馬車
使われなくなって久しい古い街道を駆ける一頭の砂竜が引く幌馬車が一両あった。
御者は兎族のスイが勤め、荷台に狼族のキースと体を横たえて眠る猫族のルルがいた。
手綱を持つスイの表情は険しい。馬車の中では荷台で寝ているルルを見下ろすキースの表情も厳しかった。
「……ん」
寝返りをうつのと同時にルルが目を覚ました。
「おはよう」
気づいたキースがルルに笑いかけた。その声にスイも、主にキースへと向けていた殺気を霧散させる。代わりに周囲に対しての警戒を強めた。
寝ぼけ眼のルルはあくびを噛み殺し、眠気を払うように頭を左右に振った。
「おはよう、ございます」
キースへ返す声は、遠慮が混じり不自然でぎこちない。上体を起こしたルルはキースに目も合わせずスイのほうに心持ち体を寄せた。
「おはようございます。スイさん、私はどれくらい寝ていましたか?」
聞かれて襲撃に備えて緊張感を昂ぶらせていたスイは前を向いたまま告げた。
「ざっと五時間くらいだ」
「そんなに……では、だいぶ進んだのですね」
ルルは自分の胸に右手を添えた。
「此処はどの辺になるのでしょうか?」
「まだ国境には程遠い」
素っ気ない口調と内容にキースは、もう少し詳しく地名等混ぜた方がいいのではないかと苦笑した。
世界を知らないルルに対し、充分な説明をしたスイは中から漏れ聞こえたキースの苦笑を黙殺する。
「そうですか。スイさんありがとうございます」
その答えに満足と答えたルルは、衣服についた汚れをのろのろと払い落とす。
遅々として進んでいるようには見えないその作業を眺めキースは、ふと零した。
「どうしても行きたいのか? 死ぬぜ?」
そんなに鈍のろくては、殺されに行くようなものだ。と、ルルに投げ掛ける。
僅か顔を上げたルルは真っ直ぐにキースを見据えた。
「どうしても兄を取り返したいんです。答えはそれ以外在りません」
他の理由など存在せず、とルルの決意は変わらない。
「死ぬぞ」
少女の口から兄の名が出たことに、キースは一笑した。
ルルは否定に首を横に振った。金の髪が緩やかに波打ち、少女の肩口を滑り落ちていく。
「死にません」
「どうして断言出来る?」
「貴方が私を守ると約束してくれたからです」
「ずいぶんと買いかぶる」
実際キースは期待されているほど強くない。
ルルは己の発言に力が宿るように、右手で自分の胸を押さえた。
「そんなことはありません。正当に評価したまでです」
少女は引かなかった。
ルルに対し恋心を抱くキースはルルのその発言に、露骨に嫌な顔をした。なまじスイが居る為、自分の実力がわかりきっているキースにはルルの言葉はあまりに酷だった。馬鹿にされているのだろうかと勘ぐってしまう。
眉をひそめるキースにルルは胸を押さえたままの右手に左手も重ねる。
「私は貴方が私と交わした約束を反故にするとは思えません」
「いや、そりゃそーだが」
自分で勝手に惚れて、勝手に名乗り上げた手前、無理難題だから全て白紙に戻そうなんて考えは口外しまいと決めているキースは、しかし、どうしてそれがルルが死なずに済むという結論に行き着くのか全然理解できなかった。
「ルル」
キースの困惑を見透かすようにスイが口を開いた。
「あまり思い詰めるな。無理矢理持ち上げなくてもそいつはおまえを裏切ったりしない。そして、キース。ルルを責めるな。猫族の約束に対しての執念を知らないとは言え、少しきついぞ」
宥められ、窘められた二人はスイの言葉にそれぞれ違う意味で溜息を吐いた。
ルルが心を許している異性は兄であるリルだけだ。突然に現れ惚れたから彼女になってくれと言われても、どう受け入れて良いのかわからない。他人である、という事実を強調して互いの距離を測るので精一杯であった。
「……見捨てないで、ください」
ぽつり。と。少女は懇願した。
息を飲むキース。
無言のままのスイ。
そして、静寂。
「キースさんが頼みなんです」
顔を上げないルル。
「ひとりでも行く気だったくせに……説得力ねぇよ」
明らかな偽りを口にするルルを気に入らないとキースは一蹴した。
酷いことを言葉にして声に出した自覚があったルルは、吐き出された非難に身を縮めた。
スイは一度だけ背後を気にするよう瞳だけを動かしたが二度目の助け船を出すつもりがないのか無言のままだった。
ルルが顔を上げた。真っ直ぐとキースを見つめる。
少女は両手に力を込め嘆願と胸を押さえている。先の言葉以外に用意されていたものが無いのか、口を閉ざしたままだった。
ただ、瞳だけが真っ直ぐに向けられている。
キースは、一度、天を仰ぐ。
「いい。わかってる」
キースはルルを知らない。知ろうとしない。スイに許されないと同じに、自分には少女を抱き締める資格がないだけなのだ。永遠に手段を失ったスイとは違い、ルルとの間には明確な約束が成されている。彼女の望みを叶えれば、自分の気持ちを受け入れてくれると、そう約束されている。
そのことにキースは満足するべきなのだ。
「見捨てはしないさ。約束も契約も。その前に俺はあんたに惚れてんだ。見捨てられるか」
呟きながら、それでも少女を今すぐにでも攫いたくなる衝動を無理矢理抑え込む。約束も契約も、例えそれが無理難題だとしても、クリアしてしまえばいいだけの話なのだから。
「あんたの兄貴を犬族から奪い返せばいいんだろ?」
直後、場の空気が止まった。
それに気づいて、ルルが慌てて頷いた。
スイは反応しない。上司から少女を安全な場所で穏やかに過ごさせるという使命を受けていたスイは、沈黙を決め込んでいる。彼は始めから今現在も、リル奪還には反対しているのだ。
キースはその沈黙を気味悪く思う。
事情を知らないのが自分だけという状況を快く思っていないが、一歩踏み出せない自分にも苛立っていた。
スイの沈黙が、正直怖い。
ルルの挙動が、腹立たしい。
何より少女の一挙一足に一喜一憂し、無意識にスイの顔色を伺う自分に気づき愕然とする。
この旅は長くない。
そして、世界を知らない少女の意思で成り立っている。
兄を取り戻す。
たったそれだけ。
それだけ。
それだけの事に、身一つで犬族が治める大国に挑もうとするのだから正気を疑う。
そして、そんな少女に一目惚れをし、無謀にも命すら投げ出したかのような約束を交わしたキースは最早狂っているとも等しい。愚かな自分にキースは閉口した。相も変わらずこの口は軽い。と。
キースは全身が緊張で強ばっていくのを感じる。沈黙が身に痛かった。
いつしかルルは体を荷台に横たえ再び眠りに落ちた。
日が落ちた頃、スイは口を開いた。
「彼女は死なない」
言葉にキースが顔を上げる。
「猫族は身代わりの一族だ。あの双子は互いに互いの身代わりの相手としているから、簡単には死ねない」
一緒に生まれたのだから、死ぬときも一緒に。幼い頃に交わされた密約。
呟かれた内容に、事情を知らないキースは臍を噛んだ。
「自分が死ねば相手も死ぬ。その重圧に耐える彼女は、俺の目から見ておまえより強いと断言できる。キース、お前こそ彼女を愚弄しているも同じだ。弱いと責める理由はどこにもない」
淡々と語りながらスイは事情を知らないキースに同情していた。まさかの再会に気持ちはまだ複雑ではあったが、キースの想い人がルルだと知って、同情を禁じ得なかった。
「それと今言ったことは極秘事項だからな。絶対口外するなよ」
スイは、口止めも忘れない。
「せいぜい頑張れ」
し、声援を送る余裕もあった。
悪意に充ち満ちた、その言葉を受けてキースは愕然とする。
「うわ、ひでぇ」
愚痴る。
ルルの兄であるリルも死なせることができないという条件が増えていた。
キースの恋愛成就への道はどうやら茨の道らしい。
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