お弔いと最期のごはん
陽介がパンパンと二度手を打った。その瞬間、ずんっと空気が重たくなる。灯篭の蝋燭の灯りが風もないのに火の勢いを増した。
ボコッ……ボコッ……と奇妙な音がしたかと思うと、石の周りから次々と白い何かが飛び出してきた。ここへ来たときに陽介が指さした場所と同じところ。その指摘通りに細い女の腕、足が姿を見せた。ボココッ……とひときわ大きな音がして、青白い女の顔が見えたときには、さすがの華子も顔がこわばった。
だずげで……と女はすすり泣いていた。陽介の言うとおり、喉が潰れて声枯れしている。その女がゆっくりとこちらを見て、腕を伸ばした。丸まった細い指をカクカクとぎこちなく動かして、必死に上半身を起こす。
おねがい……ごのごに……
女が見ているのは岡安だった。隣に座る岡安を盗み見る。血の気のない顔は引きつっていた。全身をガタガタと震わせて、身を引くように背をのけぞらせる。そんな岡安と女の間に割り入るように立ち位置を少しずらした陽介が「じんさんがね」と女の霊に声を掛けた。
「あなたの食べたかった物を用意してくれましたよ。さあ、冷めないうちに召し上がれ」
と、陽介は祭壇を示した。女は大きなお腹を地面にズルズルこすり付けるように、こちらへ這いずってきた。祭壇の脚を掴んで、ゆっくりと立ち上がる。
蝋燭のわずかな光に浮かび上がる女の裸体。骨と皮ばかりの細い体はしかし、お腹だけがポッコリととんがるように出っ張っている。まるで地獄の餓鬼だ。
そう言えば、夜泣き石伝説のお石も、貧しさゆえに食べるものがなく、家財の日本刀を質に入れるために出掛けた先で非業の死を遂げたのではなかったか。
まさか――と華子は今、フッと浮かび上がった考えに驚愕した。身重だった女がここで殺され、石に取り憑いたのか。そうなると、殺したのは一体誰になる? 伝説のように盗人だったのか。
華子はハッとした。女が見ていたのは岡安だ。彼は結婚して、六月に生まれたばかりの子供がひとり。明るい性格で、外見も悪くない。酒好きで、華子も何度か飲みに誘われたことがある。女慣れした感じが嫌ですべて断ったが、妻以外に女がいてもおかしくはない。それに陽介は霊に『じんさんが用意した』と話しかけていた。岡安の名前は『仁平』――
華子は陽介を見た。彼はやんわりとした笑みを浮かべて、動向を見守っている。
彼女がスプーンを手に取り、一口すする。おいじい……とかすれた声が漏れる。また一口運ぶ。繰り返していくうちに、体を覆う黒い瘴気が小さな泡のような明るい光の玉に変わっていった。骨と皮ばかりだった体は徐々に生気を取り戻し、生前の姿に近づいていく。
しあわせ……と透き通ったきれいな声で彼女はつぶやいた。やせこけた頬がふっくらして、赤みが差す。長い黒髪の下から、キレイなアーモンド型の目が見えた。
どこかで見た顔だと、華子の脳裏に、茶屋に貼られた行方不明者の女性の顔が重なったときだ。
「やめろおおおおおっ」
という叫び声がして、華子は反射的に隣を見た。岡安が勢いよく立ち上がり、陽介に掴みかかろうと腕を伸ばした。
華子は咄嗟に岡安の襟をつかむと、そのまま地面に引き倒す。すぐさま立ち上がろうとする彼の腕を取り、十字固めを決める。
「離せ、このクソアマッ! なんなんだ、これはっ! 俺を嵌めやがって!」
両眉を吊り上げ、般若のごとき面になった岡安が喚く。
「嵌めたもなにも、ここに来るように言ったのはあなた自身じゃないですか」
華子は決して力を緩めず、さらに締め上げつつ冷静に答えた。
「うるっさい! 離せって!」
悲鳴を上げながらも、岡安は必死に抵抗をつづけた。骨折することも厭わない――そんな勢いで立ち上がろうとする。
「やめなさい」
という低く鋭い声が飛んだ。岡安がびくっと大きく震え、体をこわばらせる。声の主は室長の磯川だった。彼は岡安をきつく睨み据えながら続けた。
「いいかね、岡安君。今は死者を常世へ送る大切な時間で、きみの個人的な事情は一切関係ないんだよ。なあ、陽介君」
「はい。彼女、松浦郁美さんのお弔いです。死者が最期に口にしたいものを差し上げる場です。彼女はお母さんがよく作ってくれた『いも汁』がいいと言いました。なんせ自然薯は古くから漢方薬としても用いられていましたし、滋養強壮をはじめ疲労回復、虚弱体質の改善、食欲増進や免疫力を高める働きがあるとされています。さらに鯖、味噌、卵が入りますからね。栄養のあるものとしてはうってつけです」
「だが、彼女が行方不明になったのは半年も前だろう? なぜ今頃、出て来たんだね?」
華子も磯川と同じ疑問を持っていた。茶屋で見た松浦郁美のポスターには半年前の五月が失踪時期として明記されていた。失踪直後ならわかるが、半年も経過したのはなんだったのか。
「半年前はまだ大丈夫だったんです。お腹も小さく、身を削ればよかったんで。さっき見たでしょう? 骨と皮ばかりになった姿を。でも、それもいよいよ限界になった。焦った彼女は助けを呼ぶために土の中から出てきたんです。そんな彼女の思いに、お石さんが力を貸したのもありますけどね」
陽介は松浦郁美を寂しそうに見た。彼女はしあわせそうに大きなお腹をさすっている。その姿を見た岡安の体から力が抜けた。華子はそっと腕を離した。彼は食い入るように彼女を見つめている。
「美味しかったですか?」
陽介は穏やかな声で郁美に尋ねた。
「ええ、とても。これで食べられないのが残念なくらい」
「迷わずに……逝けますね?」
「はい」
「どうぞお達者で」
「本当にありがとうございました」
彼女はぺこりと頭を下げた。郁美の体の輪郭がゆらゆらと揺らぎ始める。足元から徐々に消え始めていた。ゆっくりと岡安を見た彼女はポスターと同じ、いや、それ以上の笑顔を向けた。
「バイバイ、じんさん」
彼女がそう言って小さく手を振った直後、金色の光が彼女を突き破るようにあふれ出た。あまりの眩しさに華子は目を瞑る。
しばらくしてパンパンと二拍する音が聞こえた。華子が再び目を開けたときにはもう、郁美の姿はどこにもなかった。ただ暗闇の中で蝋燭の灯りだけが小さく光っている。
「これにてお弔いは終了です。もう怪異も出ないでしょうし、帰るとしましょうか」
陽介が空になった盆を手にし、磯川が祭壇を、華子がパイプ椅子を折り畳む。岡安だけはその場にへたり込んだまま動かなかった。
「なんで……なんで警察に突き出さないんだよ」
岡安の力ない声に、陽介は足を止めた。信じられないという顔だ。陽介は小首を傾げた。
「おまえは俺がどうやって郁美を殺したのか、遺体がどこに埋めてあるのか、全部わかってんだろう!」
陽介は「ああ」とつぶやくときっぱりと言った。
「ぼくの仕事じゃないですから」
「え?」
「対策室から依頼されたのは怪異の捜査と苦情原因の排除です。殺人の特定や遺体の捜索は依頼されてません。だから、誰が彼女を殺し、ここへ埋めたか、ぼくにはまったく関係のない話です。ぼくは今回、たまたま行方不明者を見つけて、たまたま死因が視えてしまっただけです。亡くなった方も生き返りませんしね」
陽介は言葉を切って、岡安を見つめた。その瞳には憐憫の色が滲んでいる。
「だから犯した罪をどうするか、決めるのは他の誰でもなく、岡安さん、あなた自身ですよ」
そう言い切って、陽介はくるりと背を向けた。トットットッと軽やかに階段を下りていく。唖然としたままの岡安の肩を磯川がぽんっと叩いた。
「室長……」
「彼女、いい笑顔だったじゃないか」
磯川の言葉を聞いた途端、岡安は堰を切るように泣き出した。その場に伏してオイオイと声を上げて泣く。その声が嗚咽に変わる頃、彼はかすれた声で告げた。
「自首します。あとをお願いします」
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