第5話 朝靄の殺人者(上)

1979年6月、その日は市内の中心を流れる鏡川に靄がかかるほど気温が低かった。温暖な高知市もごく稀に、初夏でも靄がかかり、町全体を覆う事がある。

「今朝は冷えますねー♪」

僕は季節はずれの靄がかかるソープ街を、怖さと気持ち悪さを和らげる為、小声で節をつけた言葉を口にしながら、今日も小走りに新聞を配っていた。7軒中、6軒目のソープランド「来夢来人」に向かって自転車を走らせ、角を左に曲がった途端、ビル影から昇った朝陽の眩しさに、目の前が一瞬ホワイトアウトした。

瞬きを何度もしながら前を見ると、朝靄に反射した朝陽が、青白く僕の真正面に立つ者を、背中越しに照らしていた。よく観る映画のワンシーンのように強烈な光で体の稜線しか分からないが、足下に視線を移した瞬間、くっきりと焦点の合った光景は恐ろしいものだった。

足下に倒れた人の周りは、まるで赤いペンキでもぶちまけたかのような血溜まりが出来ていて、その血溜まりはゆっくりとその面積を広げていた。

その光景のあまりの衝撃に血色を失った僕は下げた視線をゆっくりと元に戻した。時間にしてほんの数秒だろうが朝陽は角度をほんの少しだけ上げていた。さっきは逆光で背中に被さった朝陽のせいで体の輪郭しか確認出来ずにいたが、朝陽がちょっと昇ったせいで、その全貌がはっきりと映った。

「女だ!」僕の心の声はそう叫んだ。

さして大きくないその体は血しぶきに赤く染まっていたが、微かな胸の膨らみを僕は見逃さなかった。そしてその女は真っ白な道着を身に纏っていた。

返り血で分かりにくいが、左胸に「…誠館」と刺繍されているのが分かった。腹に巻いた黒帯がこれから僕に降りかかる災難を予感させ、臆病な僕は縮みあがった。

「おいっ!坊主、さっきからジロジロ何を見とんならぁ!」

ひどく低くてかすれた声で、女は僕にそう言ってきた。

中学校2年生、14歳の僕が体験する出来事でこれほどまでに、残酷で理不尽な状況があるだろうか。

聞いた事も無い方言から発せられた怒声にも震えたが、それ以上に僕を震撼させたのは女が右手に持っていた血まみれの物だった。

「手斧だ!」心がまた叫んだ。

僕は生まれて初めて死というものを意識した。

「殺される…」

そう思うや否や、女の第二矢が飛んで来た。

「坊主、何黙っとんな?口がきけんのんかわりゃあ!」

関西弁なのか、これまでに聞いた事の無い語尾の荒さが、僕の恐怖を増幅させた。僕は蚊の鳴くような声で

「…いえ、何も見てません…。」と言った。あまりの恐怖からか、喉の奥がキュッと閉まり、思うように声がだせない。

「何やと!おのれの頭も叩き割んどコラ!」女はかなりの興奮状態で、何を答えても無駄だと思った。

僕は震える両足で自転車を支えていたが、逃げるほかない!咄嗟にそう思った。あたり前だがこの状況から抜け出すには、そうするしかないだろう。

僕は踵を返すように左脚に重心をかけて、思い切り自転車の車体を右に振った。その勢いで荷台に結えた残りの新聞が路面に散らばった。

僕は新聞に構う事なく全力でペダルを漕いだ。

「おいっ!こら待てー!どこ行くんじゃあー!」

全くの理不尽過ぎる状況なのだが、僕が逃げるという行動を取ったことが、女の行動を決定づけたのだろう。

近くに止めていたスクーターのカゴに手斧を投げ込み、女はシートに飛び乗った。靄がかかる程の寒い朝だったが、すぐにエンジンはかかり女は僕を追って来た。

なぜ、手斧を持った殺人鬼に追われなければいけないのかという不条理に見舞われた僕は、とにかく無我夢中でペダルを漕いだ。この区域の路地という路地は熟知している。

女のバイクがものすごい勢いで迫って来る。僕は路地を縫うように自転車を走らせた。狭い路地を難なく逃げる僕にバイクはたびたび方向転換を強いられた。その度、女は奇声を発した。

「キエーィ!待てー、クソ坊主!」

ラブホテルやソープランドのビル群に女の発狂したような叫びが反響する。

迫るエンジン音に怯えながら、逃げる僕は必死にルートを考えていた。

ソープ街を抜けると、電車通りに出る。広い歩道は緩やかな下り坂だ。

その坂を下り切った先にデパートがあり、信号を渡ると交番だ。

「下り坂で一気にスピードを上げて、交番に飛び込もう!」

網の目のような歓楽街の路地を縦横に走り、僕はやっと電車通りに出た。

ゆるい下り坂を利用してどんどん加速した僕は、

「やった!逃げ切れる。」そう思った瞬間、轟音とともに脇道から女のバイクが飛び出して来た。バイクは僕の走る歩道に乗り上げ、フルスロットルで追って来た。うなりを上げるバイクはあっという間に僕に追いついた。

あと50メートルくらいで交番というデパート前の銀行のシャッター前で、僕の自転車を追い越したバイクは行く手を遮るようにして止まった。

全力で加速していた僕は両手でブレーキを目一杯握った。

『ズザザザザー!』

前後のタイヤはロックし、僕の自転車は横滑りしながら女の直前で辛うじて急停車した。

「もう終わりだ。殺される……」

僕はそう思って空を仰いだ。

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