の奥に「令嬢」を連れて行った。
夜見坂のおばさんは食事を再開した。
しばらくして父親が戻ってくる。おばさんが微笑む。父親も微笑んだ。めちゃくちゃになった家具の中で食事をはじめた。
異様な光景だった。
「令嬢」はどうなってしまったのか。
恐怖を抑えて家に入る手段を考える。
奏太はぐるりと回り込み、家の裏を見上げる。配管が這う家の壁面は、前面のスタイリッシュなデザインと違い血管のようだった。二階の窓が少しだけ開いている。電気はついていなかった。迷いなく配管を伝う。これも「人を覗く」だ。ホウヤはきっといい顔をしない。だが、奏太に何もしない選択は取れなかった。
二階にするりと入る。部屋はヒノキのような香りがした。部屋の中は暗い。家具の位置がうっすらわかる程度だった。
奏太は扉に耳を押し当て、人がいないのを確認した。扉を開くと、廊下も薄暗かった。光源は一階の玄関の照明だけだった。
左に廊下が続き、扉が3つあった。右には玄関に続く階段がある。まず扉を調べる。「令嬢」がいる気配はなかった。部屋を調べたいと思ったが、まずは「令嬢」に会いたかった。
階段を一段ずつ下りる。耳を澄ますと話し声がした。足音が近づく。奏太は固まり、息を止める。階段をうかつに上がれば物音で気づかれてしまいそうだった。
足音が遠ざかっていく。階段の影から一階を覗くと、おばさんの後ろ姿が見えた。
奏太はふたたび階段を下りた。玄関には靴が綺麗に揃えられている。
階段の下、観葉植物の横に扉があった。ダイヤル鍵の外れた扉が隙間を開けている。中を覗くと奥には地下に続く階段があった。
奏太は一歩踏み出し、下を目指す。空気が冷たくなる。湿度が高くなった。図書館のような匂いがする。
奏太が扉を開ける。
物がひとつも置かれていない室内に「令嬢」が倒れている。顔が青黒く腫れていた。白いドレスには血の跡ができていた。「令嬢」は浅く呼吸を繰り返して苦しそうだった。奏太を見ると少しだけ口角を上げた。
「こんばんは」
奏太は彼女の横に座る。
椅子から倒れても角田にあれほど殴られても傷ひとつつかなかった彼女が痛みに喘いでいる。
「変だよね。痛くてしかたないの」
「喋らないで」
奏太はポケットを探る。「令嬢」のネックレスを見せた。
「令嬢」が不思議そうに半開きの眼で奏太を見た。
「巳月公園で初めて会ったとき落としてたから」
奏太は「令嬢」の手にネックレスを置いた。
「令嬢」はしばらく見つめ、奏太に微笑みかけた。それだけで心が満たされた。
「俺が持ってたせいだ。それでおばさんに見つかって」
「令嬢」は薄く笑った。
「母さんはね。私が怖いだけだから。今日に始まったことじゃない」
「なんでこんなこと……」
「私は特別なんだって。母さんが初めて気づいたのは私が3歳のとき。やかんのお湯を頭から被ったの。でもね、湯気が立つなか私は火傷ひとつなかったんだって」
「……偶然だ」
「ふふ。嘘つかなくてもいいんだよ? 私自身が一番知ってるから。私にはおまじないがかかってるの」
「令嬢」と普段話す言い伝えのようだった。
「おまじないはすごいの。夜に見ると一日何も感じなくなるの。痛くもないし悲しくもない」
「だから傷もつかない?」
「そう。父さんと母さんは私の魔法を信じてた。ここに越してきたのもこのドレス着ているのもそう。私が汚れて凡百の人と同じになるのが嫌だった」
いつか病院の帰りに夜見坂のおばさんが車で「令嬢」について語ったときの目を思い出す。あの時の冷たい表情は家の中でも同じだった。
「綺麗なものだけ身体に入れているから貴方は大丈夫って母さんはよく言ってた。変だよね。母さんが見ない間に虫を食べてたのに」
奏太はいつか彼女がコオロギを口にしていたのを思い出した。
「角田に弁当を捨てられてたときって……」
「令嬢」は軽く頷いた。
「地面に落ちたご飯をまとめて口に入れてみた。じゃりじゃりしてるだけで普通のご飯だった」
「令嬢」が力なく笑った。
「身体が痺れる……。もうおまじない解けちゃったのかな。最近、ずっと見てない」
「それって夢か?」
「似てると思う。でも、おまじないは身体が自由に動くから」
明晰夢と共通する内容だった。
「赤い夢は見たことあるか」
奏太は尋ねた。赤い夢で「令嬢」が殺されていたことを奏太は話した。
彼女は首を振る。
「化け物に殺されかけたことは?」
「わからない」
奏太の顔を「令嬢」が撫でた。
「でもね、おまじないでは何十年といる感覚がするの。時間が引き伸ばされて永遠にいられるような気持ちになる。そこでは決まって私は……」
「令嬢」の言葉が止まった。
耳を澄ませると廊下から足音が聞こえてきた。真っ直ぐこちらに向かってくる。咄嗟に隠れる場所を探す。部屋には物影がなかった。
奏太がしどろもどろする間に、扉が開いた。
先程見た男が立っていた。男は少しだけ目を開いたが、すぐに無表情に戻った。
「あの……」
男は手で奏太の言葉を制す。
「迷っただけだな」
「え……?」
「この子は誰とも喋らないんだ。君と何も話すわけがない」
白くなるほど男は拳を握っている。奏太は「令嬢」を振り返ろうとする。
「見るな」
「はい」
「そのまま歩きなさい」
男が導くままに階段を登る。「令嬢」が気になった。男はコンクリートの壁を殴った。
「右に」
奏太は廊下を歩く。リビングを通り過ぎる。夜見坂のおばさんがいた。こちらを見ることはない。
「左に」
左に曲がる。玄関を抜けて外に出た。
「おい」
奏太が振り向いた瞬間、顔が爆ぜた。奏太は床に突っ伏した。自分が殴られたことに気づいた。頭の血管がどくどくと音を立てている。地面に何枚も紙がばら撒かれる。一枚拾うとそれは一万円札だった。
ドアが閉まる音がした。ほんの数秒の出来事だった。
奏太は坂を下る。万札はそのままにしておいた。頭が痛み続けた。
次の日に学校に行っても「令嬢」はいつも通りいた。青黒い顔を晒したまま、彼女は登校してきた。奏太は声をかけられなかった。黒いワンピースの背中を見ることしかできない。
だが、確かに彼女の首元にはネックレスが揺れていた。
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