第4話 漁村での惨劇(下)
直子の父徳三は小さな水産加工会社を営んでおり、収穫したカタクチイワシの稚魚、いわゆる生のしらすを急速冷凍したり、釜茹でにしたり、乾燥させたりと主にしらすを加工する工場を自宅から少し離れた港のそばで操業していた。
徳三は肩書きこそ社長だが、工場の運営は甥の昇に任せていた。
父の茂が直子の家に転がり込むように同居して、はや半年が経とうとしていた。徳三の船に乗り、曳網漁は全く素人の父だったが、元々が漁師のせがれ、仕事の飲み込みは早かった。
漁協の漁師たちとも仲良くなり、大好きな酒の交流や、この村に来て覚えた花札に麻雀などの博打にも頻繁に呼ばれるようになっていた。
ただひとりだけ、徳三の甥の昇だけは父の事をあまり好ましく思っていなかった。直子が夫と別れて、高知で水商売をするに至った遠因が昇にあったことは、徳三や千代美はもちろん、村中の人間の周知の事実であった。
5月のしらすは「春しらす」と言って年中獲れるしらすの中でも身がふわふわして人気が高く、漁師達も水揚げが多く景気がいい。必然的に寄り合いというのは名ばかりの飲み会や、博打の機会が増える。
外様の父だが、元来の人懐っこさが奏功し、こういった場所に父の姿を見ない日は無かった。
この日も徳三の家からすぐの漁師方で
10人程が集まって宴が始まっていた。
この村の漁師では中堅の「山尾水産」の山尾一(はじめ)が主催の飲み会はいつもの通り盛り上がっていた。
「茂がここへ来てどんくらいなら?」
はじめが父に聞く。
「もう半年くらいかなぁ。」
父が答える。
「ほう、もう半年も経つんかー。早いのぉ。どうや、だいぶ慣れたろ?」
再び、はじめが父に聞く。
「そうじゃねぇ、まだまだやけんどまあ何とかやっとるわ。」
父は半年で高知弁と広島弁の混じったいびつな喋り方をマスターしていた。
父の生まれた高知の漁師町は豪放磊落で名高く、酒の飲み方もハンパなかった。一升瓶が次々に開けられ、大皿一杯の皿鉢料理がこれも何枚も用意され
見事に平らげられていく。
広島の飲み方は高知に比べると、ややおとなしめに思えたが、騒ぎように違いは無かった。
当たり前のように、花札が始められた。この日も博打で前を切るのは徳三の甥の昇だ。博打の時は大体昇が親をする事が多かった。
父は広島で博打を覚えたくらいの人間なので、花札でも役をなかなか覚えられず、チョンボも多かった。
「おーい、また茂がチョンボしたでぇ。今日何回目じゃあ!」
ひとりの漁師が酔って赤らんだ顔で、叫んだ。
親の昇は父がチョンボするたびに、舌打ちしたり、父を嘲笑ったりで明らかに父を疎ましく思ってるのが丸分かりの態度だった。
「茂!わりゃあええかげんにせえよ!人が大目に見とったら。博打も出来んもんが偉そうに直子の亭主気取っとんじゃないど!」と口汚ない方言で発せられた昇の言葉に、そこにいた漁師達が一瞬罰の悪そうな表情で、父を見た。
「直子は関係なかろうが!」と父はたどたどしい広島弁で反論した。
「ほうよ、昇ちゃん。茂も悪気は無いんじゃけえ、のう茂よ。花札より麻雀の方が簡単じゃけ麻雀しょうや、昇ちゃん!」すぐさまはじめが助け舟を出した。
「アホ言え!麻雀の役もよう覚えとらんわ、こんなん!」昇はそう吐き捨ててはじめの家を後にした。
「茂、昇ちゃんの言うたことは気にしんさんなよ。さ、みんな麻雀しょうでぇ。」はじめは場を戻そうと必死だった。
父は昇にいい風に思われてないのは薄々感じていたが、今夜の昇に言われた言葉が引っかかっていた。
「……偉そうに直子の亭主気取っとんじゃないど!」昇の言葉が繰り返すように頭の中を覆っていた。
深夜、家に帰った父は眠っていた直子を起こし今夜昇から言われた言葉を持ち出して、直子に問いただした。
「直子、おまえ昇さんと何かあったんか?」
「え?何よ、突然。夜中に起こされて聞かれること!アホらしい。ウチら親戚じゃよ!」直子は怪訝な表情でそう言うと、掛け布団を乱暴に掛け直し、父にソッポを向くように横になった。
「おい、まだ話は終わってないぞ!」
父は隣部屋で寝ている一夫と敦子が起きないように、小声だがさっきより語気を強めてそう言った。
直子は返事をせずに、父に背中を向けたままだった。
無言の時間がしばらく続いたあと、酔っていた父は着替えもせずに、直子の横で眠ってしまった。父の寝息を背中で感じながら、直子の瞳は少しの怖れを抱いて眠れなくなっていた。
あの日から父の酒の量は増え、あれだけ苦手だった博打も、漁師仲間に借金までして、麻雀、花札に興じるまでになっていた。徳三との漁にも二日酔いで穴を開けることもしばしばで、父の事を認めかけていた千代美の信頼も揺らぎ、良い関係性を築いていた一夫や敦子ともすっかり会話が無くなった。
直子とは最悪とは言わないまでも、睦まじかった以前と比べると、離婚直前の熟年夫婦みたいに冷め醒めとした仲になっていた。昇との事に答えが無いまま、父は直子に対して疑心暗鬼のまま生活はどんどん荒んでいった。
「茂さん、ほんまにどうしたんかねぇ?すっかり人が変わってしまって。」村の主婦達にも人気があった父の評判も日に日に悪くなっていった。
思うに父の人生は、妻方の家族に支配されていたという気がしてならない。
高知にいた時は祖父の執拗な干渉と、財力に支配されていたし、広島では入り婿状態で、徳三は優しかったが、千代美には嫌味を言われた事もあるし、昇には邪険にされ、一夫と敦子もどこか冷めていて、よそよそしかった。
父は広島でも尻の座りの悪さを声に出さずに過ごしていたのだった。
父の精神は限界に近かった。
1974年1月、底冷えがする寒い日に事件は起こった。
いつものように漁を終えた父は、昇のいる加工工場でしらすの釜茹で作業をしていた。
前の日の深酒が祟り、緩慢な動きの父に昇の容赦ない罵声が工場中に響く。
「おいっ!茂、とろとろすんなや!鈍臭いのお。」
腹は立ったが、二日酔いがひどく、言い返すと今にも吐瀉物が噴き出しそうだった。
その時、昇が茂の尻を蹴り上げた。「おいっ!はよせえって!」
昇のゴム長靴で蹴られた拍子に、腹に溜まった吐瀉物がすごい勢いで噴き出した。
父の口から吐かれた大量の吐瀉物は事もあろうに、しらすを茹でている釜の中に流入した。
「こらぁ!われ何しよんならぁ!大事なしらすの中にゲロしやがってぇ!」
一段と口汚ない言葉で罵った昇が今度は、茹で上がったしらすをほぐす時に使う大きなしゃもじで父の頭を殴った。
父の中で何かが切れた…
あくる日の漁村は、昨日よりも一層冷え込んだが、それ以上に凍りついた事件に静まり返っていた。
そのニュースは瞬く間に全国のトップで報道された。
『広島ののどかな漁村で起きた一家惨殺事件。犯人の男は首吊り自殺』
昇と直子の関係を疑い、ついには精神に異常をきたした父は、昇に頭を殴られた直後に、工場内にある出刃包丁で昇の首を切り殺害。そのあと直子の実家にいた家族をメッタ刺しにした上、自分も居間の大きな梁に着物の帯を掛けて、首を吊ったのだ。
父が高知を後にして、僅か一年後の悲劇だった。
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