第16話
──二〇XX年七月
ホウヤの身体に異常が起きていた。診断した医師は終始困惑していた。
ホウヤの心臓は停止していた。確実に死んでいる。それにも関わらず、体温は45度を示していた。臓器の確認もしたが、心臓以外は正常に動いていた。未だかつてない事態だった。
市から来た医者も首をひねっていた。しばらく他の入院患者と同じようにホウヤは寝かされることになった。
奏太はベッドのホウヤを見ていた。シワの深い顔は静かに眠っているだけに見えた。
「奏太くん……」
夜見坂のおばさんが奏太の肩に手を置く。救急車を呼んだとき、おばさんが同行してくれた。その後も、こうして見舞いに行く奏太を気遣ってくれた。
奏太は病室から出る。倒れた日から2週間近くたっていた。土日に奏太は見舞いに行ったが、ホウヤに回復の兆しはなかった。
病院から出る。熱気の塊が全身をつつんで汗が滲む。今年は例年よりも暑かった。
夜見坂のおばさんの運転するシボレーに乗った。ホウヤが動けない今、時折ホウヤの車で送迎してもらっていた。
「すみません」
「いいのよ、大変な時はお互いさま」
バックミラー越しに微笑む。おばさんは優しかった。ホウヤがいなくなってしまった家にひとりでいた時に、ご飯を作りに来てくれたこともあった。
「どうしてこんなに優しくしてくれるんですか」
「言ったじゃない。困ったときはお互いさま」
「悪いですよ……それにおばさんの娘さんにも」
おばさんが急ブレーキを踏んだ。シートベルトが胸にぐっと食い込む。
「奏太くん。私はあなたの心配をしてるの。ホウヤさんにはお世話になったから。でもね、彼女のことは口に出さないで」
初めて見るおばさんの顔だった。眼差しが冷たい。「令嬢」を「彼女」と呼ぶのが不思議に思えたが、奏太は気圧されて何も言えなかった。
「約束できる?」
「……はい」
車は再び走りだす。おばさんの顔はいつも通りになった。
「スーパーに寄っていきましょうか。何か食べたいものはある?」
言わなければ、またあの目で見られそうだ。奏太は最初に浮かんだ名前を言った。
「カレー……」
「いいわね」
5分ほどでスーパーに着いた。
奏太は夕食の材料の買い出しを手伝った。ひとりで買い出せるとおばさんは言ったが、何かしていた方が気が紛れた。
家に着いても空は明るかった。奏太は出来るだけ早い時間に家に帰るようにしていた。暗いままの玄関を見るとホウヤを思い出してしまうからだった。
「ただいま」
「お邪魔します」
声は空っぽの家に響いて消える。
奏太は手を洗いに洗面所に行く。おばさんも後ろについてきた。
手汗が水に流れる。鏡に映るホワイトボードに目がいく。
「7/15(日)いんげんとる」
7月15日はちょうど来週だった。
ホウヤの字はわかりやすい。「い」の書き方が一つに繋がっていて独特だった。
「収穫の時期?」
「毎年、この時期はふたりで獲ってるんです」
「そう。……でも今年は」
「いえ、ひとりでやれるので大丈夫です」
奏太が笑う。仕方なかった。やれるのは自分だけだ。
「量も多いんでしょう?」
「自転車に籠を乗せて何往復かすればなんとかなりますよ」
「車が必要じゃない」
「いいんです。土で汚れますし」
奏太は固辞した。おばさんはいかにも心配している風だったが、形式的なようにも感じた。
「じいちゃんのサツマイモ、どうでした?」
おばさんが一瞬、目をしばたたかせる。間を置いて「美味しかったわ」と言った。いつかゴミ袋に入っていたのは見間違いだったのだろうか。会話が続かなかった。
「さあ。夕ご飯の準備しましょう」
「手伝います」
廊下を渡る。台所に入っていくおばさんに声をかけた。調理道具の場所を伝えながら、奏太は手伝い始めた。
1時間ほどたった。机の上にはカレーとレタスとトマトを盛り合わせたサラダが載っている。
カレーの匂いが食欲をそそる。奏太は胸のつかえを感じた。ホウヤと食卓を囲んだ時を思い出していた。ホウヤが笑う顔が恋しかった。
カレー自体は美味しかった。ルーが違うため、普段よりも辛く感じた。
「じゃあそろそろ帰るわね。何かあったら連絡すること」
奏太は夜見坂のおばさんの携帯番号を書き留める。固定電話の前に付箋で連絡先を貼っておいた。
おばさんを見送る。居間に戻ると静寂が蘇った。自分の生活音だけが聞こえるのを、孤独というのだろう。
奏太はテレビをつける。冷蔵庫から漬物を出し、齧りながら見る。画面の向こうで起きてることに何も感じない。虚しくなってスイッチを切ってしまった。
居間が広い。自分が小さくなったように感じる。早々と歯磨きを済ませて二階に向かった。
目覚ましを5時ちょうどにセットする。ゴミ出しと弁当の用意を考えてこの時間にした。
電気を消し、網戸にしておく。2階の部屋は熱がこもりやすかった。
奏太は早めにベッドで眠ろうとするが、寝つけなかった。
頭の中には夢への恐怖があった。
あれから一度もあの異形は夢に出なかった。
藤田たちと一度そのことを話した。彼らも同じようだった。あの一件の後も、しばらく明晰夢の実験を続けていた。双葉や斎藤は夢でも自由に歩いたり飛んだりできるようになったらしい。だが、「赤い夢」は一度たりとも現れなかった。
「俺の気のせいだったかもしれない」
藤田は肩を落としていた。ここ最近は明晰夢への興味は薄れているようだ。
「何もない。何もない」
奏太は自分にそう言い聞かせ、枕の位置を変える。目を瞑り、動かないでいる。眠ろうとするほど目が冴える。
……仕方ない。
奏太はジーンズを履いた。カバンに懐中電灯と『伯希町伝承集成』をしまう。
二階からパイプをつたって外に出る。
もう何度もやめようと思っていた。
はじめは眠気を紛らわせるつもりで歩いていた。誰もいない町を歩いたり、道に寝転んでみたりするのは楽しかった。習慣となるまで時間はかからなかった。
奏太は夜見坂を駆け上がる。なるべく足音がたたないように気をつける。
懐中電灯をつけ、巳月公園を目指す。夜の公園は昼とは違って見える。枝葉は幽霊の手に、土は獣の腹の手触りに似ている。
虫の鳴き声が周囲から聞こえる。自然の中で自分が異物だと感じる。
入口に奏太は立つ。いつものように滑り台とブナが視界に入る。
「こっち」
「令嬢」の声がした。奏太がブナの木を照らすと幹の後ろから手を振ってきた。
奏太にはもうひとつ夜に楽しみにしていたことがあった。
「早くやろう」
「焦らないで」
「令嬢」が歩み寄り、滑り台の脇に座った。
奏太はカバンから『伯希町伝承集成』を取り出し、滑り台の上に置く。しおりの位置は半分を越えていた。「令嬢」との伝承探しはずっと続いていた。
奏太はこの時間が好きだった。夜に「令嬢」と会うときだけは寂しさから離れられた。
懐中電灯を片手にページをめくる。「令嬢」が「天狗岩」の伝承を指差す。
ざっと読むと「天狗岩」は願いを叶える岩のようだった。
「これを確かめたいな」
奏太が首を振った。
「だめだ。伯希町の中部って書いてある。終電がでてる」
「そっか。残念」
「何か叶えたい願いがあるのか」
奏太の問いに彼女はうなずく。
「みんなが幸せになれる願いがあるの」
含みを持たせた言い方だった。
「それって何?」
「ひみつ。言ったら叶わなくなっちゃうかも」
「透け地蔵の時は嘘っぱちって言ってたじゃないか」
「あれとは別。私は全部が嘘だと思わないよ。千あるうちひとつが本当ならそれでいいの」
懐中電灯の光を本が反射して顔が照らされている。
「じゃあ……今日は、これ」
「令嬢」が指をさした箇所を読む。「口七つ」という見出しだった。
「口七つ」は伯希町北部の伝承である。口が頭に七つついているとも、顔が七つあったとも言われる。
口減らしをした家の前に必ず現れるとされ、「くちななさん」と4回呼ぶと現れる。出会ったときは「笑うも笑わぬも犬の勝手」と3回唱えなければ口をとられてしまうと言われている。
「うぇ、これ怪談じゃん」
「怖い?」
「怖いよ。お化けは苦手だ」
「奏太くんは正直なんだね」
「からかうなよ。……でも、これは流石に見つからないだろ。他の伝承と違って都市伝説みたいだ」
「くちななさん、くちななさん、くちななさ」
慌てて奏太は「令嬢」の口を抑えようとした。その拍子に奏太が「令嬢」の上に被さるようになった。距離が近づく。甘い香りがした。
「ごめん」
奏太が離れようとすると、「令嬢」が奏太の頬に触れる。
「離れろよ」
「奏太くん。顔熱くなってるよ」
「令嬢」が顔を近づけ、耳元で囁く。脳が痺れた。考えがまとまらなくなる。
奏太は振りほどく力が出なかった。なすがままにされる。「令嬢」が額を合わせてきた。彼女の意図が分からなかった。
「やめろよ……本当に」
「だめ、私の目を見て。早く」
唇が開くたび湿っぽくて甘い匂いがした。髪の毛どうしが当たってちりちりと音がする。
奏太はまつ毛の長い彼女の目を見つめる。
「せーの、で呼ぼう」
「……」
「せーの」
奏太と「令嬢」は同時に「くちななさん」と四回呼んだ。
虫の鳴き声が消えた。水を張ったような静けさが辺りを包む。奏太は息を止めていた。
突然、藪が音を立てる。驚きで身体が震え、反射的に「令嬢」の腕に掴まる。藪をじっと見つめる。黒い頭が覗く。段々と藪の隙間から細い腕が現れる。時間が遅く感じる。見てはいけない。そう思っても目が離せなかった。どこまでも黒い。現実なのが空恐ろしくなる。
「鹿だ」
「令嬢」がつぶやいた。
黒い影が踵を返した。葉を擦る音はしだいに遠くなる。
また、静けさが戻った。
奏太は吐き損ねた息を吐き出す。喉が締まって鳥のような変な声が出た。恐ろしさが身体から抜けていったせいだった。あれは本当に鹿だったのだろうか。暗いせいもある。奏太は思い出しても何か判別がつかなかった。
目の前の「令嬢」は肩を震わせていた。
「泣いてるの?」
「ううん。違う。なんか変な感じ」
細かく震えて息を吐いている。
「もしかして笑ってる?」
「あ、そうかも。奏太くんがすごく怖がってるから面白くて……。は、はじめてかも」
そう言いながら「令嬢」はまだ笑っていた。慣れていないのか過呼吸のようになっていた。彼女が笑うたびに背中が小刻みに揺れる。奏太にそれが伝わる。初めて彼女が笑う姿を独り占めしている。奏太の心が充足感で満たされていく。奏太は「令嬢」が笑いおわるまで見ていた。
「笑うのって疲れる」
「そんなにおかしかったか」
「令嬢」はこくん、とうなずいた。
「誰にも言わないでね。奏太くんと私だけの秘密だから」
距離が近すぎて「令嬢」がどんな表情をしているか分からなかった。夜なのが惜しかった。
しばらくじっとしていたが、「口七つ」は現れなかった。奏太には怪談よりも「令嬢」が感情を表したことのほうが驚いた。
「ふたりでやってみるもんだね」
奏太の横に座り、「令嬢」が言った。
「白はぎくらいだよ。きっと本当なのは」
「そんなことないよ。絶対ある」
「天狗岩がそうだといいな」
風が吹きはじめた。雲に隠れた月が出てきた。「令嬢」の顔を青白く照らす。彼女は微笑んでいた。奏太は自分の頬が熱くなるのが分かった。
「今日は寝るよ」
「また明日。天狗岩はまたいずれ」
「うん。またいずれ」
「私はまだ残ってるから。一緒に帰ったら殺されちゃう」
「令嬢」が言った。奏太は彼女に手を振り、家に向かった。「令嬢」は普段何時に帰っているのかわからなかった。
また目の奥が痛む。眠気と混ざりあい、目を開けているのが辛かった。パイプを登る手が離れそうになる。
ホウヤはいないのだから玄関から入ればいいのは分かっている。そう思ってもホウヤに見られているようで気が進まなかった。
窓から自室に入ると崩れ落ちるようにベッドに倒れ込んだ。
「秘密か……」
奏太は彼女の言葉を繰り返す。
「令嬢」の肌触りを思い出しているうちに奏太の意識が遠のいた。
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