第3話

 新しい二階の部屋は、まだ埃の匂いがこびりついていた。布団や勉強机などは休みの間に移動させたが、まだ十分とはいえなかった。窓を開ける。暖かい空気が部屋に入った。奏太は窓を眺める。窓際から家の前の坂が一望できた。遠くからだと黒くて大きな滑り台に見えた。

 ホウヤが言うには、あの坂は夜見坂と呼ばれているらしい。

 街灯がなかった昔、坂ではよく人が転んだ。あの急勾配では無事に下るほうが難しかった。冬の時期の凍った地面では打ちどころが悪く亡くなった人もいるらしい。夜になって坂の上に立つと下が見えず、闇に落ちていくように錯覚する。だから、住民はこの坂を「闇坂」と呼び、地形慣れしない旅人にも分かるようにした。そこから「やみ」の音だけが残り、今の名前になったのだとホウヤは言っていた。

 暗い出自とは裏腹に今の夜見坂は片田舎を構成する背景の一部と化していた。春になれば公園のある小山に桜が咲いた。桜の花びらは毎年アスファルトを彩り、町の春の訪れを寿ぐ桃色の絨毯となった。夏になれば、坂の両脇に灯籠が飾られ光の道を作り出していた。

 坂の右手には白い家が建っていた。鉛筆削りのような直方体が二つ重なる現代的なデザインだ。あの家には「令嬢」が住んでいた。

 奏太は坂を眺めながら、教科書を開く。明日の実力テストは小学校の振り返りとはいえ気は抜けない。算数の比例反比例の練習問題に目を通す。何度も見た針金の長さと重さを表で表した問題だ。奏太は空欄を指で押さえて答えを暗算する。指をどかす。鉛筆で書かれた答えと一致しているか確認する。

 奏太は勉強で苦労することはなかった。ホウヤははじめの頃は教えたがっていたが、地頭の良さと反復練習を好む奏太にとって必要のない助けだった。

 英語も同じように終わらせていき、漢字ドリルに向かう。奏太は漢字が好きだった。「へん」、「つくり」、「かんむり」。様々なパーツが組み合わさって一つのイメージを形作るのが美しい。奏太にとっての漢字ドリルは暗記の確認以上の意味を持っていた。漢字を頭の中に染み込ませる。次に同じパーツを見たときに浮かぶイメージをより克明にするための作業だった。

「えんにょう」を見れば、砂混じりの風が吹き荒れる一本道を歩き続ける旅人を思い描いた。「罪」という漢字を見たとき「もうぶ」という部首があると知った。綱が元の意味だけれど、奏太には巨人が歯を見せて笑っているイメージを思い起こした。そうして書き取りノートに書き連ねていく。日が沈む時刻になっても漢字を書き続ける。

 ホウヤに夕飯で呼ばれたあとも書き続けていた。風呂を済ませ、布団に入るまで念入りに対策をした。



「弁当は」

「もった」

「水筒は」

「もった」

「よし」

 ホウヤが玄関先で手を振る。

「じゃ、行ってきます」

「おう」

 奏太が手を振り返し、坂を歩く。

 外の空気はまだ冷たい。昼前になれば暖かくなるのを見越して奏太はロングTシャツにジーンズで家を出た。薄い綿の生地はすぐに冷えた。寒さを紛らわすために、ぐっと足に力を込め、奏太は坂を駆け上がる。学校までの道のりは1キロほどあった。そこまで駆けていけばいつも身体は暖まっていた。

 坂を登る。急な斜面には後付けの手すりがついている。奏太はそれを掴み、身体を引き上げる。心臓がどくどくと血を送りだしているのが分かった。早くなる鼓動に合わせて足を回転させる。

 一気に駆け上がり、頂上についた。振り向くと奏太の家は見下ろせる位置にあった。夜見坂はやはり急勾配なんだと改めて思う。

「あら、奏太くん」

 後ろから女性の声が聞こえた。坂の上の白い家、「令嬢」のお母さんが立っていた。

「おはようございます」

「気をつけて」

「令嬢」のお母さんは口元を少し上げる。リップがついているのか、唇は深いピンク色のグラデーションで、美しさを際立たせている。

 奏太は「令嬢」一家がこの町にいるのをいつも不思議に感じていた。それは家からしてそうだった。白い家は木製のドア以外に無駄な配色がない。窓は少なく、周りの瓦屋根の住宅から浮き上がって見える。

 コンビニはおろか、本屋もない田舎から浮世離れしている。

「令嬢」のお母さんは線が細く、テレビで見るモデルのような雰囲気があった。いつも外で見る時は、黒いガウンを着て少し胸の開いたシャツを合わせていた。同じ服を着ていてもそれが最も彼女の美しい姿だと錯覚してしまうほどに似合っていた。

 奏太が頭を下げ、先を急ごうとする。

「あっ、奏太くん。この前ホウヤさんからいただいたさつまいも、すごく美味しかったわ」

「ありがとうございます」

「令嬢」のお母さんは柔らかく微笑んで手を振っていた。奏太は再び頭を下げ、坂を下っていく。

 奏太は頭の中で茉耶と比べていた。自分を置いて消えた母。味のしない記号のような存在。

「令嬢」のお母さんは優しい。自分ももし母がいればもっと違う人生だったのだろうか。たとえば車で週末に母とショッピングモールに行く。お昼にはフードコートで食事をとって夕食の買い物を手伝う。たまには公園に行ってくたくたになるまで遊んで……。

 ホウヤとの生活が楽しいのは分かっていた。ホウヤが作るクッキーも、一緒に畑で野菜を獲るのも楽しかった。それでも奏太は空想の家族の思い出に頭を巡らしてしまう。

 気がつけば学校はすぐそこだった。上の空でも身体は新しい通学路を覚えていた。

 学校の前の時計を見る。普段よりも10分早く到着していた。

 奏太は校門を抜けて下駄箱で上履きに履きかえる。クラスは1年B組だった。教室のドアを開けると生徒は疎らだった。

 その中に「令嬢」がいた。

「令嬢」は窓際の一番後ろの席に座っていた。姿勢を正し、文庫本を読んでいる。髪は白いリボンでふたつに分けていた。今日はフリルのついた黒いワンピースだった。胸には黒色の大きなリボンのついたブローチが揺れていた。彼女の美しさは際立っている。二重のぱっちりとした両眼にはアイラインが引かれ、まつ毛は長い。肌の色は透き通るような白さだ。もしシンデレラや白雪姫が実在しているとすれば「令嬢」だとクラスメイトは考えるだろう。それほど彼女は美しかった。

 奏太の席は「令嬢」の前だった。鞄を机に置く。校内では挨拶が奨励されているが、彼女との挨拶はない。

「令嬢」の声を聞いたことがあるクラスメイトは誰ひとりとしていなかった。小学生の頃から国語の授業での音読は彼女を飛ばして行われた。一度、夏に大きなスズメバチが教室に入ってきたことがある。先生が慌てて殺虫剤を撒くとスズメバチは黒板や窓、蛍光灯にぶつかって「令嬢」の机に落ちた。そんな時でも、彼女は文庫本を読み続けていた。まるで蜂が最初からいなかったようだった。見かねた先生が蜂を片付けるまでの二日間、蜂の死骸は机に居続けた。

 その浮世離れした様子こそ「令嬢」の令嬢たる所以だった。

「外能」

 奏太が呼ばれた方を向く。一番前の藤田が手招きをしていた。背が低く、前歯の出っ張った彼とは小学生のときもクラスが同じだった。

「なあ。すげぇよな」

 藤田は声をひそめて奏太に言った。

「なにがだよ」

「お前、しらねぇのか」

「何の話だ」

「令嬢だよ。あいつにまつわる噂さ」

 藤田は奏太を隠れ蓑にして、「令嬢」を指さす。

「あいつがなんだよ」

「バカだな、振り向くなよ……。C組の岸本が言ってたんだけどよ。あいつは人殺しらしいぜ」

 藤田は噂好きだった。誰かのやましい話があれば、真偽はともかく飛びつく奴だった。奏太はこの骨と皮しかなさそうな男の悪癖にうんざりしていた。

「お前さ、「令嬢」とずっとクラス一緒じゃん。ちょっと訊いてこいよ」

 たしかに小学生から「令嬢」とクラスは同じだった。クラス替えを何度しても彼女は影のようについてきた。なにかの縁なのかもしれないが、根も葉もない流言を訊いていい理由にはならなかった。

「どうせ嘘だろ」

 奏太がそう言うとさらに顔を寄せて囁いてきた。

「入学式のとき、篠田が亡くなったって話してたろう」

 校長が登壇中に篠田巫弓の訃報を悼んでいたのを思い出す。

「春休み中、岸本がお化けホテルで篠田と令嬢が言い争ってたのを見たらしいんだ」

 奏太には信じられなかった。「令嬢」は学校で一言も喋らない。喋ったとしたら1ヶ月はその話で持ちきりだ。彼女が誰かと口論する姿は想像がつかなかった。

「藤田、どこで見たんだよ」

「気になるよな。俺にも分からないんだ」

「岸本は言わなかったのか」

 奏太の中で、岸本への疑問は強まった。人殺しの汚名を着せておいて自分は何も言わないのだろうか。

「睨むなよ。俺も岸本に今度聞いておくから、お前も令嬢に聞いてみろ。今度ふたりで答え合わせだ」

 ひひ、と藤田が薄笑いを浮かべる。黄色い前歯が見え隠れした。

 奏太たちが話している間に、教室は賑やかになった。気がつくと一時間目が始まる5分前だった。

 藤田の席から自分の席に戻る。

 奏太は「令嬢」を見た。彼女は数十分前と変わらなかった。変わっているのは文庫本のページが進んでいるくらいだった。

 奏太が席に座ると、すぐに先生が入ってきた。少し太り気味の体型でワイシャツの上にアーガイル柄の毛糸のベストを着ていた。

 中学になって初めての顔合わせだった。

 先生は坪井と名乗った。挨拶を済ませて出席をとる。名前を呼ばれて返事が続く。

「外能奏太」

「はい」

 奏太が呼ばれた後に何人か返事をすると、3人飛ばされた。体調不良だった。角田かれん、菊池梨香、須山正樹は、篠田と仲が良かった。

「藤田」

「はい」

 藤田も呼ばれ、残りはわずかとなった。

「ほ、ほし……? すまん、なんて読むんだ?」

 坪井先生が名前を呼べないでいた。奏太は後ろの「令嬢」に視線が注がれているのを感じる。

「なんて読むんだ?」

 先生が「令嬢」に問いかけた。

 彼女は何も答えなかった。文庫本のページをめくる音だけが教室に響いた。

「おーい、聞いてるのか?」

 間の抜けた声で先生は尋ねる。

 「令嬢」を知らなければ、仕方のないことだった。彼女を本名で呼ぶ人などひとりもいないことを先生は知らない。簡単なことで、彼女の名前は読めなかった。正確な読み方を訊いても当の本人が話さない。両親に聞いても無駄だった。

 はじめは不気味に思った。「令嬢」の態度は何やら恐ろしい秘密が名前に隠されているような気がした。それは周囲にも伝播し、いつしか誰も彼女の名前は呼ばなくなっていた。

「……具合でも悪いのか?」

「令嬢」は一向に返事をしなかった。先生が席まで近づいた。

 教室が緊張で張り詰める。隣まで来た先生を奏太は横目で見た。

 小学校からのルールが通じない先生に対して、「令嬢」がどう反応するか興味があった。

「心配してるんだよ。本を閉じなさい」

 先生の手が「令嬢」に伸びる。本が閉じる音のすぐ後だった。

 がああああん……

 椅子が倒れる音がした。

 女の子が短く悲鳴をあげる。

 教室内が静まりかえっていたせいで、音は何倍にも大きく聞こえた。

 先生が狼狽する声で、奏太は我に返った。

 後ろを振り向くと「令嬢」が倒れていた。奏太の背筋が冷たくなった。「令嬢」は、冷凍されたように椅子が倒れたまま横倒しで固まっていた。本を閉じた格好は変わらず、痛みを感じていないのか、両眼は遠くの黒板を見続けていた。椅子が倒れた瞬間、瞬間冷凍されてしまったように見えた。

 その後のホームルームは中止になった。

 大きな物音で様子を見に来たC組の先生が来た。「令嬢」の様子に驚き、保健室に連れて行こうとする。彼女の心配をよそに「令嬢」は座りなおすと、にっこりと微笑んだ。

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