第9話
一週間が経ち、藤田とお化けホテルに行く約束をした土曜日になった。
奏太は居間でホウヤと朝食を摂る。須山の一件は楔のように心に刺さっていた。
藤田が言うにはあの後、須山は警察に出頭したという。
だが、凶器とされる石が見つからないため、証拠不十分として逮捕はされなかった。須山は学校に来なくなってしまった。
角田のいじめは苛烈になった。クラスのグループチャットに「令嬢」の動画をあげたらしい。菊池にトイレに閉じ込められ、「令嬢」がずぶ濡れで四時間目に現れることもあった。周りの目は好奇心で光っていた。
奏太は見ているだけしかできなかった。ネックレスも渡せずじまいだった。
「奏太」
「……」
「とりあえず食え。うまいぞ」
ホウヤがご飯を頬張る。
今日の朝食はししゃもと、ご飯と味噌汁だった。付け合わせにタッパーに入った野沢菜が乗っている。奏太は野沢菜を箸でつまみ、ご飯に乗せる。野沢菜の青い汁が白い米に染みる。周りの白米とともに野沢菜を口に頬張る。
野沢菜の塩気と米の甘みが混ざりあう。野沢菜の茎の歯ごたえも良かった。噛むたびに旨味が増していく。奏太は自然と顔がほころんだ。自分でも単純だと思った。ホウヤが頷く。
「人間腹が減ってるとな、ろくな考えが浮かばねぇ。食って寝て風呂に浸かる。これができれば十分だ」
ししゃもを口に入れる。頭の方まで火が通り香ばしい。
「今日さ」
「うん?」
「また地蔵探しに行っていい?」
嘘だった。誘われたお化けホテルにいく口実だった。
「何時に出る?」
「夜の6時。その時間じゃないと出ないんだろ」
ホウヤは腕を組む。
「帰りは?」
「8時」
「ダメだ。遅すぎる」
「ひとりじゃない。双葉も藤田もいる」
いくら優しいホウヤとはいえ、夜中に中学生を出歩かせはしなかった。
「巳月みづき公園は遠くないし、大丈夫だよ」
「そうじゃねぇ。篠田さんとこの娘さんが亡くなって俺は心配なんだよ……」
腕を組んだまま考えている。
「じゃあ7時半。周りをざっと見たらすぐに戻ってくる」
それでも、ホウヤは首を縦には振らなかった。
須山の話はしていなかった。話してしまえば、ホウヤが出歩くのをもっと止めると考えたからだ。
「双葉の携帯で帰るときに電話する……。それでどう?」
ホウヤは渋々承諾した。
朝食を食べ終え、ふたりで食器を洗う。その間も気まずい空気が流れた。
「じいちゃん。今日、畑やるんだろ」
「おう」
「トマトだっけ」
「今日はインゲン。あとはサツマイモ、もろこし。トマトは来週だな」
「何時から?」
「8時になったら行くか」
毎年この時期になると畑の手伝いをしていた。
畑は裏庭以外に農道のそばにもう一つあった。農作業のときはシボレーで行く。帰りになればへとへとなので車は必須だった。
車で見る伯希町の景色は普段と違う。ホウヤが運転する助手席は心地よかった。10分ほど走るとプレハブ小屋が見えてきた。ホウヤの畑だ。
昨日の間にホウヤが手押し耕運機を使ったおかげで土は畝ができていた。
畑の敷地は裏庭よりも広い。家が一棟立ちそうなほどだった。この大きさを一人で耕す力がホウヤのどこにあるのだろうと奏太はいつも驚く。
作業用のプレハブ小屋へ、奏太は車から苗を運ぶ。靴を長靴に履きかえた。
空は晴れていた。陽の当たる屋外は思ったよりも暑くなる。麦わら帽子を借りて奏太は畑に出た。
「インゲンからやるか」
黒いポットから生えた芽が四個ずつ二列でケースに入っている。奏太とホウヤが二人で畝に植えていく。
「これはつるが伸びないやつだからな。ちょっと狭めに植えてくれ」
奏太は言われた通りにする。穴を掘り、ポットを埋め、覆土する。水をやるため、その分だけ余分に土を被せるのが重要だ。始めるまで忘れていた感覚がだんだん蘇ってくる。
奏太は土を触っている時間が好きだった。暖かい土は若干湿っており、羽毛布団の手触りに似ていた。
こうして作業している時間も好きだった。土を掘る。苗を植え、土を被せる。単純な作業を黙々とこなしていると頭の中がリセットされる感覚がする。今の奏太には必要な時間だった。
「次はもろこし」
一時間ほどでインゲンが植え終わった。
ホウヤについていく。畝には黒いビニールが被せられている。
「30センチ間隔くらいで穴をあけるんだ。インゲンよりも深めに掘って種を植えてくれ」
「このくらい?」
「もう少し大きくてもいい」
「これはどう?」
ホウヤが頷くのを見て作業を始める。ビニールを指で広げ、同じ要領で植える。
「急がないとじいちゃんが全部植えちまうぞ」
「じいちゃんが早すぎるんだよ」
ホウヤは奏太が一つ植えるときには既に三つ植えていた。
「早くじいちゃんくらい植えられないとな」
「無理言うなって」
互いに笑い合う。
植え終わり、一旦休憩する。用水路で手の土を洗い落としてから、プレハブ小屋へ戻る。奏太が麦わら帽子を脱ぐと外の風が冷たく感じた。
ホウヤがポケットからジップ付きの小さな財布を出す。奏太に400円渡した。
「何か買ってきな。じいちゃんは酸っぱいソーダのやつな」
「はいよ」
畑と反対側にラーメン屋があった。入ったことは一度もなく、備え付けられた自販機のためにいつも寄っていた。
ホウヤが言っていたのはレモンスカッシュだったが、入れ替えで無くなっていた。仕方なく奏太はサイダーを押す。その後、自分用に緑茶を押した。
「はい」
「おう、ありがとな」
ホウヤはプレハブ小屋のベンチに座っていた。
奏太も隣に座り、緑茶の封を開ける。口をつけると冷たさが喉を通った。
ホウヤを見ると満足そうに飲んでいる。炭酸で甘ければ、レモンスカッシュでなくとも良いようだった。
「じいちゃんってさ、いつから畑やってるの」
「そうだな。畑仕事は奏太くらいからやってた。人手が足りなかったな。じいちゃんのじいちゃんはもっとでかい土地を耕してたもんで」
「これより大きいって……」
「おお。昔は耕運機もなかったもんだから家族全員でやらなきゃ終わらなんだ」
「嫌にならなかったの?」
「全然そんな風に思わなんだ。当たり前だったからな」
ホウヤの手早い農作業の秘密がわかった気がした。道理で追いつけないわけだ、と奏太は思った。
「さて、もうひと頑張りするか」
「うん」
一度腰を落ち着けてしまうとなかなか立ち上がれなくなってしまう。
三度同じようなことを言ってホウヤたちは立ち上がった。
太陽の位置が高くなっている。もう一度、水分補給を済ませて畑へ向かった。
サツマイモを植え終わり、雑草の処理もしたら昼前になっていた。一輪車で刈り取った最後の雑草の塊を運び、奏太は背を伸ばす。心地よい疲労感だった。全身を満遍なく使うのは久しぶりだ。
「帰るぞ」
「うん」
ホウヤのシボレーに乗り込む。
「今年もたくさん採れるといいね」
「また夜見坂の嬢さん家にもおすそ分けしないとな」
収穫の季節が楽しみだった。
車がゆっくりと進む。エンジンの振動が眠気を誘う。シートベルトに頭をもたれさせていると意識が遠くなっていった。
奇妙な夢だった。
奏太が周囲を見回す。血が噴き出したような赤い空の下、荒れ果てた大地が続いていた。そこに一本の十字架が立っていた。
「令嬢」が磔にされていた。いつものフリルのついた服は切り裂かれ、白い肌に血が滴っていた。早く下ろさなければ。奏太が駆け寄り、足の拘束に手をかける。
「触るな」
地の底から響くような声だった。見上げると、「令嬢」の眼は赤く見開かれ、唇の隙間から白いものが落ちる。歯だった。食いしばる臼歯がひび割れていた。奏太は飛び退いた。「令嬢」が荒く呼吸をする。奏太の耳元を掠める。白い矢が彼女の肩を貫く。再び擦過音がする。どっ、どっ、と音を立てて矢が無防備な体を撃ち抜く。その度に傷から血が飛び散る。
ツインテールが解けた髪を振り乱し、「令嬢」は顔をあげる。笑っていた。鏃が口を引き裂いたせいで耳まで口角が裂けている。声のない凄絶な笑みだった。
矢を撃っている側の後ろから笑い声がした。二重音声で男のようにも女のようにも聞こえる。どことなく須山の声色にも似ていた。
おまえもいたくなくなろう。おまえもいたくなくなろう。
背筋が寒くなる。知らない女の声だった。
奏太は耳を塞ぐ。目を固くつぶり、小さく丸くなった。
やめてくれ。
方々で笑い声がした。声はむしろ大きくなっていく。
たのしくなるよ。こわくなくなるよ。
じいちゃん。助けてくれ。じいちゃん。
奏太は叫んでいた。ただただ恐ろしかった。
じいちゃん。じいちゃん。
もういっちゃうの。
まってるよ。あそびにきてね。
やめてくれ。もうやめてくれ。
じんじゃでまってるよ
奏太は願った。
頭のすぐ後ろで女の含み笑いがする。振り返ってはいけない気がした。女の息が奏太のうなじにかかる。冷たい汗が流れる。
みづき……
女は耳元ではっきりとそう言った。
水面から一気に引き上げられるような感覚がした。
まず気づいたのは匂いだった。血や土埃の匂いはしなくなっていた。
奏太は瞼を開くのを躊躇ったが、もう自分が耳を塞いでいないことに気づいた。あの女の声はもうしていない。
ゆっくりと目を開く。辺りは薄暗い。木造のシミだらけの天井が見えた。起き上がると棚に並べられた福助が笑いかける。身体にはタオルケットがかけられていた。
慣れ親しんだホウヤの家だった。
奏太は一階の和室に寝かされていた。
背中が汗で冷たくなっている。身体中が気持ち悪い。まずは着替えたかった。立ち上がり、廊下に出る。急いで二階に駆け上がる。気を抜けばまた後ろから声がしそうだった。
箪笥からTシャツを引っ張り出す。
夢にしては鮮明すぎた。驚いた拍子に尻をついた時の感覚が未だに残っている。
奏太はTシャツの襟から顔を出した瞬間に、「令嬢」の顔がありそうで目をつぶった。
恐ろしいものが現れることはなかった。だが、どこかから見られているような気がする。ホウヤがそばにいて欲しかった。
階段を降り、居間を覗く。人影はなかった。
「じいちゃん」
台所を見てもいなかった。オーブンには焼きたてのクッキーが入ったままだった。皿に出さずにホウヤが放っておくだろうか。いやな予感がした。
「じいちゃん!」
遠くからじゃっじゃっと草を刈る音が聞こえる。奏太は裏庭に駆け出した。
外は夕陽で赤かった。
土いじりをするホウヤがいた。ホウヤが畝をまたいで奏太の元へ来た。
「どうした」
「なんでもない……」
「真っ青じゃねぇか。お茶でも淹れるか。手洗ってくる……なんだ?」
「俺も汗かいたから顔洗うよ」
奏太が後を追う。ホウヤの後に、何度か顔を洗い流してもまだ神経が昂っていた。
居間に戻ると、ホウヤがオーブンのクッキーを皿に置いているところだった。
今日のクッキーはチョコチップだった。生地にサイコロ型の大きなチョコがゴロゴロと入っている。奏太が大好きなクッキーだ。
「好きなだけ食え」
「誕生日でもないのに」
「いいんだよ。つべこべ言わず今は食って休め。全部じいちゃんが食っちまうぞ」
奏太が慌てて口に入れる。クッキーは厚めの生地で、ほどよい弾力があった。
「どうだ」
「……うまい。めっちゃうまい」
夢中になって頬張る。昼飯を食べられていなかったから当然だった。身体が全て胃になったみたいだった。
「話したくないことは話さなくていい」
奏太は食べながら鼻の奥が痛くなった。ぼろぼろと堰を切って涙が出る。ホウヤが奏太の隣に座り、背中をさすった。普段であれば、恥ずかしさを感じるはずだった。今は体の震えを抑えるので精一杯だった。
クッキーをかじる。口を動かすことに集中した。
落ち着く頃には午後五時を回っていた。奏太は早めに風呂に入り、夕飯を済ませた。
考えないことに集中した。ただ黙々とこなした。
「ごめん、先に寝るわ」
奏太は早く寝ることにした。心配そうにホウヤが後ろから見守る。
「大丈夫か」
「ひとりで寝れるくらいには」
「俺はまだ起きてるからな。何かあったら言えよ」
奏太は手を振り、廊下を歩く。階段を登る前に玄関の靴箱から草履を拝借した。
二階の部屋に着くなり、奏太は鍵を閉めた。服を脱ぎ、スウェットとジーンズに着替える。二階の窓辺には雨用の配管が伝っていた。草履を先に下に落とす。奏太は配管に手をかけ、重心を動かさないようゆっくりと降りる。
地面の草履を拾いあげる。家の近くでは裸足で駆けるつもりだった。
奏太は手の震えを抑える。まだ夢の恐怖が残っていた。
当初の予定から狂ってしまったが、奏太はお化けホテルに行くつもりだった。藤田たちと合流して須山の言葉の真相を確かめたかった。
だが、その前に行く場所があった。
「みづき……」
奏太は無意識に言葉に出す。夢で女が発した言葉が気がかりだった。「みづき」と言えば巳月公園以外に考えられない。
夜見坂を一気に駆け上がり、後ろを振り返るとホウヤの家の電気はまだついていた。
夢の空間はまだ脳を占領していた。あまりにおぞましく、目を開けていても悪夢が蘇る。奏太はこの後のことに思考を注ぐ。
お化けホテルには19時到着だ。その前に、巳月公園に向かおう。草履を履きなおし、山道に入る。
奏太には時間がなかった。
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