第10話
日が落ちてからの巳月公園は更に闇を濃くしていた。
月明かりで遊具の青白い輪郭が浮かんでいる。すべり台を通り過ぎ、奥に進む。
大きなブナの木の前まで来ると人影に気づいた。木の下にうずくまってこちらに背を向けていた。
人影はぱりぱりと小さく音を立てている。
悪夢がよぎった。草履が土を擦る音が響いた。
人影が振り返る。白い顔がこちらを見返す。
「令嬢」だった。
奏太は後ろに下がった。彼女は立ち上がり、奏太に歩み寄る。これは現実だ。なんの恐ろしいこともない。奏太は自分に言い聞かせる。血まみれの矢の刺さった彼女ではないのだ。
月明かりが「令嬢」を照らす。普段より肌が青白い。唇には小枝のようなものがついていた。「令嬢」は口を拭い、奏太の手を握る。奏太の手中に固い感触が当たる。手を開くとコオロギの脚が乗っていた。背筋に冷たいものが走った。
「何してんだよ」
奏太を無視して「令嬢」は公園の奥に進んでいく。
藪に足を踏み入れる。整備されておらず、春先で草木が伸び始めている。奏太は細枝が絡まってくるのをかき分ける。
月明かりを木々の葉が覆い隠す。闇がさらに濃くなった。「令嬢」の手の白さが頼りだった。「令嬢」が不意に止まり、指先が一点を示す。
その先にはぽっかりと空いた木の空洞があった。中には緑色に光る人型が見える。それはまるで祠の中に祀られた地蔵のようだった。
「これって……」
奏太は近づき空の中を覗く。よく見ると小さなキノコが群生していた。
「驚いた?」
香水の匂いとともに、耳元で囁かれる。すぐ後ろに「令嬢」がいた。
「透け地蔵はね、これのお陰で出来てるの」
声には感情の起伏がなかった。それでいて甘い響きを纏わせている。頭の奥が痺れる。
「なんで」
「うん?」
「喋れるのに」
「ママがね、汚れちゃうからダメって言うの。学校は俗で汚れてる。長居すると私の霊力が落ちちゃうんだって」
流暢に話しながら、後ろから奏太の手をとる。
「今はいいのか」
「だって奏太くんは内緒にしてくれるでしょ?」
名前を呼ばれ、背筋に電流が走ったような感覚がする。
「……霊力ってのは?」
「奏太くんはなんだと思う?」
「え?」
突然の質問に戸惑った。霊力なんて怪しい。だが、「令嬢」ならばあるいは……。
「ないよ。そんなの。うそっぱち」
「令嬢」は奏太の手を動かしてキノコを毟った。ぐち、ぐち、と湿った音を立てて潰れる。手にぬめりが伝わるごとに人型が崩れる。
「言い伝えもこんな風にになくなっちゃう。なのに霊力なんてあると思う?」
手のひらからボロボロと光がこぼれ落ちた。
「篠田を殺したのってお前なのか」
「わたし、お前って名前じゃない」
「はぐらかすなって」
「奏太くんは私が殺したと思う?」
「令嬢」がやったとは思いたくなかった。
「私は巫弓ちゃん? のこと大好きだった」
「じゃあなんで、黙ってるんだよ。角田と菊池にあんな扱いされて」
奏太の言葉に「令嬢」は首を傾げる。涙袋のラメがきらめいた。
「角田さんだって疲れてることもあるでしょう?」
彼女は殴られ、殺されかけていたのを自覚していないようだった。角田のやったことを鬱憤で片付けられるのだろうか?
「それより、さ。もっと楽しいこと話そう?」
奏太の後ろから再び手を握る。ひんやりと冷たい温度に思考がかき乱された。
「透け地蔵みたいにね、この町には言い伝えがいっぱいあるの。私ね、本当の言い伝えを探してるの。できれば、奏太くんと探したいな」
「え……」
「令嬢」が唐突に離れる。ひらりとスカートの裾を揺らし背を向けた。
「お化けホテルに19時。でしょ?」
「なんでそれを……」
「昼ごはんの時の声の大きさには気をつけないと」
「令嬢」は無表情なままだった。藪の奥に続く獣道を示した。
「風月荘の近道。坂道をずっと下っていけばロータリーのすぐ近くに出られるよ」
奏太は獣道を覗く。暗くて先が見えない。
「風月荘の床ってだいぶ脆くなってるみたいだよ。気をつけてね」
草木に反射する光の加減で彼女の顔が歪んで見えた。
「じゃあまたね」
「令嬢」が手を振って見送った。
奏太は急いで坂を下る。途中で草履が脱げそうになったため、結局裸足で駆ける。枯れた小枝が足の裏を切るのも構わず走り抜けた。
何か恐ろしい予感がした。お化けホテルに行った三人が気がかりだった。
悪夢が巳月公園を示したのは、「令嬢」に会わせるためだったのか。
思考がめぐらせながら駆けていく。
遠くでサイレンが聞こえた。
木々をすり抜けると山端から駅の駐車場に出られた。駅前の時計は夜の7時を示していた。
辺りは静寂に包まれていた。奏太はお化けホテルの前を探したが、誰ひとりとしていなかった。
「藤田」
奏太が名前を呼ぶ。周囲が静かなせいで声は自然と囁くようになった。お化けホテルの扉を押し開ける。かび臭いこもった空気が鼻を通る。
埃まみれの受付にはスリッパが散乱している。
電気は通っておらず、スイッチを押しても照明はつかなかった。幸い階段はすぐに見つかった。奏太は慎重に上がる。床には薄い絨毯が敷かれている。踊り場には空き缶やスナック菓子の包装が落ちていた。
「双葉」
二階、三階と上がるたびに名前を呼んだが返事はない。あたりを見回しながら進んでも、同じような廊下と扉の列が続いているだけだった。廊下の奥はあまりに暗すぎて進む気になれなかった。
「斎藤」
奏太は四階までたどり着いてしまった。階段を上がってすぐに、凝った装飾がなされた大きな扉があった。
岸本の話が正しければ、ここが宴会場だろう。扉には拳ひとつ分ほど隙間ができている。
奏太が押すと簡単に開いた。中から風が吹くのを感じた。室内には大きな丸机とパイプ椅子がいくつも積まれていた。
割れた窓ガラスが見えた。窓辺に視線を移す。宴会場の窓は大きく、割れたガラスが氷山のような輪郭をとっている。スマートフォンがあった。窓枠に立てかけられ、液晶が光っている。
斎藤か藤田が置いたのか。
奏太が手に取る。画面には写真が映っていた。篠田巫弓と「令嬢」が撮ったようだ。ふたりは窓際でカメラに笑いかけている。今さっき会った不穏な彼女とは別人に見えた。奏太は写真を拡大する。後ろに写る窓が割れていた。
奏太は周囲を見回す。撮影場所は奏太が立っているこの場所に違いなかった。
もう一度、スマートフォンを確認する。ふと、黄色いスマホカバーが気になった。
どこかで見たような……。
そう考えたときだった。奏太は背中に衝撃を受けた。体勢を崩し、窓から身体が半分ほど出る。奏太は必死に窓枠にしがみついた。ガラスが指を切る。後ろから手が押さえつけてくる。頭を押しだそうとしてきた。
「死ねっ……! 死ねっ……!」
低く恨みに満ちた声がする。
奏太はもがく。押し出す手から指をとり、逆に捻った。
一瞬だけ力が緩んだ隙に身体をひねる。奏太が後ろを振り返る途中、背中を窓枠に押しつけられた。
ふたりは向かい合う。奏太の目の前に女がいた。
菊池梨香だった。無表情な顔で、彼女は奏太の首元を押さえる。息が掠れる。奏太と目が合った。菊池に驚きの表情が浮かぶ。だが、すぐに殺人者の顔に戻った。
「あんたでいいっ……。死んで。死んでっ」
奏太は窓枠を後ろ手で掴んだ拍子に、割れたガラスで手を切った。
「このままじゃ、かれんが捕まっちゃうの!」
菊池の力が強まる。手が滑り、窓枠から手が離れる。咄嗟に菊池の顔に手を擦り付ける。
「ぎゃっ」
血に驚いた菊池が一歩退いた。奏太は窓のないパイプ椅子の山まで這って逃げる。
「藤田たちはどこだ」
「知るかよ……。あたしはあの女を呼んだのに」
そう言って菊池が何かを取り出した。月明かりに照らされたそれは、裁ち鋏の片方を外した手製のナイフだった。握り直し、奏太に突き進む。
立ち上がる隙はなかった。寸前で転がるようにして避ける。パイプ椅子の山が崩れて音を立てる。床が軋んだ。奏太は仰向けに後ずさる。
菊池はナイフを逆手に持った。間髪入れず奏太に振り下ろす。
奏太はなんとか腕を組んで抑えるが、体の重さで切っ先がスウェットを突き破る。
「ぐうっ……」
「ねぇ、お願い。死んでよ。あんたでもういいからさ。でないと、あたしがかれんといられなくなっちゃう」
奏太は菊池の腕を食い止めながら、カメラのツーショットを思い出す。ここで撮られた「令嬢」は本物なのか。
肩口に鋏が入り込む。焼けるような痛みが走った。
「「令嬢」はやってないんだろ」
「ちがう」
「なら、教えてくれ。「令嬢」は一度でも笑ったことがあるか?」
「うるさい!」
奏太が腕を振り払う。勢いで床に鋏が当たる。菊池を突き飛ばす。その拍子に奏太が掴んでいたスマホの角が菊池の頭を打つ。短くうめいた。奏太は菊池の上に乗り、画面を彼女に見せた。
「この写真……、一見「令嬢」と篠田巫弓のツーショットに見えるが、彼女が笑うはずがない……。給食でどんなに面白いことがあっても表情ひとつ動かさなかったんだぞ。それに首元に惑星のネックレスが無いのもおかしい」
「だから、何」
「これは「令嬢」じゃない」
奏太は写真の違和感を口に出す。
「これは角田の変装なんじゃないか」
「知らない!」
菊池が目を見開き、奏太を突き飛ばした。奏太が転がり、二人の距離は3メートルほど開いた。
「あの女……「令嬢」が巫弓を奪ったからかれんが殺したの」
「角田と篠田は付き合ってたんだろ。なのにどうして」
「馬鹿だね。奪った奴より、心を奪われた側を憎む奴だっているの」
菊池はそう言って唇を噛む。奏太を見る目は怒りに満ちている。
「でもさ、私の気持ちを考えてくれたっていいよね。あんた、想像できる? 放課後に巫弓との話ばっかり聞かされる私の気持ちが」
「……角田に言わなかったのかよ」
短く息を吐き、菊池の目が細まる。侮蔑の色を隠さずにいた。
「あたしの気持ちを聞いて何になるの? 巫弓のことなんて忘れて一緒にいてほしい。でもかれんには……、かれんには巫弓しかいなかった」
奏太は息を呑む。須山に感じた気迫を菊池にも感じた。
「かれんが話してた。夏祭りに行ったとき、人混みでイヤリング落としちゃったんだって。そしたら、巫弓がちょっと待っててって離れた。少ししたらプラスチックのネックレスを持ってきたの。かれんが、聞いたら「射的で当てた」んだって。ホントに安っぽかった。でも、巫弓が申し訳なさそうに渡してきたら、かれんは一番大事なものになっちゃったんだって。この話、10回は聞いたかな。……あたし、かれんと夏祭りなんて行ったことないのに」
その間も奏太は菊池を見ていた。菊池が鋏を握りなおす。じりじりと距離を縮める。奏太は部屋の壁を伝い、パイプ椅子の山の逆側、丸テーブルがある方に後ずさる。移動しながら草履を捨てた。
「かれんがあの女の格好をして歩いてくのを想像したら頭がおかしくなりそう。好きでもないフリルの服着て、ツインテールのカツラまで被って。やることが巫弓を殺すんだよ? 愛だよ。思い焦がれるからしてもらえるんだよ。私だってそこまでされたことないのに! あの女の弁当を捨てても、あの女を殴らせてもかれんは喜ばなかった。……あんたさぁ、死んでよ。代わりにあんたの耳でも持ってく。あたしに殺されて、かれんに尽くした証拠になってよ!」
狂人の言い分だった。
菊池が姿勢を屈ませる。距離はおよそ5メートルほど。全力で刺し殺そうとしてくるのが分かった。
迫ってくる。切っ先が青白く光る。刺されてしまえば死ぬ。肩の痛みが当たり前な事実を実感させる。
奏太の視界が傾いた。
床の軋みが大きくなる。天変地異を思わせる轟音に身を縮める。
菊池が消えた。目の前から消え失せ、代わりに土煙が舞っている。ホコリを奏太は思いっきり吸ってしまった。息が苦しい。涙と咳が止まらなくなる。ざらつく唾を吐き捨て煙が収まるのを待った。
奏太から3メートルの距離に穴が開いていた。周囲がひび割れたようになり、ぱらぱらとコンクリートが剥がれている。
──風月荘の床ってだいぶ脆くなってるみたい。
「令嬢」の言葉は本当だった。行ってはいけない。そう思いつつも、奏太は穴の底を覗いた。
──奏太。やっちゃいけねえ三つのことを覚えてるか
見えるかぎり、3階の床も崩落しているようだ。その先は暗くてよく見えなかった。身を乗り出す。
──人を笑う、人を殴る、……人を覗く
床にひびが走る。岩が崩れる音から身をひこうとするには遅かった。重力に引き寄せられるまま自由落下が始まる。顔面に衝撃を感じる。横には鉄骨で刺し貫かれた菊池が横たわっていた。
意識が薄れゆく中で、ぱくぱくと菊池の口が動いた。自分に何が起こったか分からないような虚な目だった。それは「令嬢」の目を思い起こさせた。
そうなってもなお、鋏を奏太に振り上げようとしている。彼女の腕がびくびくと動いていた。
次に目を開けたときには刺し貫かれて死んでいるのかもしれない。不安と全身の痛みに包まれながら奏太の意識は沈んでいった。
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