識学
一時期、リルの部屋にザインが長時間入り浸る期間があった。
日が昇る前に入室し、月が昇りきった頃に退出するというのを約一ヶ月ほど続けていた。
それが前提。
「何?」
淡い基調の色合いで合わせた背当てを隙間無く敷き詰められた部屋の中で、リルは向けられた黒色に艶めく視線に微か肩を震わせた。
「いや、あの、その」
突如部屋を占拠されてしまったリルは、占拠した本人であるザインの視線に気後れし、出した声は尻すぼみに消えてしまった。
扉を開けられ、部屋がクッションだらけになって、ザインが居座り始めても何も文句のひとつも言えないリルは、寝台の上から睨むことも出来ず居て当然とばかりのザインの態度にただただ口を噤むだけであった。
「興味、ある?」
自然と俯いてしまったリルに、ザインは読みかけていた本を閉じて、表紙を少年へと向けた。
問われて、慌ててザインの手に持つ本を見たリルは空かさず首を横に振った。
「読めない」
興味が無いではなく読めないと言い切ったリルにザインは思わず手に持つ本の表紙を確認した。
「文字が?」
「難しい文字は読めない」
まさかと思い、質問を繰り返せば即答されて、ザインは眉根に皺を寄せた。表紙に綴られた文字は大陸全土に広まっている一般的な公用語だ、読めないはずがない。
「どの程度読めるの?」
「簡単なのしか」
会話はこなせるが、単語となると日常生活に支障が来きたさない程度しかないと言う。書くのは自分の名前と数字が少し、とこちらは絶望的だ。
「ジュストに教えてもらわなかったの?」
首を横に振るリルにザインは、小さく唸った。
「そうだね。狐族は教育者向けじゃない」
ザインが知っている限り、リルの周りの人間で少年に教養を手ほどきできるような人材は居ない。だからと言ってこんなにも無学だとは想像していなかった。色々と想定外な事柄ばかりにザインの顔には胸中とは違い、溢れるように笑みがこぼれ広がっていく。
右手で喉を押さえて笑いを堪えるザインにリルは自然と寝台の奥へと場所を移動した。ザインを理解できない不安に怯え気分を変えようと部屋を見回した。
色とりどりの背当ての上に、背当て以上に広がり散らばって部屋を埋め尽くさんとする大量の本をも同時に眺めていた。
大きさも厚さも記されている文字さえ様々な蔵書達は、ここ数日ザインが読み漁った残骸達でもある。
部屋に入り浸りながらリルの相手は片手間程度に留めて、ザインはずっと本ばかり読んでいた。
何をそんなに真剣に調べているのか、文字の読めないリルには推測もできない。
そもそも調べているという姿勢なのかどうかもリルにはわからない。趣味なのかもしれないし、ただの暇潰しなのかもしれないし、他の目的があるのかもしれない。
それがザインの学ぶ姿勢だとリルには知る由もなかった。
「興味がある?」
不意にザインが笑うことを止めた。
真っ直ぐと向けられた黒い瞳は、艶やかに煌めき輝いて奥底を伺い見ることができない。
「私が教えてもいいよ」
どういう意味で受け止めて良い提案なのかリルには判断できなかった。
「教える、の?」
「意外かい? それとも、私では不満かな?」
ザインは大国第一王位後継者だ。その偉大なる血統種を前に不満等恐れ多くて言えるはずもない。そもそも不満というより、そう、意外であったのだ。
誤解を恐れて不満ではないとリルは緩く首を横に振った。
「では、決まりだね」
不満が無ければ了承と受け取る。そう結論付けて決定されて、リルは慌てた。
「あ、あの!」
「何かな?」
「でも……僕……」
自然と俯くリルに寝台に座り直したザインは、少年の薄い茶色の髪に自分の指を絡ませる。柔らかな猫毛の感触は、従順で抵抗せず、芯が無い。
「リル。少しでも興味が有るのなら、はい、と答えるんだ。私はね、リルが興味を持ったか持たないかしか、それこそ興味が無いんだよ」
髪を弄るのを止めたその手でリルの左頬を鷲掴むザインは、自分を見るように少年の頬を掴む手に力を込めた。
「自信が有るとか無いとか、そういうのはどうでもいいんだ。特に君は猫族だ。しかも王族だ。自信が無くとも、素質はあるんだよ」
血を重んじる種族同士故か、ザインの眼差しは気味が悪いほど優しい。
「文字が読めないだって?」
短く笑った。
「悪名高い猫族の血統種が聞いて呆れる。君は、今までどんな人生を歩んでたんだい?」
からかいの口調で、ザインは問いかけた。
柔らかい声と。
優しい眼差し。
ザインの大きな手がリルの頭を撫でる。
「流石は呪いの一族だ……で、どうする? 君は『識る』ということに興味はあるかな?」
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