第4話 夏の東京旅行(前半)
10時前に、減速する時のかすかな圧力を感じ、美香は休憩所に着いたことを両親に告げた。高速道に入ってからずっと一定の速度で走っていて、ここで初めて減速したから、いやでも気が付く。
サービスエリアに入ると手動運転に切り替え、空いている駐車スペースに車を入れた。
モーターが停止すると、美香はドアを開けた。スライドドアがかすかな音を立てて後方へ滑り、熱い空気が一気に流れ込んできた。
「うわあ、暑いねえ。」
「東京はもっと暑いよ。今日は30℃超えるって。」
母はつばの広い白い帽子を、父はベースボールキャップを被り、2人とも色の薄いサングラスをかけて、目を守った。
美香は数年前に流行った顔全体を覆うベールの付いた帽子を被り、並んで歩く両親の後に続いた。
サービスエリアは、駐車場のスペースは広いが、その他は簡素なものだった。
こじんまりした和風デザインの二階建てビルが一つと、燃料のスタンドがあるだけだ。充電施設の他にオイルの給油機がいつくか並んでいるのが見えた。
ビルの一階に母のお気に入りのチェーン店があったので、そこへ入り、大きめのゆったりとしたソファの席に陣取った。
外では暑いと言っていたのに、両親ともホットコーヒーを注文した。美香は少し考えて、ジェラートとホットコーヒーを頼んだ。
「ちょっとお化粧直してくる。」と母が立ちあがった。美香は一瞬、付いて行こうかと思ったが、後にしようと思いなおした。
「美香はいいのか。」と、その様子に気づいた父が言った。
「うん、二人で行っちゃったら、お父さん1人でぽつんとしちゃうでしょ。」
「別にかまわないよ。子供じゃないんだから。」
美香は微笑んで見せたが、そのまま座っていた。
店内はあまり客がいなかった。美香たちの他には、子供連れの家族と、1人で座っている男性だけで、静かだ。
子供はお行儀よく座っていて、時々甲高い声で笑ったりするが、うるさいというほどではない。
店員が注文したものを持ってきた時だけ、お待たせしましたという声が店内に響いた。
父はコーヒーをひと口飲み、反り返るようにしてソファにもたれかかった。
「こういう時に運転できないのは、つまらないね。」
父は過去に何度か事故を起こしているので保険料が高くなるし、高齢になって反射神経も衰えていた。だから癌で入院したのを契機に免許証を返納していた。
父が言った。
「向こうへ行ったら、仕事はどうするの。今と同じ仕事を探すの。」
「それなんだけど」
ちょうどジェラートをほおばったところだったので、口をもごもごさせながら美香は答えた。舌の上で溶ける冷たいベリー味の酸味を急いで味わってから、また言った。
「この際だから、前からやりたかった仕事を始めてみようと思って。
移住したら、どっちにしても新しい職場を探さなきゃいけないでしょ。先生を続けるとしても、新しい学校に応募して採用してもらわなきゃいけないんだから。
だったら、別の仕事を探したって、手間は同じじゃない。」
父は予想通り、困惑した時の硬い表情になっていた。
「探すだけだったらな。
問題は、探した後だろ。
やったことのない仕事を一から始めるのは大変だぞ。」
美香はここぞとばかりに説得に入った。
「あのね、まず順化ステーションにしばらく滞在するって言ってたでしょ。
そこにいる間に職業の準備ができるように、相談窓口があるって言うのよ。
就業支援センターだって。電話相談もあるんだって。
ホームページに書いてあるけど、移住惑星の職業データを全部照会してくれるし、職業専門の相談員もたくさんいるから、必ず希望の仕事が見つかるって。相談員を指名してもいいんだって。それ全部無料なんだよ。」
「相談員って、何だ。コンシェルジュみたいなものか。」
「ああ、そうだね。」と、美香は思わず声を弾ませた。うまいことを言うと思った。
「ホームページには相談員って書いてあるけど、要するにコンシェルジュだよね。その相談員に付いてもらって、訓練できる学校とか実習先とか紹介してもらって、未経験の仕事でもできるようになるんだって。」
「ふうん。」と父は娘のハイテンションに呆れたような目つきで言った。
「で、何の仕事をしたいのかな。」
「お花の栽培。」
父は一拍間を置いてから、言った。
「栽培ということは、農業やりたいってこと?」
「うん。」
お花と聞いて父の頭の中に批判的な思考が芽生えているのを感じたが、それも予測していたことだ。
美香は早口にならないように気をつけながら、説明した。
「農業や漁業は、直接環境に影響を与えるでしょう。だから宇宙連合の役所に登録して、お役所の指導を受けながらになるんだけど、登録するための資格などは特になくて、しかも農業未経験でもいいんだって。
ただ、登録しないといけない、つまり無断でやっちゃだめっていうだけなの。」
「うん。それはこっちでも同じだな。税金が違うから、農業用地でも他の用地でも…」
「むこうでは、税金のためじゃなくて、環境のバランスが崩れやすいから、細かい規則をたくさん作って環境保護しているみたい。
それでね、思ったんだけど、役所の指導を受けないといけないっていうことは、言いかえれば、経験がなくてもお役所に教えてもらいながらできるっていうことじゃない。」
言葉を切って父を伺うと、かすかにうなずいていた。
「ホームページ読むとね、普通の独立した農家だけじゃなくて、いろんな形の農業があるって。宇宙連合の農地に雇ってもらったり、協力農場になったり。」
「なるほど。」
父はそう言ってコーヒーカップを口に運び、ひと口飲んでから、続けた。
「うん。宇宙連合の、農業関係の、公務員、ということだよな。
それならいいんじゃないか。
最初から自立するのは厳しいだろうから、まずは公務員になって収入の保証を得て、何年か勉強させてもらうつもりで宮仕えをして、土地が買えるようになったら」
「土地は、むこうでは買えないのよ。」と、美香は父の話を遮った。
父は一瞬口をつぐみ、目のあたりに戸惑いを表した。
「ん、買えないって、どういう…」
「話していなかったっけ?環境に影響があるからだって。
移住惑星って、地球とは違う星を人工的に地球の気候に変えて作ってるでしょう。だから、放っておくと元に戻っちゃうんだって。ずっとメンテナンスしないといけないんだって。
その技術が地球人には扱うのが無理だから、宇宙連合がメンテナンスしないといけなくて。」
「メンテナンスって、星の環境を、か。」
「そう。ほら、北アメリカみたいになったら困るからじゃないかな。」
「ん、ああ、あの、地下水が枯れて…」
「そう、200年かけて溜まった地下水を数十年で使い切って砂漠化したんだよね。
地球人に自由に土地をいじらせると、そうなっちゃうでしょう。だから土地は地球人が勝手にいじれないように、土地の所有権は全部宇宙連合が持ってて、個人が所有することはできないの。」
「何だかちょっと前の中国みたいだな。」
「えっ、そうなの。」
「そうだよ。前の中国も土地は全部国有だったんだ。
だから当時は中国でビルを建てようと思ったら、旧政府に借地料を払って土地を借りたんだ。
宇宙では、いくらで借りられるんだ。高いのか。」
「借りるのはタダ。」
「タダ?」
「うん。あの、農業だけじゃなくて、全般に不動産の売買は出来ないけど、土地を使うのは無料なんだって。
家もそう。一定の水準までは無料なんだって。
工場用地とか農地も同じで、向こうが割り当ててくるので良ければ、借地料はかからないって。」
「ほんとか、そりゃ。ずいぶん良い話だけど、何か落とし穴があるんじゃないか。」
「落とし穴は、だから、土地を自由に選べないとか、自分の自由に使えないことよ。農地の中に家を建てられないとか、木や生け垣を勝手に切れないとか。
あと、地質や水質の立ち入り検査を受けないといけないとか、細かい規則がちょっとうるさいみたい。
だけど、あたしは素人だから、そのほうがかえって正しいやり方が分かって良いと思うんだ。」
「ふうん。」
少しの間、二人は黙っていた。美香はジェラートの周囲が溶けているのに気付いて、急いでまた食べ始めた。
「まあ、向こうへ行ってから決めても、いいんだろう。」
父がそう言った時、ちょうど母が父の背後にある狭い廊下から出てきた。そして座りながら、
「何を決めるの。」と訊ねた。
「向こうへ移住してからの仕事のこと。」と、美香は父の代わりに答えた。
「ああ、そうそう。あなた、日本の教員免許が向こうでも通用するかどうか問い合わせた方がいいわよ。」
「あたし、先生は続けないと思う。」
そう答えると、母は驚きをあらわにした。
「何言ってるの。辞めるって。」
母は何度も、本気なのか、と問い詰めた。
そして、教師のような良い職業を、しかも20年近くも経験を積んできて周囲からの評価も高いというのに、放棄してしまうのは馬鹿なことだと言った。
「20年も我慢したんだから、もういいでしょ。」と、美香は棘のある声で言った。
美香はもう教員などやりたくなかった。せっかく移住のために今の職場を退職できるのに、むこうでまた同じ仕事に就くなど、考えただけでゾッとする。
美香の勤める中学校は、ここ数年は穏やかだが、一時期は人間関係が最悪で、精神を病んで退職した先生がいるほどだった。美香は直接巻き込まれなかったが、傍らで見ているだけでもトラウマになるほど陰鬱な出来事だった。
今の学校だけではない。思えば、教員として働いた年月のほとんどが人間関係の悩みだった。何もなくて順調な時があったかどうか思い出せないほどだ。
教員どうしの小競り合いや確執が最も神経にこたえるが、生徒たちとの葛藤もやっかいだった。
個人レベルの問題だけではなく、日本の教育制度全体を見ても、将来を悲観することしかできなかった。
在職中に何度か流動的で風通しのよい教育現場を実現すると称して、改正が試みられた。同じ学校に勤める年数を短くしたり長くしたり、本人の希望に合わせて年数や異動先を決める規則にしたり、また元に戻したり、社会人を教員として採用する制度ができたり、小学校と中学校との間で異動する制度を導入したりなど、美香が教員になってからの約20年だけでもこれだけ色々な試みが行われた。
しかし、旧態依然とした授業形態が何も変わらないのでは、本質的な問題は無くならない。
ディベートを授業に取り入れるというたった一つのことさえ未だに実現されないでいる。
「移住したら、あたし、新しい生活を始めたい。教師って、今の日本の制度じゃ、良い仕事なんかできないから。」
「あなた、そんな逃げの発想でものごとを考えたらダメでしょう。」
母がそう言って諭したが、美香は「逃げ」という言葉への応酬をずっと前から用意していた。
「逃げ道が最低でも一つはある、という状態が、人間の自由の正体なんだよ。フランツ・カフカの小説でそういうのがあるんだよ。
それにね、逃げないで戦うって言うと聞こえはいいけど、ただ安全なものにしがみついてるだけじゃないかな。
チャレンジ精神が無いと早く老けちゃうって言うし、私も40過ぎたし、チャレンジするなら今が最後のチャンスだと思うんだ。」
母は煙に巻かれたという顔つきになり、黙った。父も、美香が何を言っているのか分からないようだった。
「あたし十分頑張ったんだからね。十分すぎるほど頑張ったよ。
でも、もう限界。
考えてみたら、先生って自分で好きで選んだ仕事じゃないのよね。
最初は周りに言われて先生になっても、やってるうちに天職になる人もいるけど、あたしは今でも、教えることが心の底から好きかな、って考えると、違うんだ。
あたし離婚したけど、そっちのほうは何も後悔してないの。結婚したのも後悔していないし、離婚したのも後悔してない。あの人を選んだのは自分だし、離れたのも、全部自分で決めたことだったから。
でも教職は、いつまで経っても自分のものじゃないような感じがするの。」
美香は一息つき、ぬるくなったコーヒーをひと口飲んでから、続けた。
「どっちみち、移民先って外国のようなものでしょ。日本とは社会制度も法律も慣習も違っているはずだから、そこで今まで通りの生活を続けようとするほうが無理じゃないかな。
だったら、考え方を変えて、これをチャンスにして生活全体をがらりと変えるほうが前向きなんじゃないかと思って。」
それ以上言うことはなかったので、美香は立ちあがり、自分も化粧室へ行った。
化粧室の鏡の前に立ったが、自分の顔など見ていなかった。頭の中は今しがたの会話のことを目まぐるしく思い返していた。
父は理解はできなくても止めはしない。もともと、他人に対して支配しようとしたり、自分の都合の良いように操作しようという傾向が皆無の人なので、こちらが意思をはっきり示せば、それ以上は言って来ない。
しかし、母はしばらくはうるさいだろう。
美香が化粧室から戻ると、誰からともなく席を立ち、店を出ることになった。
再び高速道路に出て、一定の速度で走り始めると、美香は目を閉じて、うたた寝をするふりをした。
駐車場から出る時にシートを前へ向けて手動運転したので、そのまま前を向いていようかとも思ったが、それをやってしまうと意地になっているかのような誤解を与えると思ったので、何事も無かったかのようにシートを後ろ向きに戻し、さっきと同じように両親と向かい合いになっていた。
だが、東京に近付くにつれ、気まずいのは自分ひとりなのかもしれない、と美香は思い始めた。
両親のほうは2人とも淡々としていた。楽しそうにおやつを食べたり、窓の外を見たり、雑談をしていた。心の中では、あとで説教や説得をしようと思っているのかもしれないが、少なくとも今は棚上げにするつもりらしい。
それを見ていると、自分もあまり性急に騒がずに、淡々としていた方がいいかもしれない、と思った。
言うべき事を全て言ったからといって、今すぐここで両親に了解してもらおうというのが無理なのだ。
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