第14話

 教室の壁時計は午後四時を示している。雨が上がっていた。空は曇っており、一面の灰色が奏太の気持ちを滅入らせる。一分が長く感じた日だった。五時間目が終わり、ようやく解放された気分だ。

「さようなら」

 日直の挨拶が終わる。水曜日の教室は帰るか部活かしか頭になかった。一斉に教室から生徒が散っていった。坪井先生も早々と去っていった。

 普段なら空っぽになる教室だが、今日はそうではなかった。

 教室の窓側、一番前の席に藤田と双葉が集まっていた。

 しばらくして他クラスから知らない女生徒が入る。彼女もその会話に加わった。

 斎藤と奏太も会話に混ざった。

「こんにちは」

 他クラスの女生徒は岸本だった。奏太は会釈した。

「運がいい。今日は外能がいる」

 双葉が言った。

「外能も見るのか?」

 藤田が訊いた。

「俺が誘ったんだ。外能も同じ夢を見るらしい」

 斎藤が言った。奏太は教室を見回す。藤田たちが集まっているとは知らなかった。

「これから何をするんだ?」

 藤田が笑った。机の上には夢に関する書籍が並んでいた。

「俺たちであの夢を調べる」

 ここに集まった五人は全員同じ夢を見ているようだった。藤田たちはあの夢を「赤い夢」と呼んでいた。

「夢を調べるなんてできるのか?」

「簡単だよ。明晰夢を見るんだ」

 藤田は一冊の本を開いた。「夢を操る」と題した見出しが目を引く。

「このMILD法を今日の夜に試してほしい。5時間寝たら一度起きろ。夢の中にいると自覚すると暗示するんだ。明晰夢が見られる」

 奏太は眉根を寄せる。

「俺たちもこの通りやってみた。少しずつ見られるようになってきてるんだ」

 双葉が笑いまじりに言った。

「明晰夢が見られるようになれば、赤い夢を探る手がかりになる」

「赤い夢ではいつも「令嬢」が殺されていたよな。その犯人も誰かわかるかもしれない」

 藤田が言った。

 現実的ではない。そんなに上手くいくのだろうか。奏太は未だに疑わしかった。

「それにあたってだ。外能。お前も練習してみないか?」

「えっ」

「明晰夢は訓練が早ければ早いほどいい。MILD法を試してみろ」

 斎藤が錠剤を三錠出した。

「母さんがいつも飲んでる眠剤だ。これだけ飲めば眠りの準備は完璧だ」

「心の準備が出来ていない」

「いいからやってみろ。今回はお試しだ。赤い夢が見られるとは限らない。ここまで来て見てるだけでいいのか?」

 見てるだけでいいのか。その言葉が奏太の耳に刺さる。また「令嬢」が殴られる光景を思い出す。藤田を睨む。奏太は錠剤を受け取り、水筒の水で飲み下した。

 全く眠くならない。そう思っていたのは最初の数分だけだった。すぐに瞼が重たくなった。

 肩を揺すぶられ、奏太は重たい瞼をこじ開ける。目の前に紀一の顔があった。

「今ので一時間だ」

 顔先に出されたスマートフォンには17:05とあった。

「何か見たか?」

 奏太は首を振る。

 深い眠りだったのか夢は一つも見られていなかった。頭が重たかった。目蓋がすぐにでも閉じてしまいそうだった。

「まだだ、聞いてくれ。お前が次に見るのは夢だ。外能、お前は夢を自覚できる」

 夢を自覚できる……夢を自覚できる……。

 脳内で声が反響する。奏太の意識は再び沈んだ。

 次に目が覚めたとき、奏太がいるのは教室だった。蛍光灯が青白く照らす。窓の外を見ると真っ暗だった。ぼんやり自分の顔が映る。時計を見ると5時過ぎだった。藤田たちはいなかった。

 教室を出て廊下を歩く。天井から吊り下がる電灯は家のものとよく似ている。光量が足りず廊下が薄暗い。

 奏太の足が止まった。目の前の床には血の跡がついていた。肉を引きずったのだろうか。荒々しい筆跡のようだった。廊下の先まで続いている。

 じゃりん じゃりん

 後ろから金属が擦れる音がした。振り返ると異形が立っていた。ひび割れた仏像の頭を被った大男だ。手には鎖に繋いだ赤い塊を引きずっている。塊は捥がれた下半身だった。ジャージを履いたままの脚があらぬ方向に曲がっている。

 奏太はつまずきながら離れる。これは夢だ。頭の中で何度も唱える。

 奏太は廊下を駆ける。

 じゃりん じゃりん じゃりん

 鎖の音が速まる。異形が追ってきている。

 奏太は角を曲がり、昇降口を目指す。血の跡は奏太が走る方向に続いている。

 下駄箱にたどり着いた。むせかえるような血の臭いに吐き気がした。すのこがある場所には赤黒い肉が積まれていた。奏太は諦めて二階へ上がろうとする。

 階段の手摺に死体が引っかかっていた。奏太はその顔を見てしまった。

 無表情の「令嬢」だった。奏太は叫びそうになる。

「さいと」

 背後から声が聞こえた。唸るような低い声だった。昇降口を諦めて職員出口へ向かう。奏太は角を左に曲がる。リノリウムの床がきゅっと鳴る。振り返ることなく走り続けた。壁に血のついた手で擦った跡が続いている。

 しゃぎん

 金属が擦れる音が響く。天井に一直線に亀裂が走る。肩を突き飛ばされた。奏太はよろめく。走ろうとするが、バランスが取れず上手く走れない。

 左肩から先が丸ごと無くなっていた。

 視界の端で鎖が這う。腕に鎖が巻きついている。血の弧を描きながら異形の元に鎖が手繰り寄せられる。

 鎖は意志を持って宙に浮く。異形は頭のひび割れに奏太の腕を入れる。

「いは!」

 異形は言葉にならない何かを叫ぶ。

 これは夢だ。そう分かっていても激痛と恐怖でないまぜになった。奏太は激痛で吐きそうになりながらも前に進む。

 背後で枝を折るような音と腱を噛みちぎる音がした。

 腕を喰っている。

 傷口を抑え、なるべく血痕で追われないようにする。血の気が失せていくのがわかる。すぐに痛みと出血のショックで立っていられなくなった。

 奏太は職員トイレの一番奥の個室に入った。痛みに喘ぎそうになる。残った右腕に噛み付くことで押さえた。

 じゃりん じゃりん

 鎖を引きずる音は大きくなっていた。腕を喰った異形は奏太を探していた。

 金属音が一段と大きくなる。トイレの扉が壊れる音がした。自分ではない呼吸音と鎖の音が狭いトイレに響く。

 心臓が早鐘を打つ。この個室の扉が開けられないことを祈った。

 タイルの床に肩口の血が滴り落ちる。溝を辿って血液がトイレの外に出ようとする。咄嗟にタイルを拭おうと手を伸ばす。

 ドアの隙間から、鎖が這い寄る。手に鎖が巻きついた。

 奏太ははっきり見てしまった。鎖は金属ではなかった。腸のようにうっすらと血管が浮き出ている。そこに水玉のように無数の口が並んでいる。歯をむいて一斉に啼いた。金属音に似た不快な声だった。

 奏太が手を引こうとしても動かない。

 人差し指、薬指、手のひらに唇が吸いつく。手の力が抜けていく。食い破られるのを見ているしかなかった。

 助けてくれ、怖いよ。

 唇が肉をこそぎ落とす。手の甲から白い骨が見えていた。

「じいちゃん……」

 奏太は無意識に声に出していた。

 身体が浮いたような感覚がする。

 次の瞬間、トイレの床がアスファルトに変わっていた。奏太は驚き、辺りを見回す。トイレのドアはなくなり、目の前に瓦屋根の家があった。ホウヤの家だった。

 明晰夢が原因なのか。奏太の願いがそのまま映し出されたようだった。見回しても異形はいなかった。

 右手を見る。鎖が張り付いていた箇所は虫食いのようになりボロボロだった。

 かち、かち、と音がして振り向く。アスファルトに白はぎが転がっていた。

 白はぎの「良いこと」とはこれだったのか。

「お前が助けてくれたのか」

 奏太は右手で白はぎをつまみ、胸に押さえる。

 じゃりん じゃりん

 遠くから、金属の擦れる音がした。

 じゃりん じゃりん 

 さらに大きくなる。奏太は夜見坂を見上げる。

 月の光が差し込む坂の上、異形が姿を表す。

 身体は遠目で見ても大きい。さらに異様に見えるのは割れた仏像の顔、全身に巻かれた生きた鎖だった。

 奏太は全身の力が抜けるのを感じた。ただ目の前の事実を受け入れるしかなかった。

 逃げられなかったのか。

 異形は無言で坂を降りてくる。

 じゃりん じゃりん

 逃げられない。

 ああ、ああ……。

 じゃりん じゃりん

 異形が走るのとともに景色が歪む。

 おい……おい……

「おい、おいっ! 外能!」

 奏太は身体を揺さぶられて目が覚める。双葉が奏太の肩を掴んでいた。少し離れて藤田や岸本、斎藤もこちらを見ていた。

「今はどっちだ……?」

「現実だ」

 双葉がスマホを見せる。時計は17:30になっていた。

「一度目の覚醒から15分たった」

 15分? 奏太は聞き間違えたのかと思った。教室の窓から橙の空が見える。どうやら本当に15分しかたっていないようだ。

「二度目の眠りに入って5分もたたないうちに左腕が痙攣してた。おまけに指がひりつくくらい発熱してた」

 そう言って斎藤がスマートフォンの動画を見せる。

 画面にうつる奏太の左腕が別の生き物のように動いていた。

「いったい何があったんだ」

 藤田が尋ねた。奏太は言えなかった。それが本当になってしまうようで恐ろしかった。

「もう明晰夢の実験はしない方がいい」

「どうしたんだよ、外能」

「俺たちじゃどうしようもない奴らがくるかもしれない……」

 藤田にそれで伝わったかは定かではなかった。

 その後は何も言えず沈黙が支配した。奏太は教室を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る