掛川いも汁
一時間後の六時過ぎ。陽介に言われたものを揃えて戻ってきた華子は、茶屋にいる人たちの顔つきが一変したのを目の当たりにして苦笑した。初めて訪れたときには弟を奇異な目で見ていたのに、今はとろんと顔をとろけさせている。
それもそのはずだ。長いもじゃもじゃの頭髪がスッキリと一つに束ねられ、その下に隠されていた素顔が露になっているのだから。眉目秀麗を絵に描いた美青年である弟を前にして、骨抜きにならなかった人間を華子はこれまで見たことがない。それは相手が霊でも同じこと。この美貌に釣られて寄って来る。妙な格好をしているのは生きている人間だけの対策ではない。
「これでいい?」
と華子が差し出したものを受け取った彼は、「ありがとう」と神々しい笑顔を湛えた。途端、周りから甘いため息が漏れる。
「では、岡安さん。手伝ってもらっていいですか?」
陽介は袂から出した白たすき紐で、袖をスイスイ、くるりとまとめながら茶屋の入り口でぼんやりと突っ立っている岡安に声を掛けた。
「これはユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属。別名・自然薯です。今からこれを擦ってもらいます」
「なんで俺がそんなこと……」
「岡安さん以外の適任者がどこにいるんです?」
途端に岡安は苦い顔になった。きつく陽介を睨みながら、差し出されたすり鉢とおろし金、自然薯を受け取った。
「皮を剥いてないぞ」
「皮が薄くて、そのまま食べられるのが醍醐味なんで大丈夫ですよ」
岡安は訝りつつ皮ごとごりごりと自然薯を擦る。ねっとりとしたいもがすり鉢の底にみるみる溜まっている。
その間、陽介は雪平鍋に湯を沸かした。華子が持って帰ってきたエコバッグから缶詰を取り出す。
「鯖の水煮缶? これ、どうするつもり?」
華子が尋ねても陽介は「まあまあ」と言って、別のすり鉢に缶詰の中身をごっそり空けて、ゴリゴリと身をつぶす。この鯖の身がなにに使われるのか、普段から料理をしない華子にはさっぱり予想がつかない。つみれ団子はイワシの身だったはずだが――
陽介はそんな姉にニコニコと笑みを返しながら、沸騰した湯へ充分にすりつぶされた鯖の身をこしながら入れていく。次に味噌を取り出し、濃い目に溶く。
溶き終わるころ、岡安がすり終わったいもを持ってやってきた。陽介は丁寧に頭を下げると 擦ったいもの中へ卵をひとつ落とした。手際よく混ぜ合わせる。きれいに卵と混ざったいもに、今度はさっき作った鯖だしの味噌汁をとろとろと入れた。入れながら、ごりん、ごりんとすりこぎ棒をリズミカルに動かす。職人のごとき手さばきに、周りにいる誰もが思わず「ほうっ」と感嘆の吐息をもらした。
陽介は上機嫌に鼻歌を歌った。ねっとりと重たかったいもが味噌汁と混ざって滑らかになり、神々しい黄金の光を放つ。
「とろろ汁?」
「ええ。掛川山間部で十一月から三月まで収穫される特産の自然薯に鯖だし、味噌汁と混ぜ合わせたこの地域の郷土料理で、究極のいも汁と言われているんですよ」
「死者が望んだ最後の食事がこれだったの?」
「ええ。今回、栄養価の高いものが食べたいそうで。喉がつぶれているから飲み込みやすいものを……」
岡安が肩をびくっと震わせた。陽介は人好きのする笑顔を浮かべ、彼の所持品であるトランクを開けた。桐の小箱を取り出す。蓋を開けて丁寧に取り出したものは、深みのある茶褐色の器だった。
「これは志戸呂焼きのお茶碗です。ぼくの行うお弔いには、亡くなった方と縁の深い土地の物……出身が静岡なら静岡県の伝統工芸品を使うんです」
お茶碗を見た女性が土鍋を持ってくる。「ありがとうございます」と陽介が軽やかに笑むと、女性は顔を真っ赤にさせた。その後、一切顔を上げなかった。
「おかみさんにお米を炊いていただきました」
陽介がゆっくりと土鍋の蓋を開ける。ふわんっと白い煙が立ち上って、甘く花のような香りが華子の鼻孔をくすぐった。煙の下から白く輝くお米が姿を見せる。艶やかで、煌めいた米が一粒、一粒しっかりと存在を主張している。
陽介はお米を十字に切って、四分の一ずつひっくり返しすと、きつね色のおこげが姿を見せた。優しく混ぜていき、茶碗によそう。いも汁をそっとかけ、漆塗りの木製スプーンと共に盆へのせた。
「では、上へ参りましょう」
と、盆を持って茶屋を出る。岡安と華子もそのあとに続く。
すっかり暗くなって寒さが一層身に染みる中、階段を上がっていくと、石の前の灯篭に蠟燭が灯っていた。簡素な祭壇とパイプ椅子が三つ置いてある。そのひとつに襟を立てた黒コート姿の中肉中背の年配らしい男が座っているのを見て、岡安と華子は息を呑んだ。
「磯川室長!」
磯川がゆっくりと振り返って「よお」と手を挙げた。
「室長がこれを?」
「まあな。金田一君の頼みだからねえ。あれ? どうした、岡安君。顔色が悪いぞ」
「い……いえ」
岡安がぎこちなく笑う。陽介はそんな岡安を一瞥すると、静かにお盆を祭壇に置いた。岡安と華子に椅子に腰かけるように促す。二人が座るのを見届けると、陽介は石に向き合った。
「これよりお弔いを始めます」
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