第11話

 ──二〇XX年六月

 町は青葉で、緑色の世界になっていた。水田の緑色と空の青色の色彩で奏太の目の奥が痛む。眼球を手のひらで押し込まれるような鈍痛で、しゃがみこんでしまう。お化けホテルの事故のあとから症状は続いていた。

 ホテルの崩落のあと駆けつけた藤田たちの通報で奏太は病院に運ばれた。四階から一階までの落下だったにも関わらず、腕の骨を折る程度で済んだのは奇跡だった。目立った傷は肩にできた鋏の切り傷くらいだった。ホウヤにはかつてないほどに叱られ、2ヶ月間の外出を禁止されたが、奏太が生きていたことをなによりも喜んでいた。

 双葉たちも見舞いに来た。奏太はお化けホテルにいなかった理由を聞いた。斎藤から家を出るのがバレて行くのが遅い時間になってしまったらしい。結果としては、それが奏太の命を救う遠因となった。

 菊池梨香は奏太よりも一週間ほど長く入院していた。看護師の話では、3日ほど昏睡状態が続いたのだという。身体を貫いた鉄骨も内臓を傷つけておらず奇跡的な回復をした。奏太も一度、昏睡している菊池を訪ねていた。点滴を受け、包帯を頭に巻いている彼女は穏やかな顔で眠りについていた。

 ある時、トイレに行くため奏太は廊下を歩いていた。薄暗い廊下の先に人影があった。

 人影は車椅子に乗っていた。奏太が横切ろうとすると「う」と車椅子で低く呻いた。奏太は顔を見てしまった。痩せこけて目が落ち窪んでいる。骸骨のようだ。近づいてようやく菊池梨香だと分かった。

「う、あ、あう」

 菊池は廊下の一点を見つめてうめき続けていた。背もたれに背をぶつけてぎぃぎぃと鳴っていた。ひどく怯えているようにも、苛立っているようにも見えた。

 奏太がトイレから戻ると、車椅子の音が遠ざかっていった。看護師の背中が見え、菊池は部屋に戻された。

 あれから学校でも菊池の姿は目にする。数学の授業にも体育にも出て元の姿と変わらない。奏太に危害を加える様子もなかった。

 全て忘れてしまったかのような振る舞いだった。

 それでも、授業中に何度か彼女が虚ろな目をしているのを見た。奏太は空恐ろしい気持ちになった。お化けホテルでの浮遊感と絨毯の冷たさを思い出してしまった。

 しばらくしゃがんでいると、痛みが引いた。奏太には行くところがあった。道なりに進み、夜見坂を駆けあがる。

 坂を下る夜見坂のおばさんに会った。

「こんにちは」

「あら、奏太くん」

 普段通りの笑顔を見せる。手には回覧板を持っていた。

「身体はもう大丈夫そうね」

「はい。走れるくらいには」

「良かったわ。ホウヤさんによろしくね」

 奏太が頭を下げ、去ろうとする夜見坂のおばさんの背中に声をかけた。

「あの」

「どうしたの?」

 奏太は言い淀む。

「……いえ、なにも」

「またね」

 何度目かの尋ねるチャンスを逃してしまった。

「令嬢」の様子について。ゴミ袋に入ったホウヤのサツマイモについて。訊きたいことはたくさんあった。奏太は一歩踏み出せずにいた。

 坂を登り、巳月神社に向かう。舗装されていない道には季節の草花が生えていた。この場所を歩くのにも慣れてしまった。

 入口を通ると相変わらず薄暗い。日陰で園内はひんやりとしている。

「おい」

 遊具の影にうずくまる「令嬢」に奏太は声をかけた。

 彼女が立ち上がる。振り向くとカミキリムシを摘んでいた。脚が忙しなく空をかいている。

「遅かったね」

「逃してやれよ」

「奏太くんも触る?」

 奏太は首を横に振る。「令嬢」が首を傾げたまま見つめていた。無表情なままだった。

 あれから「令嬢」と奏太は定期的に会うようになっていた。伯希ほうき町の言い伝えを見つけるためだった。

 ホウヤの外出をまだホウヤは許してくれなかった。そのため、放課後に巳月公園に集まっていた。

「今日は何時まで?」

「また5時くらいまで。部活って言ってるから30分くらいは超えても大丈夫」

「ふぅん」

「なんだよ」

「なんでもないよ。それじゃあ行こっか」

 黒いワンピースを翻し、公園の奥へと歩く。薮の間をすり抜け、急勾配を上りはじめた。

 道とは呼べず、崖と呼ぶほうが近い。

「こんなとこ行くのかよ」

「大丈夫」

「令嬢」はローファーを履いているにも関わらず、階段を上がるように登っていく。離されないよう奏太もついて行った。

「奏太くんはさ、白はぎって知ってる?」

「いや……」

 坂を歩きながら、「令嬢」は話し始めた。

「白はぎはね、山の伝承でよく出てくるの。親指くらいの小さな白い石のことを言うみたい。昔の猟師は大きくて朽ちそうな木を見ると、白はぎを探したんだって」

「この山にもあるの?」

「それを確かめるの」

「令嬢」はひょいと切り株に飛び上がる。

 奏太は訝しむ。

 巳月公園のあるこの山は、猟師が入るほどの大きさも高さもなかった。小学生でも登ろうと思えば出来てしまう。

 奏太には白はぎが見つかるとは思えなかった。

「白はぎってお守りか?」

「無事に家まで持ち帰ると良いことが起こるんだって」

「お前、信じてるの?」

「お前って名前じゃない」

「令嬢」は木の根の歪な段差をハイペースで登っていく。「令嬢」の声に疲れている様子はなかった。奏太は彼女の顔を見る。汗ひとつかいていない。同行するまで彼女が活動的に動く姿を想像できなかった。

「怒ってる?」

「どうして」

「いま、またお前って言っちゃったから」

「別に」

「そろそろ名前教えてくれよ。呼びづらいよ」

「令嬢って呼んでいいんだよ」

「それは……」

 奏太が言い淀む。クラスメイト同士の符牒で本人を呼ぶのは気が引けた。

 その間も歩きつづけた。「令嬢」は意外にも昆虫に詳しかった。目に見える昆虫を指さすとスラスラと名前を言ってみせた。

「あの緑のは」

「ヒメクサキリ」

「じゃああれも?」

「あれはヒメツユムシ」

「どれもバッタじゃないのかよ」

「頭がヒメクサキリの方が尖ってる」

 ホウヤと歩く時も虫の名前を教えてくれるが、それと同じほどに「令嬢」は知っていた。奏太には同じように見えても、彼らには違って見えるのだと思うと少しだけ羨ましかった。

 ようやく登りおえると、大ぶりの松が立っていた。

「赤い」

「枯れてる」

 周りが緑の葉を揺らす中、松の木は全身を赤くして枯れている。腐っているわけではなかった。

「ねえ見て」

「令嬢」が松の後ろから手を振った。奏太が見に行く。

 思わず息を呑んだ。

 奏太には最初それが何か分からなかった。松の後ろにはびっしりと白い渦がまとわりついていた。よく見ると渦は縦横に動いている。

 小さなカタツムリが密集していた。「令嬢」は鼻が密着しそうなほど顔を近づけている。

「苔を食べてるのかな」

 カタツムリが樹皮に蠢いている。松の枯れ方から、奏太は単純に食事をしているように思えなかった。もっと奥深くにある木の生きる力ごと吸っているんじゃないか。奏太には恐ろしく映った。

「あっ」

 松の根元に何かが落ちている。白い殻がいくつも転がっている。

 中身は既に失われている。スナック菓子のような軽さで力を入れたら簡単に割れてしまいそうだった。「令嬢」も摘んで眺めていた。それだけで、妖しさが増して見える。

「持ち帰るのか?」

「令嬢」は頷く。懐にしまおうとすると、殻が割れてしまった。奏太はポケットティッシュを取り出し、殻を包んでやる。それでも心許ないのでもう五枚ほど使った。

「これなら大丈夫だろ」

「奏太くんも」

「俺はいいよ」

「どうして? 楽しいよ?」

「令嬢」が見つめる。無邪気に言う彼女が不気味に感じた。

「令嬢」が手を伸ばした。奏太の右手を取ると殻を手のひらに乗せた。彼女が静かに奏太を見る。

 奏太は仕方なく鞄を開いた。筆箱の中身を空けてティッシュを詰め込む。その真ん中に殻を置き、またティッシュをかける。膨らんだ筆箱を教科書に潰されないよう鞄の別口に入れた。

「令嬢」はカタツムリたちをじっと凝視していた。しばらく目を離してる間に、群れの形は歪になっている。全体的に楕円形で、盛り上がった中央部の上に大きな隙間がふたつ並んでいる。中央の下には大きな窪みが出来つつあった。

 奏太には顔に見えた。カタツムリの群体が苦悶に叫ぶ亡者を作り出している。目を背けた。

「早く帰ろう」

「まだ明るいよ」

「白はぎを持ち帰るなら明るい方がいいだろ」

「私はまだいる」

「令嬢」は頑として聞かなかった。

 奏太は何度も彼女を振り返った。

「先に行ってて」

「本当にいいのか」

「おじいちゃんが淋しがってるでしょ?」

 全く動く気配がなかった。ホウヤに怒られる前に奏太は帰ることにした。

「じゃあお先に」

「白はぎの言い伝えは本当だといいね」

 彼女が手を振った。奏太は頷いて赤い松を後にした。

「令嬢」の手のひらの感触がまだ残っていた。彼女の手は滑らかで冷たく、石に似ていた。

「手の冷たい人は心が温かい証拠だ」と昔、クラスメイトの誰かが言っていた。「令嬢」の手を握ったらその人は何というのだろう。

「令嬢」の態度はどちらが本当なのか分からなかった。透け地蔵を潰す妖艶な彼女と、白はぎを見つける彼女。キノコを潰すのも奏太の手を取るのも同じ彼女だった。

 奏太は薮の道を進みながら考える。

 他にも分からないことがあった。

 お化けホテルの床が脆いのを知っている彼女が篠田殺しに関わってないとは思えなかった。

 奏太は「令嬢」をもっと知りたいと思った。

 筆箱に入れた「白はぎ」が叶えてくれることを期待した。

 巳月公園に戻る頃には空が陰ってきていた。

 家に帰ろう。奏太は公園を出て瓦屋根を目指す。途中で「令嬢」の家を通り過ぎた。一階の窓にはカーテンが閉められ、わずかに隙間ができている。そこから不自然に部屋の電灯が差していた。

 ホウヤの家に着く。玄関の戸を開ける。

「ただいま」

「おかえり」

 ホウヤの返事が居間から聞こえた。

 洗面所で手を洗い、居間に入る。スパイスの香りがした。

「やった、カレーだ」

「そうだ。早く着替えてこい」

 ホウヤがひらひらと手を動かす。奏太は急いで部屋で着替えた。

 扉を閉める。また目の奥が痛くなり、しゃがみ込む。しばらく休むと痛みが引いた。瞬きをして確かめる。

 奏太は「令嬢」の家で見たカーテンの光を思い出す。あれは居間に誰かが立っていたからではないのか。「令嬢」の帰りを夜見坂のおばさんがみじろぎもせずに待っている。想像すると背筋が冷たくなった。

 カバンを開ける。筆箱から白はぎを取り出す。ティッシュに包んだおかげで割れていなかった。暗がりでも白い渦がはっきりと見えた。

 摘んで中を見ても何も入っていない。見ただけではカタツムリの殻と変わらない。

 言い伝えが本当とは思えなかった。机の上に白はぎを置くと乾いた音がした。

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