02 のこちゃんの平日


「人の世は、はかなさとしがらみで出来ているが、悪い事ばかりじゃないね………」



その男、のこちゃんの伯父おじに当たる 剣持けんもち昭三しょうぞう は、ひとごとのようにつぶやいた。


初めて会った伯父おじさんは見上げる様な長身ちょうしんで、長年ながねん陽に焼けたのであろう褐色かっしょくの肌に、広い肩と分厚ぶあつい胸の上半身に加え、ガッシリ安定した下半身とで形作かたちづくられていた。


若い色のスーツをゆったりと身に着けているものの、そこには、かくしきれない肉体的な迫力はくりょくがある。


お父さんが生きていれば40代とあって、としはなれたその兄にしては、中年ちゅうねんいたっていない壮年そうねんの様であり、何気ないその身のこなしに青年せいねん機敏きびんさもあわせ持つという、そんな年齢ねんれい不詳ふしょうさも強さを感じさせるのだろう。


まぁ、のこちゃんから見れば、おっさんはおっさんなのだが。


それは、ぼんやりとおぼえているお父さんの姿や、その周囲しゅういの大人たちとくらべると異質いしついかつさである。


ただ、鉄骨を思わせる強面こわもてにも係わらず、自然な表情とたたずまいであり、特ににこやかにしている訳でもないのに何故かのこちゃんには怖さのない不思議ふしぎな人物でもあった。


のこちゃんは、事情じじょうをよく飲み込めないまま祖父から話を聞いた次のお休みの日に、都内で伯父おじさんと会う事にした。


お父さんのお葬式そうしき以来いらい、お父さんがわ親戚しんせきとは今日まで疎遠そえんであったのだが、だからこそ興味きょうみがわいたのかも知れない。


のこちゃんと伯父おじさんは、待ち合わせをしたターミナル駅近くの所謂いわゆるファミレスのテーブルで、おたがいに少し緊張きんちょうしつつも向かい合っていた。



要駅ようえき最寄もよりの店舗てんぽとあって内部の間取まどりは十分に広く、まだお昼近くな事もあり家族連れのお客さんがそれなりに入っていても、席の余裕よゆうが見て取れる。


それにも係わらず、伯父おじさんは窓が近くて明るい席をけ、やや奥まった禁煙席きんえんせきを選んだ。


流石さすがに初対面の大人と二人きりだと、いくら親族でも窮屈きゅうくつな感じになってしまって、のこちゃんにはつらい。


それには伯父おじさんも自覚があるようで、席に座ると同時にごめんねとのこちゃんにあやまった。


「海外が長くてね、見通しの良い窓際まどぎわは、何か落ち着かないんだよ……」


よく分からなかったが、そんなものかと、のこちゃんは思う。


それと同時に、窓の近くですらダメとなれば、オープンテラスのカフェとかだとえられないのでは?と余計よけいな事を考えてしまい、目の前のいかつい伯父おじさんがひーと逃げ出す姿を想像してつい笑いそうになる。


ドリンクバーでもらってきたメロンソーダを飲んで、吹き出しそうにゆがんだ口元をごまかすのこちゃんだった。


伯父おじさんは、そんなしょうもない内部事情ないぶじじょうを知ってか知らずか、のこちゃんへ優しく話しかける。


「……10年くらいか…日本にいなくてね、弟の事を知ったのはつい最近なんだ」


「はあ……」


「君が大変だった時に、力を貸せなかったのがどうしても残念でね、その、お母さんがわとの約束は分かっているんだが」


「まぁ……」


「口出しとかじゃなくて、一度、会ってみたくてても立ってもいられなかったんだよ」


のこちゃんが見る限り、伯父おじさんの言葉にうそは無い様だった。


「……そうでしたか」


ただ、のこちゃんとしては、気遣きづかわれている事が分かっても、初めて会った伯父おじさんに何とこたえて良いか分からず、ぼんやりとした相づちをうつしか無いのだが。


「お、伯父おじさんは、海外で10年も何をしてたんですか?」


我ながらうなずいてばかりなのも如何いかがなものかと、のこちゃんも当たりさわりのない話題をひねり出してみる。


「そうだなぁ、ボスの言いなりで世界中を飛び回っていたら、あっと言う間だったねぇ」


うわやっぱりギャング的なそれなのか流石さすが兄弟だな!などと、若干じゃっかん失礼な感想を脊髄反射せきずいはんしゃいだいたのこちゃんであったのだが……


「日本で言う、警備員ガードマンみたいなものだね。色々な国へ行ったよ」


続けて、にこやかに語る伯父おじさんの言葉で、大いに反省するのこちゃんであった。


見た目がいかつくても、たぶん良い人なのだろう。


それでねと、伯父おじさんは、新しい職場しょくばが日本に決まったから、しばらく日本に腰をえて仕事をするむねを続けて明るく語った。



「学校は楽しいかい?」


「え?あ、はい、友達もいますし…ので」


「そうか……」


伯父おじさんは、少し考える様に間をおいてから、居住いずまいを正し、のこちゃんの目を見て再び話し始めた。


「弟がどういった世界にいて、それが原因でおさない君を残してってしまった事は重々じゅうじゅう分かっているつもりだ」


「……はい」


「それでもだ。

君が君自身の意志で剣持けんもちの名前を、弟をてないでいてくれて、私もうれしい」


「そんなつもりは……お父さんの事、嫌いじゃないですし」


事実、お母さんがくなって以来いらい、お父さんが毎日ご飯を作って、一緒いっしょに小さな食卓しょくたくかこんでいたころの感覚は、今でも楽しい思い出としてのこちゃんの中にあり続けている。


のこちゃんにとってのお父さんは、それが全部ぜんぶなのだ。


まわりの大人はともかく、素朴そぼくに、やくざ者だった云々うんぬんの話をのこちゃん自身が気にした事は無かった。


「勝手な物言ものいいとも分かっている。ただ、その気持ちに私もあれの兄として何かこたえたいんだよ」


のこちゃんが鉄骨を思わせる強面こわもてひょうした顔を少し悲しげにゆるませると、伯父おじさんは、のこちゃんに対してぺこりと頭を下げた。


「本当に何か困った事があれば、必ず私に相談して欲しい。

伯父おじとして、何処どこにいてもきっと駆けつけて君の力になってみせるよ、とら!」


「あの、できれば、"のこ"と呼んでください」


「あっ、そうなんだ………そうか、すまないっ」


中二女子の複雑な心境しんきょう垣間見かいまみ伯父おじさんであった。



――――――――――――――――



「そんで、その伯父おじさんとは、どっか遊びに行ったりしたのか?」


「ううん。ファミレスで少し世間話してから帰ったよ。

新しい仕事関係で、挨拶あいさつまわりがあったみたいだし」


「へー、そうなんだ」


休日明けのお昼休み、学校の屋上で宿福すくねくだんの遊びに行く話しをするついでに、伯父おじさんとの初顔合わせについて、突然でおどろいた心情しんじょうまじえつつ報告するのこちゃんである。


「飛び石になっちまったけど、のこのゴールデンウィークは、なかなか刺激的しげきてきなスタートになったな」


けらけらと笑いながら宿福すくね茶化ちゃかすと、正直な所ポッと現れた親戚しんせきであるし、伯父おじさんとか言われてもいまだにピンと来てもいないので、のこちゃんとしては、まあねぇとかわいた笑いで流すしかないのだが。



そうこうしている内に、行楽こうらく提案者ていあんしゃである愛茅まなちが合流してきた。


2年生になって三人ともクラスが違ってしまったので、一寸ちょっとしたおしゃべりがしたくても、こうして待ち合わせなければならないのは面倒めんどうな話である。


「やぁ、おまたせ」


「あっ、まなっちゃん!」


「言い出しっぺがおせぇじゃないかよ、まなち」


「いやぁ、悪い悪い、すくねちゃんご指名しめいのひなちゃんを引っ張ってきたんだよ」


そう言うと、愛茅まなちはすっと体を横にずらし、自分の背中に隠れる様な挙動きょどうをしていた 宇須うす陽菜ひな宿福すくねとのこちゃんに見せた。


不意に二人へ自身の姿をさらされた陽菜ひなは、一瞬固まる仕草を見せた後で愛茅まなちに背を押され、おっとっととバランスをくずし気味に前へ出た形となった。


「ああ、ひどいよ、まなちゃん」


「いやいや、何をそんなに警戒けいかいするのかとね」


ひかえめな性格を象徴しょうちょうする様に、小さな声で愛茅まなち非難ひなんする陽菜ひなである。


陽菜ひなは、まゆが細く切れ長な目と、輪郭りんかくがすっきりととのった顔の持ち主であり、なかなかの美形とのこちゃんは思う。


身長はのこちゃんより高めで全体的にやせ形でもあり、ともすればほっそり系美少女と認識にんしきされてもおかしくないものの、そのおとなしさの所為せいか学校内でまったく目立っていない。


サラサラとしたくせのない黒い髪は肩胛骨けんこうこつ程度ていどにまでばしていて、普段から頭の後にゴムやシュシュでまとめている。


たまに眼鏡姿めがねすがた披露ひろうするのだが、愛茅まなちの情報にれば伊達だてらしい。


「け、剣持けんもちさん、大賀美おおがみさん……コンニチワ」


「何か、かたいんだよなぁ、ひなちゃんは」


愛茅まなち苦笑くしょうしていると、宿福すくねがニンマリとした悪い笑顔で身を乗り出す。


「おー、うす、こうやって顔つき合わせんの久しぶりだなっ」


「ひぃ、ヒサシブリナノカナ」


「本当、二年生になってから全然ぜんぜん会えなかったんじゃない?、陽菜ひなちゃんっ」


「ソウダッタカシラ」


「最近、何かあたしらの事、けてただろ~」


「サケテマセンヨ」


「まなっちゃん、陽菜ひなちゃんの様子がおかしいよ」


「ありゃあ、確かにひなちゃんこわれているなぁ」


「コワレテナイヨ」


こわれているかどうかはかく、屋上の片隅かたすみに呼び出されてかこまれているか弱い少女の図に相応ふさわしく、どうやら変な緊張きんちょうをしているらしい陽菜ひなである。


「そう言えば、陽菜ひなちゃん、まなっちゃんと一緒じゃないとあまりしゃべらないから、話すの苦手なのかも」


「ソウカモ」


「へー、そうだったのか」


「ん?でもひなちゃん文系が得意とくいだから、よくクラスの友達から分からない所を質問されたりすると、流暢りゅうちょうに分かりやす解説かいせつしているのだけどなぁ。

横で聞いていて感心するくらいだよ」


「ああ、まなちゃん、せっかく丸くおさまりそうだったのに……」


一瞬、のこちゃんの提唱ていしょうした仮説かせつを信じそうになった宿福すくねの顔が引きつる。


「うす、おまえ…」


「まぁ、宿福すくねちゃんはヤンキーじゃないけど、男兄弟の中で育ったから中身が男の子みたいで、陽菜ひなちゃんレベルのザ・女の子からするとキンチョーするのかもね!」


すわと宿福すくねが、眼光がんこうするどくのこちゃんに向き直る。


どうやら、のこちゃんは、宿福すくね地雷じらいを思い切りいたらしい。


「おー、うすの前に、まずシメなきゃならないヤツがここにいたか」


うっすら笑っている様で目がまったく笑っていない宿福すくねがジリジリと距離きょりめれば、それに合わせてのこちゃんもジリジリ後へと下がる。


「あっ、今のはケアブレイキングドーンの宿敵しゅくてき、ドゥームチャムケアっぽかった!」


「だから、見てねぇっつってんだろ!しかも、それ悪役じゃねーかっ」


「知ってんじゃんっっ」


のこちゃんが宿福すくねに追いかけられて屋上を走り回っている様子を見ながら、愛茅まなちが再び苦笑にがわらいしていると、陽菜ひながポツリとつぶやく。


「だけど、緊張きんちょうするのは本当なのよね」


「そうなのかい?」


愛茅まなちが続きをうながすと、陽菜ひなは、少し間を置いてから話し始めた。


「………わたしと剣持けんもちさん、小学校が同じなの知っているでしょ?」


「ん、前に聞いたね」


剣持けんもちさんが転校してきてしばらくすると、くなったお父さんがらみでうわさが広がってね……」


「ああ」


「今考えると本当にばからしいのだけれど、本人も危ないヤツだって、誰も積極的せっきょくてき剣持けんもちさんへ近づこうとしなかった」


「実は、ただのチャムケア好きなのにね」


愛茅まなちの軽い冗談じょうだんにふふふと少し笑った後、陽菜ひなは目をまゆをひそめた。


「当時のわたしは、そのうわさに乗ってしまったのよ」


「………」


なさけないやらずかしいやらで、こういうのも黒歴史くろれきしっていうのかしらね……

剣持けんもちさんの前に立つと、どうしてもあのころの自分を思い出してしまう」


だから彼女が苦手と言うよりも私自身の問題ねと陽菜ひなが話をめくくると、愛茅まなちも小さくいきき出した。


「ひなちゃんは大人だね」


陽菜ひなが本当に苦手とするならば無理をさせられない上に、のこちゃんと宿福すくねとも仲が良い愛茅まなちにとっては、あまり軽い話でもなくなる。


それもどうやら杞憂きゆうに終わったので、ホッとしたのだ。


「まぁ、のこちゃんには、気をつかわせちゃった様だけどね」


「やっぱりそうなのかな?」


「そりゃあ、すくねちゃんの気にしている事なんて、熟知じゅくちしてるだろうしさ」


「ふむむ」


ああそうだと愛茅まなちが思い出した様に陽菜ひな提案ていあんする。


「そういえば、春のチャムケア映画に行きたがっていたから、付き合ってあげたらどうかな」


「チャムケアかぁ………私も"ローリンゲット!チャムケア"辺りで見なくなっちゃったから」


「かなり、最近のタイトルな気がするのだけど?」


「主人公が鳥社とりやしろひなっていってね、同じ名前だから一寸ちょっと気になって?」


「いや、知らないよ」


愛茅まなちがのこちゃんと宿福すくねの方へ視線を戻すと、まだおいかけっこは続いていた。



ちなみに、ケアブレイキングドーンとドゥームチャムケアとは、宿福すくね視聴しちょうしていたという『スマッシュチャムケア!』の翌年に放送された『ハードチャレンジ!チャムケア』に登場するキャラクターだ。


なので、のこちゃんは、見ていないと言いつつ宿福すくねも多少気にしていたなとんでいる。


「やはり、宿福すくねちゃんのチャムケア復帰のみゃくは、あり得ない話ではない?!」


せまり来る宿福すくね魔手ましゅをかわしながら、そんな事を考えていたのこちゃんである。


つかまったら、髪をぐしゃぐしゃにされるに違いない。



――――――――――――――――



のこちゃんの通う中学校は地元の公立で、家からも遠からず近からずな場所にある。


急な傾斜けいしゃなどの無い土地であり、通学には、舗装ほそうされた平板へいばんな道を行くだけで、これといった困難こんなんさも無い。


生徒たちの着用する制服せいふくは男女とも濃紺のうこんのブレザースタイルで、いかにもな公立の凡庸ぼんような中学生像を体現たいげんして見せていた。


凡庸ぼんようさで言えば、元よりおのれのそれを自覚しているのこちゃんが埋没まいぼつするには、もってこいの環境かんきょうなのかも知れない。


もちろん、率先そっせんして、埋没まいぼつするつもりはない。


ただ、のこちゃんとしては、埋没まいぼつしていようといまいと、それなりの成績をキープして家族を安心させつつ、チャムケアを堪能たんのうして楽しく生活さえ出来ればそれで良いのだ。



朝は、少し早めに起床きしょうして体力作りのランニングをこなした後、学校へ行く前に祖母の手伝いで朝食の支度したくに参加するのがのこちゃんの日課である。


とは言え、日曜日の朝と同様に食器を並べたり使用した食器を洗ったりするのがお手伝いの中心で、料理そのものには祖父母やきょう姉さんから祖母にまかせてはどうかと一度ならず言われてから参加をしていない。


お手伝いを始めた当初とうしょは料理もたくさん手伝っていたし、祖母も色々と手ほどきをしてくれたはずなので、ふと疑問ぎもんに思ってたまに自分で作った物を食してみるのだが特にマズい訳でもない。


機会のあるたび、のこちゃんの方から料理を手伝うともうても、眉毛を八の字にした祖母に問題ないとやんわりことわられるのも引っかかる。


実に不可解ふかかいなものの、家事に関して祖母が手練てだれである事は間違まちがいないので、もう深く考えるのを止めてしまっていた。


毎日、美味おいしい食事にありつけるのだから、確かにのこちゃんには何も問題ない。


そう言えば、生まれてこの方、食事をまずいと感じた事もないので、われながら大したごはん運ではないか?とのこちゃんは思う。


この先も、是非ぜひそうあって欲しいものだ。



食卓しょくたくの準備が整うと、のこちゃんは祖父母と共に自分の席へと着く。


きょう姉さんは、早番はやばんの人が急に来られなくなったとかで、すで出勤しゅっきんしてしまった。


職場しょくばからたよられているのだなと、のこちゃんは、趣味しゅみ邁進まいしんしつつ仕事でも活躍かつやくするきょう姉さんに尊敬そんけいねんきんない。


それはともかく、祖母の作る料理は何でも好きなものの、何気ない朝食のベーコンエッグが特にお気に入りである。


世間せけんでは、カリカリに焼いたベーコンを至上しじょうとする風潮ふうちょうが強いと聞く。


しかし、祖母の焼くベーコンはジューシーで焼き肉の様な仕上がりにも係わらず、油のしつこさも無いのだ。


げ目のない黄身がトロリとした素朴そぼくな目玉焼きに合わせると、これこそが奇跡きせきのマリアージュであるとのこちゃんは確信かくしんしている。


あれマリアージュってどういう意味だっけ?などと思いつつも、のこちゃんが好きな事を知っている祖母が毎朝作ってくれるベーコンエッグを、今朝もうれしそうにほおばるのであった。


「本当に、美味おいしそうに食べるよなぁ」


祖父が、のこちゃんの様子を微笑ほほえましく見ながらつぶやく。


「ええ、そこまでよろこんでもらえると、作り甲斐がいもあるわ」


そう続ける祖母も、うれしそうな顔をしている。


のこちゃんは、もぐもぐと咀嚼そしゃくしながら、祖父母の言に満面の笑顔で返すのみである。


美味おいしいものを美味おいしくいただく事こそが、最大の讃辞さんじ心得こころえているのだ。


「のこちゃんがうちに来てから、もう7年…か。

中学二年生とは、早いものだねぇ」


祖父の言葉に、祖母もうなずいている。


つられて、のこちゃんも口をもぐもぐさせながら当時の事を思い出す。



のこちゃんが佐橋さはしいえに引き取られて、こちらの小学校に転校したのは一年生の梅雨つゆの時期であった。


あのころは、しとしととそぼる雨の中を、毎日一人でえっちらおっちら下校していた印象が強い。


どこで知られたのか、転校してしばらくは亡くなったお父さんのやくざ者のうわさに同級生から距離きょりを置かれてしまい、お友だちができなかったのである。


もっとも、おとうさんに悪い思い出の無いのこちゃん自身が、特にかくそうともしていなかったのだが。


そもそも、家族の職種しょくしゅやその仕事内容にくわしい子供が、のこちゃんのまわりにはあまりいなかった事もあるだろう。


どこそこで働いているらしいなど漠然ばくぜんとした認識にんしきとどまり、その先は特別気にならないという、のこちゃんもそんな子供たちの一人だったに過ぎないのだ。


どんな出自しゅつじ肩書かたがきがあろうとも、子供の見ている世界では、親は親である。


「ごはんをいっぱい食べて、大きくなったわよねぇ・・・」


しかし、そんなにこやかに見守り続けてくれる祖父母には心配をかけそうなので、当時から子供心にも決してぼっちをさとられまいと思っていたのこちゃんだった。


良いめぐわせもあり現在では、宿福すくね愛茅まなち陽菜ひなといった友だちも増えて、そんな気負きおいも無くなった。


これ以上は、毎日美味おいしいごはんも食べられているとなれば、チャムケア以外の何を求めるというのだろう。



「のこちゃんは、名前を変えるつもりは、今の所無いのよね」


何気なく祖母が言う。


もちろん、のこちゃんの意志はらいでいないので、小さくうなずくにとどめた。


「でも、もし変えたくなったら、すぐに言ってね?」


もう一度のこちゃんが小さくうなずくと、祖母は微笑ほほえみながら別の話題にえる。


そして、その朝、二度と改名かいめいについてれられる事は無かった。



――――――――――――――――



春に三日みっかの晴れ無しとは言うものの、ける様な晴天せいてんめぐまれた気持ちの良い朝である。


しかし、そのあたたかな春の陽射ひざしに包まれながらも、とぼとぼと登校するのこちゃんの足取りには元気がなかった。


今朝けさの様な何気ないやり取りをして、祖父母は、恐らくきょう姉さんもふくめ、やはり自分の名前について思う所があるのだろうなとさっしてしまうのだ。


これからも、ちちははとのつながりを象徴しょうちょうする名前であるから、改名かいめいしないという意志はらがないだろう。


ただ、それをおのれのワガママととらえてみれば、自分の事を良くしてくれている家族に悪い事をしているのではないか?


お世話になっている人へのおんあだで返すなと教えられた、お父さんの言いつけにそむいているのではないか?


そんな、恐れに近い疑問ぎもんが浮かんでしまい、もやもやと気分が上がらないのこちゃんなのだ。


だから何となく、まっぐ学校へ向かう気にもなれず、のこちゃんは普段の通学路からはずれて少し遠回りな道を進んでしまっていた。


いつも遅刻しないようにと時間に余裕よゆうをもって登校しているので、多少の遠回りくらいは問題ない。


少し歩きたい、そんな日もある。



そこは地元の主要しゅよう駅へと続く広めの道で、車道と歩道が頑丈がんじょうそうなガードレールにってカッチリとみ分けされている、所謂いわゆるバス通りだ。


スーパーや総合病院もその通りにあるので、おつかいなどでは、のこちゃんもよく来るあたりだった。


ただ、生活する上ではお馴染なじみではあっても、学区からはずれ気味な事もあり、のこちゃんの通う中学校からするとあまり関係がない方向である。


歩道には、洒落しゃれ意匠いしょうのブロックがめられ、街灯がいとうの柱と共に等間隔とうかんかくで木が植えられている。


盛夏せいかにあっては、しげった葉が強い陽射ひざしをさえぎって木陰こかげを作り出す様にと、安心感を主眼しゅがん設計せっけいされたものだろう。


昼間は地元の子供たちが楽しそうにかけまわる姿を散見さんけんできる場所なのだが、朝ともなれば、通勤つうきん通学の人たちや自動車くるま往来おうらいもそこそこ多いため、それなりの喧噪けんそうとなる。


そろそろ適当てきとうかどがって本来の通学路へ復帰ふっきしないとなぁと、ぼんやり考えながらのこちゃんが歩いていると、不意にあらげた女性の声が耳へ入ってきた。


のこちゃんが声のする方向へ視線を向ければ、歩道が交差こうさして少し広くなっているスペースで、自分ととしの変わらない制服姿の女子じょしが何やらスーツ姿すがたの男性ともめている模様もようである。


男性は、30代くらいのサラリーマンであろうか、手にしたスマホの時計をチラ見しながら忌々いまいましげだ。


よく見てみれば、その女子じょしはのこちゃんと同じ制服せいふくを着ており、うしろにランドセルを背負しょった小学校低学年くらいの小さな女の子を男性からかばう様に立っている。


小さな女の子はひたすらオロオロしており、どういう事情じじょうか分からないものの、このまま放って通りぎるのもちがう気がするのこちゃんであった。


と言うよりも、行動指針こうどうししんをチャムケアに影響えいきょうされたのこちゃんのたましいが、なるべくなら正義をおこなえと自身へ欲求よっきゅうしているのかも知れない。


宿福すくねに子供向け作品による情操教育じょうそうきょういく成果せいかを見て感心していたのこちゃんもまた、チャムケアにしっかり教育されていた訳である。


子供向け作品、あなどがたし。



「スマホ見ながら歩いてたんだから、あんたの方が悪いに決まってるだろっ」


「君たちにはまだ分からないかも知れないが、こちらも遊びでスマホをチェックしていた訳じゃない」


「あの……あの、わたしが悪いんです………」


のこちゃんが何気なくをよそおってそろりそろりと近づくと、三人の物言ものいいがハッキリと聞こえてきた。


どうやら、スーツの男性と小さな女の子がもめ事の中心らしい。


つまり、男性へ食ってかかっているいさましい同中おなちゅう女子は、この女の子の援軍えんぐんを買って出たらしいと、おおまかな状況じょうきょう見出みいだすのこちゃんである。


なるほど、所謂いわゆる"ながらスマホ"で女の子に気がつかなかった男性がうっかりぶつかってしまったのなら、められるべきは男性の方だろう。


のこちゃんの正義感がうべきポイントは、ハッキリと把握はあくできた。


とは言え、べんが立つ頭脳派ずのうはでもうでぷしの強さをたよって勝ち気にふるまえるわけでもないのこちゃんに、直接的ちょくせつてき加勢かせいは無理がある。


"ちからなき正義は無力むりょくなり"とは、よく言ったものだ。


のこちゃんがどうしたものかとその行動をにぶらせていると、オロオロしていた所為せいか、足下あしもとをふらつかせてころびそうになる小さな女の子の姿すがたが目に飛び込んできた。


「あ…」


「あぶないっ」


吃驚びっくりしてとっさに手をのばし、のこちゃんは、女の子をささえる事に何とか間に合えた。


些細ささいと言えば些細ささいな事なのかも知れない。


しかし、例え無力むりょくな自分ではあっても出来る事があったのなら、無関心むかんしんのまま通り過ぎなくて良かったと胸をなで下ろすのこちゃんである。


「だいじょうぶ?」


のこちゃんはそう呼びかけると、ポカンとしている女の子の体勢たいせいを、よっこいしょともともどしてやる。


女の子は、特に顔色も悪くない様なので、単純に足をもつれさせただけなのだろう。


「あ、ありがとうございます………」


われに返った女の子が、顔を真っ赤にしつつも、満面まんめんの笑みでお礼を言う。


どういたしましてとのこちゃんが笑い返すと、気がゆるんだのか、女の子は笑い顔から少しなみだ目になってしまった。


あららと思いながら、このくらいの子だと集団登校するはずだよねと気がついたのこちゃんは、その辺りで登校仲間が遠巻とおまきにしているのではないかとまわりを見渡すと、ほっとした表情でこちらを見ていた同中おなちゅう女子と目があった。


大人にも気後きおくれしないその勝ち気な印象が、のこちゃんの中で少しばかりやわらぐ。


同中おなちゅう女子はのこちゃんにニヤリと笑いかけると、再び男性に向き合って、口論こうろん再開さいかいさせた。


「スマホの画面に気を取られて、こんな小さな子にぶつかっておいて、だい大人おとなあやまりもしない。

仕事か何か知らないけど、それはあんたが自分で決めて、自分の意志で進んだ現在いま状況じょうきょうだろ。

それでいっぱいいっぱいになった所で、それはその選択せんたくをしたあんた自身の問題だっ」


堂々どうどうと男性に言い放つ同中おなちゅう女子に、のこちゃんは自分に出来ない事と感心しつつも、ん?と何かかかかるものをおぼえていた。


「中には自分勝手な選択せんたく傲慢ごうまん選択せんたくもあったかも知れないけど、ほとんどはその時の最善さいぜん選択せんたくしてきたんだろ。

って事は、現在のあんたは、あんた自身の最善さいぜんで出来ているはず。

その最善さいぜんの姿が、自分のふがいなさを棚上たなあげにして小さな子にび一つ入れられない、そんな情けないもんであんた自身は良いのかよっ」


「なっ………」


ちなみに、いまうめいたのは、のこちゃんである。


とうの男性は、まくしたてている同中おなちゅう女子をだまって凝視ぎょうししていた。


「自分勝手な選択せんたく傲慢ごうまん選択せんたくふくめて、あんたが自分で選んだ、あんた自身なんだよ。

だったら最後までしっかり責任せきにんを取れよな!」


間違まちがいない。


多少アレンジされているとは言え、『スワイプチャムケア!』にあったセリフだとのこちゃんは確信した。


「ケアビースティ…」


あれは、物語の終盤しゅうばん敵幹部てきかんぶ一騎打いっきうちになった時、選択せんたくこだわりを持つケアビースティが、敵幹部てきかんぶからお前は選択せんたく間違まちがえたなとさぶりをかけられた際、負けずに言い放った熱いセリフである。


「スワイプチャムケア…」


思わずケアビースティの名をつぶやいてしまったのこちゃんと同時に、あろう事か、女の子の口からも同様のつぶやきがれた。


おたがいのつぶやきに気がついたのこちゃんと女の子は、ハッとして顔を見合わせる。


小さな女の子ならば、チャムケアシリーズくらいフツーに見るだろうと思うのは早計そうけいである。


長いシリーズ物にありがちなのだが、はたからではタイトルがちがえどどれも似通にかよっていて大差たいさの無い様に見えて、そのじつ、それぞれテーマから作品世界までまったくの別物であり、例えファンであってもすべてを把握はあくし切れていないケースもめずらしくない。


ましてや『スワイプチャムケア!』は、のこちゃんがリアルタイム視聴しちょうし始めた『Joy!フロイラインチャムケア』の数年前に放送されたタイトルであり、この女の子が自然にテレビで"たまたま見る"にしてもそれなりのハードルがある。


だが、この女の子は、同中おなちゅう女子のげんに対して、一発で引用元の作品を特定とくていして見せたのだ。


したがって、女の子にチャムケアに対する確固かっことした探求心たんきゅうしんがあると、のこちゃんは刹那せつなに理解できた。


「……チャムケア、好きなんだね」


「え……あ、はい」


女の子が、再び顔を真っ赤にして、少しはにかみながらうなずく。


まさしく、同志発見どうしはっけん瞬間しゅんかんであった。



「まさか、リアルJC(じょしちゅうがくせい)から、その言葉を聞かせられるとは思わなかったな」


それまで同中おなちゅう女子にめられていたスーツの男性は、苛立いらだった様子をひっこめて、真摯しんしな態度で話し始めた。


きみの言う通りだ。しケアのセリフで叱咤しったされて、自分の間違まちがいに気付かされた」


「はっ?」


戸惑とまど同中おなちゅう女子をよそに、男性は続ける。


「"もしかしたら本当に間違まちがった選択せんたくをしたかも知れないけど、それもふくめてあたしの本心、あたしの選択せんたく、本当のあたしなんだ!"

良いセリフだよね」


何とスーツの男性は、くだんの回でケアビースティが敵幹部てきかんぶへ放ったセリフを、かの名言をそらんじて見せた。


こんな所にもチャムケア好きが、しかも大人の男性がいるとは、立て続けの"同好どうこう"との邂逅かいこう驚愕きょうがくしたのこちゃんである。


ぞくに言う"おおきなお友だち"ってやつだろうかとのこちゃんがあれやこれや思いをめぐらせていると、男性は、同中おなちゅう女子の背後はいごに位置する女の子の方へ向かって深々ふかぶかと頭を下げた。


「こちらの不注意で、きみあぶない目に合わせてしまった。本当にすまないっ」


「あっ、いえっ、わたしもまわりをよく見ていなくて、ごめんなさいっ!」


そうだ、チャムケア好きに悪い人はいないのだと、のこちゃんはあらためて確信かくしんする。


一方いっぽううしろわされていたのこちゃんと女の子のやり取りをぼんやり聞いて、よもや速攻そっこうのネタもとバレで顔を赤くしていた同中おなちゅう女子は、思いがけない男性からの追い打ちで流石さすがにいたたまれなくなってしまった。


ワカレバイインダヨッと小声こごえで言い捨てると、そそくさとその場から足早あしばや退散たいさんしていった。


あわれ、義侠心ぎきょうしんからせっかく小さな女の子をかばったのに、かなり残念な結末である。


彼女がそんな状況じょうきょうとはつゆ知らず、知らないかおだったものの、同中おなちゅうならばいつか学校内でチャムケアを語れるかも知れないと、うれしい期待きたいでいっぱいになるのこちゃんだった。

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