第12話
夕食にはカレーライスとおから、茹でたブロッコリーが出てきた。
カレーの匂いには人を空腹にさせるまじないがある気がする。奏太はカレーを目にするたびそう思う。
「鍋いっぱい作ったからな」
「いただきます」
ルーにはじゃがいもが溶け出している。スプーンですくうとずっしり重たくなった。
一口頬張る。スパイスの香りと辛味が鼻を通る。米の柔らかさとじゃがいものさらさらとした舌触りがする。
「うまいね。やっぱりうまい」
「奏太は何食ってもうまいだな」
「うまいからうまいんだよ」
「今日は何かあったか」
「体育でバスケやったよ」
最近はホウヤと学校のことを話すのが日課だった。ホテルの一件で放任気味だったホウヤも学校生活を心配しているようだった。
「そういえばさ、じいちゃんは白はぎって知ってる?」
「何?」
「しらはぎだよ」
「知らねぇな」
「本当に? 聴き覚えない?」
「いやぁ、初めてだ。ずっとこの町に住んでるが一度も聞かねぇな」
ホウヤが知らないのは意外だった。奏太が白はぎの伝承を話しても眉を寄せて首をひねるばかりだった。
「その白はぎを持って帰れば良いことがあるんだな?」
「そうだよ」
「ぼやけた言い方だな、良いことってのは」
「透け地蔵だって大概だろ」
「言い伝えってのはそうだけどよ。……奏太は良いことで何が起きてほしい?」
ブロッコリーを咀嚼しながら考える。
「もろこしがいっぱい獲れるとか」
「毎年叶ってるじゃねぇか」
ホウヤが笑う。奏太もつられて笑った。
「良いことってじいちゃんは無いの?」
「……来年も生きていられれば十分良いことだな。おかわり持ってくるか?」
ホウヤは空になった皿を台所へ持って行った。
奏太は笑う気になれなかった。幼い頃からいたホウヤがいなくなる。自分の支えが折れてしまうような気がした。
「はいよ」
ホウヤが出すおかわりのカレーを味わう。
「やっぱりうまいね」
奏太は大きめの塊を口に運んだ。いつもの味だ。ホウヤの作るカレーは消えてほしくない。そう思ってまた一口食べた。
夕食の後に風呂に入ると夜の7時だった。早々に自室に引っ込み、奏太は久しぶりに漢字ドリルを開いた。とにかく手を動かして気を紛らわせたかった。
ドリルは中学になって途中で終わっていた。奏太は真新しいページを開く。例文の空白のマスを埋める。ノートに同じ漢字を繰り返す。
教会へ「レイハイ」に行く。
てへんを書き、四本の横線、縦線を書くと「拝」ができた。つくりが面白い。鉄塔やアンテナのような形をしている。奏太はアンテナに手を合わせる人を想像しつつ、「拝」だけノートに書きとる。ひたすら書き続けていく。
無心になると5ページはあっという間だった。白紙は手とアンテナで埋め尽くされた。隙間なくてへんとアンテナが並んでいるとざらついた樹皮にも見えてきた。奏太は書き続ける。頭の奥が熱くなる。
奏太の想像が飛躍する。
静寂が支配する森の中。雨上がりのようだ。空気は湿っている。土の匂いがたちこめている。水分を含んだ空気が身体にまとわりついた。
奏太は大樹の前に跪いている。樹皮が黒くひび割れている。雨で濡れた表面は艶がかっていた。
奏太が手を合わせ見上げる。ふと後ろから、水の滴るような音がした。振り向くが何もない。
顔を戻すと、樹皮の後ろから黒い枝が生えていた。よく見るとそれは、くにくにと動いている。触覚だ。間を置かず、数が増える。気がつくと木から樹の後ろから大量の触覚が現れた。不規則に触覚たちが動く。
触覚の一本一本には眼がある。樹の裏から触覚の主が姿を表す。カタツムリだった。やがて樹皮を埋め尽くすようにカタツムリたちが蠢く。殻の色は白、赤、黒と様々だった。無秩序な動きが統一されていく。
黒い殻は白い殻を囲むように動く。赤い殻は内側に。カタツムリたちが「令嬢」のモザイク画を作り上げた。赤い殻が動くと「令嬢」の口元も動いた。何度か動くのを奏太は見続けた。
「おいで」と言っているようだった。
恐ろしくはなかった。奏太はゆっくりと手を樹に伸ばす。頬を触る。ごつごつとした殻の触り心地がした。奏太は指を上に動かす。不意に台無しにしてしまいたくなった。
目の部分の黒い殻を潰す……。
ノートは真っ黒になっていた。奏太は顔を上げる。時計は8時に差し掛かっている。
ページを捲らず書いていたようだ。無数の「拝」は奏太の無意識に呼応してノートに黒い大樹を作り出していた。漢字を書いていると様々なイメージが湧くが、一度もこんな体験はなかった。机上の白はぎがデスクライトを反射していた。
奏太は顔を洗いに一階に降りる。洗面台の蛇口をひねった。先に手を洗うと、水が冷たかった。右手についた黒鉛をこそぎ落とす。
顔を洗い、鏡を見る。青白く、目に隈ができていた。病院でみた菊池梨香を思い出す。不思議と驚きはない。
脳が痺れているようだった。眠りと覚醒の狭間に立っていた。
奏太は異変を感じた。
鏡越しの背後には、有線電話とホワイトボードが置いてある。ホウヤが用事を忘れないようにするために置いておいたものだ。
「ねえ」
鏡越しのボードに黒い文字が書かれている。子どもが描いたような歪んだ字だった。
「あそぼ」
奏太が視線を逸らすたびに文字が増える。
「ゆめは」
瞬きしても同じだった。
「あそびば」
振り返ると文字は消えていた。
鏡に視線を戻す。文字はまた増えていた。
拝拝拝拝拝拝拝拝拝拝拝拝拝拝拝拝拝拝拝拝拝
夥しい数の「拝」の字がひしめいている。しばらく見ていると、文字は水彩絵具のように滲んで消えた。
部屋に戻り、時計を見る。時刻は9時過ぎを回っている。ホウヤはもう寝ている時間だった。
奏太は寝付けないでいた。また「令嬢」の幻が見えそうで目をつぶれなかった。
ぼんやりと夜見坂を眺める。ばららら、と音を立ててバイクが坂を走り去る。
月が出ておらず、夜空は普段に増して暗かった。
白い箱のような「令嬢」の家には電気がついていた。坂に街灯の類はなく、家の電気がうっすらと道を照らしている。
庭に白い車が見えた。父親の車なのだろう。奏太は「令嬢」の父親を未だに見たことがなかった。運動会や授業参観も「令嬢」が決まって休むからだった。
どんな人物なのか想像がつかない。
奏太に自分の父親の記憶はなかった。いつかホウヤに父について尋ねた。父はろくでもない人間だったという。父の話をするホウヤは篠田の訃報を聞いたときのと同じ表情をした。
小さい頃は、「令嬢」も父親と連れ歩いたのだろうか。遊園地や巳月公園に行く家族連れにまじり「令嬢」が笑う姿を思い描く。普段の彼女からは想像できない。おかしくてひとりで笑ってしまった。
いつか「令嬢」が笑う姿が見たい。考えているうちに、奏太は眠りに落ちた。
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