第2話

 ──二〇XX年四月


 春の風が頬を撫でる。奏太は坂を走っていた。急斜面に合わせ、つま先に体重を乗せて蹴る。右手に小高い山が見えた。この間まで枯れ果てていた植物たちが再び息を吹き返し、山を緑に染めていた。

 山道が続いて公園がある。雪も無くなっただろうから、そろそろ遊びに行ってもいいかもしれない。そう考えているうちに坂を上りきった。今度は下る。二階建ての家が見える。黒い瓦と雨で薄汚れた壁、「外能げのう」と書かれた表札が目印の奏太の家だ。

 屋根の上に人が立っている。

「じいちゃん!」

 人影が振り向く。腕には茶色いボールを抱えていた。屋根に登っていたのは、奏太の祖父、ホウヤだった。

「おう」

 ホウヤがかすれた声で返事をする。初めて会う人に体調を心配されるような声だが、これがいつも通りだった。

「じいちゃん、ひとりでやるなって言ったろ」

「蜂の巣取りくらい、じいちゃんだけで十分だ、ほら」

 ホウヤは自慢げに巣を掲げた。

 中学に上がり、奏太の部屋を二階に作ることになった。使っていなかった二階の窓にはスズメバチの巣が出来ており、奏太はふたりで取ろうと話し合っていた。

「いくら蜂がいないからって普通待つだろ」

「この歳で刺されても死なねぇよ」

「俺が困るんだよ」

「心配性なのは誰に似たんかね」

 ホウヤが蜂の巣をパスした。奏太は何事もなく受け取る。大きさに比べて巣は軽かった。蜂は一匹もいないようだった。

 ホウヤが梯子を降りる。

「入学式はどうだった」

「普通だよ。普通」

 奏太が笑う。

「友達になれそうな奴はいなかったか」

 中学は小学校からの繰り上がりで特段変わり映えしなかった。奏太は学校でひとりでいることはなかった。人と話すのは嫌いではないため、男女問わず仲良くなれた。だが、心の内を話せる存在はいなかった。それが悪いとも悲しいとも思わない。ただ、話す気にならなかった。授業中や休憩の短い間では昨日のテレビ番組の話題だけで時間をやり過ごせた。

 ホウヤが納屋からゴミ袋を取り出してきた。

「こんなでっかくても燃えるゴミで捨てられるんだな」

「それがなんだよ」

「可笑しいじゃねぇか。こんな立派な屋敷もゴミ袋にくるんだら、紙くずと変わらなくなっちまう」

「ウチも?」

「ばか言うな。この家はじいちゃんが作ったんだぞ」

 ホウヤが小突く。

「いつ作ったんだよ」

「茉耶が高校生だったから……」

「30年も前じゃんか」

 茉耶。それは奏太の母の名前だった。小学生に上がる前、母は奏太をホウヤに預け、どこかに消えてしまった。「ちょっとトイレに行ってくるね」と言ったまま10年近くが経っている。そのためか、ホウヤへの親しみはあっても母親へ特別な感情は浮かばなかった。周りは母親が消えて可哀想だと言った。奏太には何が可哀想なのか分からなかった。

 ゴミ袋に蜂の巣を転がす。巣は不均等に作られ、子どもが作った泥団子のような形をしていた。ごつごつとした凹凸は人の目鼻のように見える。冬を過ぎて脆くなっていた。巣が乾いた音を立てて割れる。破片が散らばらないように袋の口を縛る。

「あとは一人でできるか」

「うん」

「よし、じゃあ茶でも用意してくる」

 ホウヤは巣の始末を奏太に任せ、先に家に戻った。

 明日は燃えるゴミの日だった。奏太は縛ったゴミ袋に地区名と名字を書く。地区のゴミ置き場は道を挟んで坂を下った場所にあった。奏太は簡素な金網のドアを開いて袋を入れる。

「じゃあな」

 巣に別れを告げ、家に戻った。


 奏太の家は木造の二階建てで、家の前に蔵がある。家の裏に回ると、軽自動車が6台は停められそうな広さの庭がある。そこには家庭菜園があり、ホウヤがトマトやナスを育てていた。

 手洗いをすませて居間に行くと、バターの焼ける匂いがした。背の低いこたつ用の机にクッキーの乗った皿が置いてあった。

「お前、好きだろ」

 ホウヤが台所から返した。

 クッキーは二種類あった。濃い茶色と薄めの黄色のクッキーが六枚ずつ並んでいる。

 奏太は薄い黄色のクッキーをかじった。

 口の中にナッツの香ばしさが広がる。生地が溶けるとバターの香りが後を追って鼻腔を刺激する。

「うまい」

「あたりめぇだ」

 ホウヤが台所から急須と茶碗を持ってきた。

 クッキー作りは時間が空くとホウヤがやる趣味だった。元は亡くなった祖母がお菓子作りをよくしていたようだ。祖母は筋金入りだったようで奏太がここに来る前は、ホウヤはもっと体重があったという。吹いて飛ばされそうに痩せた今のホウヤの姿からは想像できなかった。

 ホウヤは指でクッキーをつまむ。歯を痛めないよう慎重に咀嚼すると、目尻に皺が寄って満足そうにうなずく。

「ところで中学はどうだった」

 ホウヤが茶を汲みながら再び聞く。

「なんにもないって」

「いいんだよ。担任の顔が面白かったとか、変な先輩がいたとか。ちっちゃいことでいい」

 ホウヤの言葉で午前中に記憶を巡らす。

「あ……」

「なんかあったか」

「明日実力テストだって」

 奏太の言葉に、ホウヤはつまらなそうに鼻を鳴らした。

「いきなりテストか。今の学校は面白くねぇ」

「じいちゃんの頃はどうだったの」

「そうさな。中学に上がっても外でばっか遊んでたな。冬は夜見坂でソリ滑ったり、巳月神社で透け地蔵を探したりしてた」

「地蔵?」

 ホウヤがにやりと笑って奏太を見る。

「聞きたいか」

 奏太が先を促すと話し始めた。

「じいちゃんの婆さんが小さい頃教えてくれたんだけどよ。巳月神社には透け地蔵っていう透明な地蔵の言い伝えがある。じいちゃんは友達とよく探したもんだ」

 巳月神社は坂を登った時に見える小高い山にあった。今は神社はなくなっていた。巳月公園という名前で親しまれている。公園は夏でも涼しく、奏太は早朝にホウヤとカブトムシを探しに行ったことを思い出した。

「見えないのにどうやって見つけるんだよ?」

「地蔵は夕方から1時間だけ見えるらしい。だから、毎日神社の周りで探す場所を区切って人海戦術をやるんだ。そこらへんの木の棒を拾ってよ。これが結構大変なんだ」

 ホウヤは昔を思い出して笑う。

「ふぅん。それで地蔵は見つかったの?」

「最後まで見つからなんだ」

「まだあるのかな」

「さあ。ひいばあさんの言うことが間違ってなけりゃあるんじゃねぇかな。奏太、お前が見つけてきてもいいんだぞ?」

 奏太は曖昧に笑った。ホウヤなりの気遣いだった。奏太に友達を作る口実を教えているのだ。

「テストが終わったら考えとく」

 適当に相槌をうち、奏太は茶をすする。

 その後、ホウヤと一言二言会話をして二階に引っこんだ。

 階段を登る間、ホウヤとの会話を奏太は思い出していた。

 言わなくてよかっただろうか。

 校長の深刻な顔と、泣きだすクラスメイトがよぎる。

 入学式ではじめに伝えられたのはクラスメイトの訃報だった。奏太も知っている篠田巫弓しのだふゆみが休みの間に亡くなったの。

 わざわざホウヤとの会話を暗くする必要もなかったのでテストの話をしたが、やはり話すべきだったろうか。奏太は階段を上りながら迷っていた。


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