サンボボが坂に

電楽サロン

第1話

 8時きっかりに時計のアラームが鳴る。その3分前に奏太は目を覚ます。いつも通り床が冷えきっていた。ガレージをすこし住みやすくした程度の「訓練所」は乾燥している。奏太は空咳をする。小さな窓には鉄格子がはめられ、光がほとんど入らない。灰色がかった光を見て今日は曇りがちな晴天なのだろうと奏太は想像した。

 秋に近づき、コンクリートの上で眠るには肌寒かった。毛布から出た足を奏太が戻そうとする。関節が鈍く痛んだ。ズボンの裾をまくると、腿が青黒くなっていた。昨日の「武器訓練」で鉄パイプで打たれた箇所だ。撫でるだけで沈みこむような痛みがする。

 訓練所に来てから痛みは日常の一部と化していた。

 奏太は祖父との記憶を思い出そうとする。

 野菜作りを一緒に手伝った晴れの日。ぎらぎらと日差しが照りつく。麦わら帽子の中が汗で蒸れる。トマトやピーマン、とうもろこしを獲った。実りが多いときほど祖父の顔は綻んでいた。奏太にたくさん食べて欲しかったのだろう。夕食時は痩せている奏太を心配して祖父はご飯をたくさん盛った。

「こんなに食べきれないって」

「奏太、食わなきゃデカくなれんぞ」

 祖父のくしゃくしゃになった笑顔を思い出す。いなくなった母のかわりに、優しい祖父はいつも奏太を気にかけてくれていた。

「じいちゃんも食うから食え食え! ははは……」

 笑い声が聞こえなくなっていく。思い出は遠い昔のようだった。

 冷たい床、埃っぽい室内。これは現実ではない、と何度も自分に思い込ませようとする。だが、身体に刻まれた痛みは奏太が目を逸らすのを許さなかった。

 頭上で木造の床が不気味な音を立てた。

 奏太は身体を硬くする。上階の物音に耳をそばだてた。音は奏太の真上から移動して階段に向かう。

 ぎゅい、ぎゅい、と階段の踏み板が鳴る。あれが降りてくる。心臓の鼓動が早まる。踏み板の軋みは得体の知れない昆虫が発する鳴き声に聞こえた。音は大きくなり、段々と近づいてくる。

 部屋の角にある木製のドアが開く。それは束の間の平穏が崩れる合図だった。

「見ろ」

 ドアの前に立つ男が言った。手に金属のトレイを乗せている。奏太は目を合わせられず、男の脚を見るので精一杯だった。赤銅に焼けた脚には彫像のような筋肉がみっしりとついている。その表面にはいくつもの傷跡があった。裡に秘めた暴力性が弾けそうになり、皮膚に地割れを起こしている。

 トレイの上には水筒のほかに、パンとスープが湯気を立てていた。奏太は奥歯の内側が疼くのを感じた。

 男がスチールの水筒を投げ渡した。

「飲め」

 水筒の中身は冷たい水だった。体の冷えよりも渇きが勝った。

「腹が減っているな」

 水を飲み下しながら奏太が無言で頷く。

 影がトレイを差し出す。香ばしい匂いが鼻腔を刺激した。手に取ろうとしてしまうのを堪えた。

 奏太の脳内では警報が鳴っていた。食べ物に触れてはいけない。男がいるうちは絶対に触れてはいけない。

 食べ物から目を逸らせなかった。空腹が奏太を縛りつける。

 無理もなかった。奏太は最後に形のある食べ物を口にしたのはいつだったか思い出せないでいた。パンの香ばしい匂いがここまで漂ってくるようだった。思い切りパンにかじりつく光景を想像した。

 奏太が食べ物に手を伸ばすのと同時に、呼吸ができなくなっていた。腹に鉄球がめり込むような激痛がした。

「殺して奪え」

 男は言った。拳を握り、固めていた。

 奏太は男を見上げた。

 しわくちゃに笑った顔は、部屋の光のせいで異様な陰影をつくりだしていた。

「立て」

「……」

「できないならお前を殺す。千年の痛みに比べれば、それも幸せのカタチだろう」

 容赦なく足刀が奏太の脇腹にめり込む。内臓が暴れ、肺の空気が逆流した。

「地獄の使者ならすでに五度殺している」」

 また訳の分からないことを男は言っていた。床に涙のしみが広がる。悟られないように奏太は手の甲で涙を拭った。

 立ち上がらないと、本当に殺されてしまう。奏太は油をさし忘れた機械のようにぎこちなく立つ。

 男はただ見下ろしていた。拳を握りしめ、獲物の反撃を予感している。男の笑顔がまた歪んだ。

 奏太は自分に言い聞かせていた。

 これはじいちゃんじゃない。じいちゃんはこんな笑い方をしなかった。こんな大きな身体じゃなかった。憎しみのこもったどす黒い眼をしていなかった。

 これはじいちゃんの皮を被った何かだ。

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