花
どうしてもその花の種を持ち帰りたかった。
綺麗で優しい母は目を細めて笑い「仕方ないわね」と私の我が儘を許してくれた。
大人の親指の爪ほどの大きさの種を無くさないようにと、自分の匂い袋で紐を調節しただけの即席の首飾りを作り、その中に種を入れ、私の首にそれをかけてくれた。
「帰ったら、鉢植えを探して植えましょう」
約束よと歓声を上げる私に母はずっと微笑んでいた。
それが、数少ない母との思い出の最後だった。
花。
鳥の羽ばたきに促されるようにルルは夢から目を覚ました。
幼い日を再現した夢の余韻に、目を開けたのはいいが動揺し動けずにいたルルは、扉を叩く音に大きく目を見開いた。
「ルル、入るよ」
断りの言葉もそこそこに扉を開け、薄暗い室内へと入ってきた少女と同じ顔の少年は、寝台の上で両目を大きく見開いたまま微動だにしない妹に軽く微笑んで、狭い部屋の八割を占める巨大な寝台を大きく迂回しながらルルの元へと歩み寄った。転落を防止する柵に両手を置いて、兄は狭い部屋に不釣り合いなほど大きな寝台に横たわる妹の顔を覗き込んだ。
「おはよう。今起きたの?」
息さえ止めているのではと疑ってしまうほど動じない双子の妹を眺め、返事も待たずリルは窓際へと移動する。
「ルルはいつも生活が規則正しいよ。僕より早く起きてる。たまには起こさせてよ」
苦笑しながら雨戸を外し錆び付く鍵を引き抜き窓を開け放ったリルは、室内に充満する陽光と新鮮な風の広がり具合を確かめるように目を細めた。
一日の始めに少女に朝を告げる仕事を終えた少年は満足げに頷くと扉へと歩き戻った。
「さて、と。窓も開けたしルルの朝ご飯でも持って――」
次の仕事内容を知らせる為に妹へと目を向けたリルは、しかし途中で言葉を切った。
「ルル……?」
純粋に驚く兄を長いこと眺めてから、ルルはサイドテーブルに興味を移した。
「ルル」
妹が走らせた視線へ先回りするようにリルはサイドテーブルへと駆け寄り、少女が何に興味を示したのか理解して無意識に自分の胸に右手を添える。
「今年も咲いたんだ」
体が弱く日々を夢中でこなしている内に余裕すら無くし、サイドテーブルの些細な変化に気づけなかったリルは、花が咲いているということにほんのりと感動を覚え緩く笑うも、上体を起こそうとするルルに気づいて慌てて妹に手を貸した。
行儀良く背筋を伸ばす妹に急かされて、リルはルルの要求に応えて両腿の間に鉢植えを乗せた。
ルルはすかさず両手でそれを挟むように抱える。
「咲いた」
棒読みにも等しい妹の呟きにリルは頷いた。
「今年も咲いて良かったね」
「母様の花」
兄には目もくれず、妹は呟きを繰り返す。短い会話でさえ意味が全く噛み合わず、表情一つとて一切と変えないが、花を愛でる妹という構図にリルは自然と胸の奥底で沸き上がる感情に幸せを噛み締めている。
「あ、と。そうだご飯。朝ご飯持ってこないと」
思い出して扉へと行こうとしたリルは、しかし途中で足を止めた。
「そうそう、今ね、スイさん来てるんだ。ご飯を食べ終わったら詳しく説明するけど家に泊まることになったんだよ」
言うと返事も待たず扉を開けて兄は部屋を出て行った。
残された妹は鉢植えから目を離し天井を見上げる。
「馬鹿だわ」
しばしの無言の後、投げやり気味にぽつりと呟いた。
「母様の花が今年も咲いたのに、馬鹿だわ」
童話に出てくる幸せを呼ぶ花と知って、どうしてもと我が儘を言って持ち帰った花の種は今、一輪の花を咲かせている。黄色い花片で幸せを呼び寄せると謳われる花を両手で包み、ルルは天井を見上げながら繰り返す。
笑うことも怒ることも呆れることもなく、繰り返す。
「今年も笑えなかった」と。
少女の両手の中にひっそりと咲く黄色い幸せの花。
「私はまた笑えなかった」
種を鉢に埋めてから花が咲いて何年目の正直だろうかと後悔を募らせたルルは、反省をしても無駄かもしれないと自分を悟ったところで天井を見上げ続けるのを止めた。
顎を引き、ルルは言葉を失った。
兄の手で開けられた窓から見えるのはいつもと同じ景色のはずだったのだが、今朝は違ったようだった。
銀色の毛並みを持つ青年が其処に佇んでいた。
全く見ず知らずの男が其処に居た。
窓の外に居る人物とまともに目を合わせたルルは、ひくりと喉を鳴らしながら息を吸い込み、動揺に両手の拳に力を込めた。
そして、詐病している立場を忘れたルルの絶叫が家中に響き渡った。
故郷を無くしたあの日から、花が咲く度に決心していた。
そして、貴方が私に笑いかけてくれる度に決心が鈍ってもいた。
私が笑うだけで貴方が幸せになると知っているのに、私はずるい女だ。
私だけが持つ、貴方を幸せにするきっかけ。
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