第17話

 二日後の朝。

 蝉が騒がしかった。窓を開けると、蝉の合唱は一層大きくなった。晴天だった。日差しの強さに奏太は目を細めた。

「いってきます」

 鍵を閉める音が奏太に返事をする。

 夜見坂を今日も上る。一気に駆け上がると心臓の鼓動が早まった。足を動かすことだけに集中する。湧きだす考えを振り切る。

 巳月公園がある小山が青々としている。風が吹いて木々の葉がざわめいた。暑い季節は嫌いだったが、この景色は嫌いではなかった。

 坂を登り切り、夜見坂の家の前を見る。おばさんはいなかった。いつか見た白い車が家の前に止まったままだった。

 後ろから車が追い越す。青いワンボックスカーだった。

 奏太は坂を下る足を止める。「令嬢」が先を歩いていた。夜の出来事を思い出した。声をかけるべきか迷っていると、「令嬢」がよろめいた。車が後ろから走ってくる。身体が車道に飛び出しそうになる。クラクションが鳴り、車は彼女を避けて走り去った。「令嬢」は夢で見ているかのような足どりで歩いていく。

 今度こそ、声をかけようとするが、「令嬢」とすれ違うように坂を登る人影に気づいた。

 大きな部活用のカバンを肩にかけた男は、斎藤紀一だった。斎藤は気味悪そうに「令嬢」を見ながら、奏太に駆け寄った。

「来る道、間違えてんぞ」

「いいんだよ」

 奏太は表情では笑うようにした。「令嬢」が気になった。走り寄って様子を確かめたかった。

 斎藤と並んで坂を下りる。

「「令嬢」のやつ、なんだかボロボロだな」

「……「令嬢」の様子を見に来たのか」

「そんな言い方するなよ。俺もお前が心配なんだよ。ホウヤさん、寝たきりなんだろ」

「寝たきり……というべきかな」

 心臓が止まったままのホウヤを思った。

「放課後さ。お見舞いに行ってもいいか」

「面会時間に間に合わないよ。どうしてそんなに来たいんだ?」

 奏太には斎藤がホウヤを訪ねる理由が掴めなかった。

「前に実験に付き合ってもらっただろ? それにお化けホテルでも巻き込んじまった。ホウヤさんに一言謝らせてくれないか」

 奏太は面食らったが、ホウヤに聞いたら拒まないだろうと思った。

「いいよ。行こうぜ」

「藤田たちも呼んでも大丈夫か?」

「ああ……。明晰夢はもうやめたのか」

「藤田はもうさっぱりだ。双葉もやめたよ」

「岸本は?」

「あいつはまだやってる。俺もだ」

「悪夢は見ないんじゃないのか?」

「でも夢を見ないわけじゃない。岸本と俺は夢を使ってアイデア出しをしてる」

「アイデア出し?」

 斎藤は頷いた。「少し長くなる」と前置きして話し始めた。

「夢は日中の記憶の整理、情動の整理として存在する。その過程で全く関連性のないもの同士が混ざり合って夢は奇妙なものに感じるんだ。つまりだ。夢を自覚して覚えていられるとしたら、町の異変にもヒントが見つかるかもしれない」

「本気かよ」

「この町はおかしい。須山や菊池がいかれた。篠田は死んで「令嬢」はあのざまだ。何かあるとしか思えない」

「それを二人でやってるのか」

 奏太には信じがたかった。夢を通して探偵じみたことをしているのか。

「そんな真似しても何も生まれない。出来事に薄い共通性を見出しても陰謀論にしかならない」

「どうとでも言え。変わりゃしない。お化けホテルの一件で皆おかしな夢を見てるんだ。お前もホウヤさんを奪われてる」

 はっきり奏太の眼を見て言った。

 奪われてる?

「どういうことだ……?」

 見上げる奏太の目つきが険しくなる。校門を過ぎ、斎藤が言葉を続ける。遠くからクラクションの音がした。

「何かこの町ごと飲み込むような存在が蠢いている。俺が見る夢には篠田が出てくるんだ。それは俺の部屋だったり部室だったり様々だ。篠田と目が合うと決まって殺される。犯人は菊池や須山、角田や外能、俺の母ちゃんだった時もある」

「ただの夢だ」

 斎藤が首を振った。

「俺の知ってる人間は、みんな篠田を殺した。だけどな、一人だけ出てこない」

 奏太は斎藤の言葉を待った。

「「令嬢」だよ」

 斎藤は黙って頷く。納得いかなかった。

「じいちゃんが倒れたのとは関係ない……」

 校門で大きな物音がした。奏太が振り向くと車が煙を上げて止まっている。校門に激突し、鉄柵がひしゃげていた。

 激突した車には見覚えがあった。「令嬢」を轢きかけた車だった。不気味な符合に息を呑んだ。

 奏太と斎藤は顔を見合わせた。


 ホームルームの教室は騒然としていた。

 坪井先生が注意しても、興味は校門の事故に向いていた。

 激突した後、すぐに救急車で運転手が運ばれていった。藤田が言うには、担架から血まみれの腕がだらんと垂れていたという。

 生徒は巻き込まれていなかった。そのことが藤田には不満だったようだ。

 一時間目は理科だった。

 奏太は斎藤たちと教室を移動する。理科室は二階の家庭科室の横だった。

 理科室は校門を見下ろす場所にある。奏太が座る場所からも見えた。

 斎藤は動揺していた。そう見えないよう努めていたが、指が忙しなく動いたり、背中を気にしたりしていた。

 夢と事故の共通点はない。たまたま不注意な車が突っ込んできただけだ。

 斎藤を見ていると、自信がなくなってきた。奏太も何となく後ろが気になった。

 理科の先生は、黒板に双子葉類と単子葉類の違いを書き分ける。自分の授業に興味を持ってもらうかよりも、この時間をどう消化すべきか考えているようだった。

 レンコンのような断面と円が整列した断面のイラストを指し示す。

「この通り、単子葉類の維管束はバラバラ。双子葉類は円形に並んでいます。教科書を見てください」

 教科書には単子葉類の例にとうもろこしのイラストが載っている。奏太はとうもろこしの収穫を思い出す。もう二週間もしたらホウヤと畑に行くはずだった。

「分類が同じならば、この規則は変わりません」

 人間も同じなのかもしれない。奏太はふと思った。

 同じ夢を見た全員の脳が、同じ形をしているのを想像する。

 授業に集中しよう。奏太はノートに維管束を描きとる。授業はシダ植物とコケ植物の分類で終わった。

 時間の流れを早く感じた。美術も国語も好きだった。だが、ふとした瞬間にホウヤが寝たきりなのを考えてしまうと、現実に引き戻される。ひとりぼっちになる不安が襲ってきた。チャイムがすぐに鳴った。

「さようなら」

 先生が教室を出るより早く奏太は扉を開いた。

「病院は?」と双葉が言った。

「伯希総合病院ってとこ」

「駅の反対じゃん! 遠くね」

「バス使えばすぐだよ」

「バス停は裏門からの方が近いな」

 そう言いながら藤田は靴を下駄箱から出す。一番早く昇降口から出た。踵を踏みながら奏太も追いかける。

 裏門を通り抜けて農道に出る。駅の側に走るとすぐに見つかった。

「最寄りのバス停には遠いよな」

 藤田が愚痴をこぼす。ちょうどバスが通りかかった。

 奏太たちが順にステップを上がる。車内には年配の人が多かった。

「みんな病院かな」

「じゃない?」

「金ある?」

「あっ」

 奏太はカバンを探す。双葉も同じようにしていた。

 いつも入れている財布が今日に限って見つからない。汗が頭の後ろに出るのが分かった。

「ないのか?」

「双葉は?」

「俺もない……けど」

 双葉に焦りはなかった。プリントだらけのカバンを漁っていると、なにかを見つけたようだった。

「俺は運がいいから」

 双葉の指先にクシャクシャの千円札が摘まれていた。千円札はそのままでは両替機に使えず、運転手が両替してくれた。

「奏太のじいちゃんってどんな人?」

 双葉が聞いた。

「俺見たことあるんだけど」と斎藤。

「でかい龍って感じだった」

 斎藤が真面目な顔で言った。奏太は笑った。

「なんだよ、それ」

「見てないようで遠くから見てるんだよ。昔さ、高校生がめっちゃバイクで農道飛ばしてたときあったじゃん。あの時もさ、ホウヤさんが青信号渡る時だけは徐行してたんだ」

「すげえ」

「きっと、見てないとこで叱ってたんじゃないかな。だから龍」

「変な喩えだな」

 奏太はそう言いながら驚いた。ホウヤの知らない一面だった。

「奏太のじいちゃんって声デカいよな」

 藤田が言う。

「散歩してたらさ、「背筋伸ばせ」って聞こえたんだよ。そしたら、お前のじいちゃんが田んぼふたつ越えたとこから言ってた」

「ウソだろ」

「マジだよ」

「てか、それって視力良すぎだろ」

 奏太たちは笑った。久々に心から笑った。

 ホウヤの話はまだまだ続いた。

「奏太が来る前だから、だいぶ昔かな。まだホウヤさんってもっとデカい畑やってたらしいぜ」

 双葉も話した。

「デカい話ばっかだ」

「いいだろ。ホウヤさんはデカい男ってことで」

 双葉が続けた。

「そのころ、クマが出たらしいんだ。そのクマをホウヤさんが撃退した」

「ああ、たまにクマ出没の放送がなると母ちゃんも話すな。クマ撃退の武勇伝」

「初めて聞くな」

「ホウヤさんの畑で保育園のクラスがサツマイモを育ててたんだ。秋ごろ、収穫になったらクマが出て来た。軽トラくらいはあったらしい」

「それを撃退? じいちゃんが?」

「スコップでぶん殴ったらしいぜ。これもマジ」

 後半は嘘くさかったが、ホウヤを思いのほか皆は知っていた。

「次は伯希総合病院」

 運転手のアナウンスが入る。

 普段来る病院だが、おばさん以外と来るのは初めてだった。受付を済ませ、病室に案内される。奏太たちは看護師の後についていく。

 看護師が案内したのは別の病室だった。

「あの、部屋番号が違います」

「すみません。こちらの都合で個室に変えたんです」

 看護師は申し訳なさそうに目を伏せた。案内すること自体を謝罪しているようにも奏太は感じた。

 扉を開けると全身にうっすら汗をかいた。

 室内は暖房がついているように暑かった。冷房のスイッチを入れようと探す。すでに冷房はついていた。

 横たわるホウヤの姿を見て奏太は言葉を失った。

 ホウヤの体は遠目からでもふたまわり大きくなっていた。筋骨隆々の格闘家のような姿だ。異様な熱気を放ち、肌がちりちりと焼ける感覚がする。

「友達連れてきたよ……」

 奏太はおそるおそるベッドに近づく。簡易机に置かれた見舞いの花がしおれていた。

「本当に眠ってるんだよな」

 双葉がつぶやいた。そう思うのは無理なかった。

 近くで見ると異変は現実だと分かった。ホウヤの顔には深い皺が刻まれている。それは顔面の筋肉の発達によりライオンのように変わっている。皮と骨のような身体にはみっしりと筋肉がついていた。

 奏太はホウヤに触れ、反射的に手をひく。火にかけた鉄板のような熱さだった。

「寝てるのにムキムキになるのか」

「分からない」

「こんにちは」

 斎藤が挨拶する。返事はない。

 病衣からのぞく足も手もア肉食獣のように筋肉質だった。

 これも夢と関係があるのか。

 奏太は異形に追われた時の夢を思い出す。夢はホウヤの家の前で終わっていた。奏太は自分が原因を連れてきてしまったのではないかと思った。

「あんまうるさいの嫌いでしたか? すみません」

 双葉が頭をかく。普段通りに接しようとしている。

 藤田はホウヤを探るように見つづけている。

 やがて言葉は続かなくなった。奏太たちはただ目の前の異常を見ていた。分かっていることは何もわからないことだけだった。

 いくらかホウヤの話をして盛り上げようとしたが長くはもたなかった。

 30分ほどして奏太たちは病室を出る。廊下の空気が涼しい。

「あれってさ、赤い夢のせいなんじゃないか?」

 藤田が言った。

「おい」と奏太。「なんでも夢のせいにするなよ」

 双葉が割って入って止めようとする。

「外能の夢に当てられてるとか」

 斎藤が同調した。

 図星だった。

 奏太もホウヤを夢と関連づけてしまった。それが嫌だった。何も関係などない。たまたまホウヤは眠っているだけだ。

 自分の夢のせいでホウヤが倒れたとは受け入れられない。奏太はそう考えるだけで恐ろしかった。

「じゃあまた」

「じゃあ」

 バスで駅に降りて解散した。空は暗くなり始めていた。家にひとりで帰ると思うと、奏太の足取りが重くなった。わざと遠回りをして時間を潰した。

 駅を過ぎ、農道をまっすぐ歩いていく。須山の家がある住宅地を通った。ツートンカラーの家が目に入る。前に見た時よりも陰気に感じた。カーテンを全て閉じているからだろうか。

 二階にふと目が吸い寄せられた。あの場所で須山の独白を聞いた。遠い過去のように感じる。

 奏太はカーテンが揺れたのを見てしまった。咄嗟に目を逸らす。風は吹いていなかった。

 奏太は小走りで家に向かった。

 あのまま見続けていれば、あの時よりひどいものを見るような予感がした。

「ただいま」

 家に着いた。電気を点ける。居間の机にメモ書きが置いてあった。夜見坂のおばさんが書き残しておいてくれていた。「肉じゃが冷ゾウ庫に入れておきました」と書いてある。隣にはホウヤの家の鍵が置いてあった。

 ホウヤが倒れた日、入院用の服を取りに行ってもらったときに貸したままだったのを忘れていた。

 奏太は念のために、貴重品を調べた。特に異常はない。我ながら不用心だったと思ったが、夜見坂のおばさんが盗みをする姿は想像できなかった。

 肉じゃがを温め、居間で食べた。眠るのも今日は居間と決めていた。

 二階の自分の部屋は個室の病室を思い出した。

 病室の異様な熱気が顔にかかる気がした。ホウヤの姿が頭から離れなかった。

 眠って忘れたい気持ちと夢を見たくない気持ちが混ざっていた。眠るか眠らないか。奏太が迷っているうちに、夜は更けていった。

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