第9話 生涯で、ただ一つの嘘
その日はとても静かな夜だった。昼間の激戦を経て疲れ切ってしまった子供たちは、すでに夢の中の住人となって満足げな表情で眠っている。傍で久しぶりに一緒に寝ていたアレンは、体を起こしてその顔を愛おしそうにじっと見つめていた。
しばらく子供たちの様子をそのまま見ていると、んがっ、という呻き声と共にレオが布団を跳ねのける。アレンは小さく笑いながら布団を元に戻して、すーすーっと静かに寝入っているフィオの頭を起こさないように優しく撫でた。
「よく………頑張ったね」
二人ともどんな夢を見ているのだろうか。豪快に寝息を立てているレオは、何やらわきわきと手足を動かしている様子。楽しそうな顔からして、もしかして今日の事を夢に見ているのかもしれない。フィオはアレンに頭を撫でられながら、ふにゃっと幸せそうに笑っていた。意識がなくとも、アレンに撫でられているのがわかっているのだろうか。
勝負は結果として、アレンの負けであった。アレンは出し惜しみなく技を使い、全力で剣を振るっていた。それでも子供たちはそれを乗り越えて、一撃、アレンへと見事当てる事が出来たのだ。精魂尽き果て、例えそれが当たっただけの威力も何もないような一撃だったとしても、勝負はレオとフィオの勝ちだった。
「これで俺たちの勝ちだよな!?」
「お爺様っ!私たちを認めてくださいますか!?」
死力を尽くして体力もつきかけているだろうに、ふらふらとしながらもアレンへと急いで詰め寄る。二人は不安そうにアレンを見上げて言葉を待つ。アレンは安心させるように笑いかけ、グレンフィルドに行くことは止めないが、二人をここに置いてはいかず、一緒に連れていくことを約束した。その時の二人の喜びようといったら、空にでも飛んでいきそうな喜び具合であった。だからこそ、アレンの胸はずきりと痛んだ。
「………」
床から音を立てぬように静かに立ち上がったアレンは、子供たちを起こさぬように気配を消しながら廊下へと出た。
廊下には月明かりが満ちており、優しく光が降り注いでいる。ふと外を見れば、桜の木が月光を全身に浴びて光っていた。もう少し時が経てば、満開の季節が訪れる。美しく咲き誇る桜が月の光を浴びるその光景は、きっと見ごたえがあるものだろう。それを今、目に出来ないのは残念である。だが、ただ一つ、悠然とその場に立つ姿も神秘的で美しいものであった。束の間、アレンはそうしてじっと桜の木を見ていた。
「間に合わなかった、か」
独り言は夜の闇へと消えていき、アレンは再び歩き出す。
ゆっくりと歩を進めながら、アレンは一つの部屋の前で再び足を止める。戸を開ける事無く、そっとアレンは手を添える。その部屋で休んでいるのはレガードである。彼も本当はアレン、レオ、フィオと一緒に床につくはずだったが、首を縦に振ることはしなかった。子供たちはレガードの事を本当の兄のように思っているから、水臭い、と不平不満を漏らしていたが、レガードは苦笑するだけであった。
「もしかして、気づいていたのかな」
三人だけにする為に、自分は遠慮したということだろうか。だとしたら、それはとんでもない思い違いだ。何故ならレガードもアレンにとって、そして子供たちにとっても大事な家族の一人なのだから。
「だけど、それが君の優しさという事なのだろうね。ありがとう、レガード………」
目を瞑り、万感の意を込めて感謝の言葉を呟く。束の間、そうやって思いを巡らせていたアレンは、次に顔を上げた時には決然とした表情で迷いなくまた歩き出す。非常にゆっくりと、まるで何かを確かめるように。
そうして辿り着いたのは、アレンの自室である。そっと戸を開き、後ろ手に閉めると、緊張の糸が途切れてしまったのか体が思わず傾いて、倒れそうになる。
(違う。まだ、まだだ)
類まれなる意志の力で己の体を律する。覚束ない足取りなれど、アレンは時間をかけてようやく机の前に腰を下ろす事が出来た。その瞬間、どっと圧し掛かる虚脱感。何かが決定的に自分の中に足りないとわかる。そんなものは百も承知である。ずっと前からわかっていた。自分の死期の事など。
(生命の根源である気が、もう僕にはなくなっているのだから)
体の異常は前々から感じていた。日常生活に不便はないものの、日増しに自分の体から何かが抜け落ちていく感覚は消える事がなかった。それがここ数年の事である。顕著となったのはつい最近の事。死期を悟るにはそれはもう十分な理由であった。
(だから最期に子供たちには自分の全てを教えたかった)
それは剣の技であり、戦いの心構えであり、己の貫くべき意志の在り方でもあった。あの短い間ではその全てを伝えきれたとは思わない。だがそれでも子供たちに、そしてレガードに遺せたものはあったはずだ。
アレンは言うことを聞かない体を叱咤しながら、机の上にあった筆をとる。やらねばならぬ事がある。最期に為さねばならぬ事がある。手紙を書くのだ。皆に宛てた、最期の手紙を。
この六十年と半あまり、様々な人と出会ってきた。良き出会いがあった。数奇といえる出会いもあった。皆で笑い合える幸せな時間もあった。悲しみに涙を流す時もあった。その全てが全て、今のアレンを作り上げた源である。
「はぁ、はぁ、はぁ、………っっ」
必死に筆を走らせる。フィオに達筆で、美しい文字ですね、と笑顔で称賛してくれたアレンの文字は、今となっては見る影もない。辛うじて文字と呼べるような有様で、ひどく見にくい。だがこれが今のアレンの精一杯であった。少し手を動かすだけでも息が切れ、刻一刻とその時が迫っているのを肌で感じる。アレンはあえてその感覚を無視して、ただ、在りし日の大切な人達の事だけを想う。腐れ縁のあいつは元気にしているだろうか。あの人は今も酒を片手に仏頂面をしているのだろうか。美しく成長したあの子は独りでも頑張っているのだろうか。
(………)
そして何もなかった村を一緒に飛び出した幼馴染は、今もその手に剣を持っているのだろうか?
筆の歩みが遅いのに対し、想いが溢れて止まらない。綴りたい事が沢山ある。伝えきれなかった言葉が山ほどある。この狭い紙の中でそれを伝えるにはあまりに足りない。
「はぁ………はぁ………はぁ………」
浅くなっていく呼吸に、終わりの時を感じる。自分の体内にある気の力がもうアレンには感じ取れなくなっていた。まだ書き終えてはいないのに、急に睡魔が襲い来る。それはきっと一度眠りに落ちてしまえば二度と覚める事のない永久の眠り。抗う事が無駄であるかのように、アレンの意識を削っていく。
抵抗をしなければ、きっと安らかな眠りが訪れる。死の瞬間を安息で迎えられることは、きっと幸せな事なのだろう。血生臭い戦場を経験してきた戦士であるアレンには、それが痛いほどにわかっていた。
(まだ、まだ………この手を止めることは、出来ない)
筆を握る力を込め、睡魔を全力の意志の力で捻じ伏せる。アレンは安息に身を任せることを拒んだ。最早、指先一つ動かすだけでも死に物狂いにならなければいけないというのに、どうして。どうしてそこまでする必要があるのだろうか。
それは彼の生き様でもあった。どんな苦境に立たされようとも、誰も彼もが諦めて頭を垂れるような状況になろうとも、アレンだけはいつも前だけを見据えていた。非情な現実に一度として膝をつく事がなかったのだ。
その姿に人は希望を抱き、明日への未来を想像する事ができた。この人についていくのだと、この人の歩む道に自分も一緒に歩いて行きたいと思わせてくれたのだ。命の重みが軽くなり、誰も彼もが自分の事だけに必死になっていた時代に、それがどれほどの救いになった事だろう。
アレンは今一人だ。家族の傍で幸せの中で逝く事もできたのに、そうしなかった。人々の希望の象徴たる存在であったのに、孤独に死を迎える。救いがない?いや、そんなことはない。アレンの中にはたくさんの思いが息づいている。それは彼らがくれた贈り物である。身体の感覚さえ消えてしまったアレンが唯一感じられる暖かな思い。アレンはけして一人ではなかった。
アレンは文字を綴る手を止める事無く、回想する。己の人生を。英雄とも呼ばれた男の生涯を。けして自分は英雄なんて存在ではないと思いながら。
(色んなことが、あった。僕はいつだって自分に正直に生きてきた。この手の届く範囲で皆を助けてきた。………でもそれが、本当に正しかったのかは今でもわからない)
余計なおせっかいだと怒鳴られたこともある。何故、もう少し早く助けに来てくれなかったのだと泣き叫ばれたこともある。それでも、アレンは自分が出来ることは止めなかった。それが自己満足にしか過ぎないとわかっていても、救える命があるのなら救いたいと願ったから。結果として、それが多くの皆の笑顔に繋がった。ただそれだけの事だった。
(たくさんの救えなかった命もあった。あと少し、ほんの少し手を伸ばすだけで救えた命があった。自分の手から零れゆく命を見る度に、僕は自分の無力さを思い知った)
後悔のない人生ではなかった。あの時ああしていればなど、何度思ったかわからない。悩み、嘆き、迷いながら進んできた道だった。
(だから、僕は誰よりも強くなろうと思った)
元から恵まれた才能を持ちながら、人族の限界を越えた気という生命の力を持ち、なおかつ努力することを忘れず邁進する精神力。アレンが表舞台に姿を現してから剣聖と呼ばれるまでに、そう時間がかかることはなかった。
(走り続けてきた、人生だったな………)
それが今やもう終わりかけようとしている。手紙もようやく最後の一枚となった。最後の手紙は………子供たちへ向けて。
(………レオ、フィオ。君たちを残して逝くのはあまりに心残りだ。未だ心の傷は残っているのに、すまない。傍にいられなくて)
人魔大戦が終わり、まだ混沌とした時代が続いていた中、魔族の残党によって滅ぼされた村の唯一の生き残り。それがレオとフィオである。何もわからぬ幼子だったらまだよかった。現実を認識することもできなかっただろうに。しかし二人はすでに物心がついていた子供だった。
(僕が魔王の復活を口にした時の、強張った二人の表情が何よりの証拠だ。その顔には隠し切れない恐怖が見えた)
だからアレンは二人をわざと突き放すような真似をした。必ず、アレンと離れたくないと言うのがわかっていて、その思いを利用した。強引な手ながらも、アレンにはもう時間がなかったから。アレンが課す試練を越えてくれると信じながら、全ての力を使い果たした。その事に一片の悔いもない。だが。
(君たちはどんなに大人になるのだろう?君たちはどんな出会いが待っているのだろう?いずれは添い遂げる人を見つけ、幸せな場所を見つけてくれるだろうか?)
アレンに伴侶と呼べる人はいない。がむしゃらに剣を振る毎日で、いつの間にか結婚をするような歳でもなくなってしまった。だけど、アレンは家族という存在には出会えることが出来た。だから満足であったし幸せでもあった。だからこそ、将来、暖かな家庭を築く子供たちの姿を見れないのは残念で仕方なかった。
死ぬのは怖くない。戦場ではいつでも死と隣り合わせであったから、始めから死ぬ覚悟は出来ていた。だが、悔やむことはある。子供たちの、レガードの、家族たちの輝かしい未来を見てみたかった。もう一度、離れて久しい仲間たちの顔を見てみたかった。それから、それから………。
(立つ鳥跡を濁さず、とはいかないな。やはり僕はただの人間だ)
気づけば、机を枕に顔を突っ伏したまま、アレンは倒れてしまっていた。顔を上げる事すら出来ない。手紙は、最後の一言を添えて終えることが出来た。震えて見っとも無い文字だけれど、綴る言葉に込めた思いは何よりも強く、ただ一言だけ本当の最後の言葉として家族へと遺す。
(いつまでも、愛しているよ………)
意識も混濁してきて、自然と瞼が落ちる。終わりの時がついにきてしまったようだ。暗闇の中には安らぎがあった。その安らぎに、ただアレンは身を任せる。
(嘘を、ついてしまって………すまない。もう皆とは一緒にいられないみたいだ………)
愚直なまでの人生で、呆れるほど正直に生きていた男がついた、ただ一つの嘘は。悲しくも優しい嘘であった。正直に話せばもう少し一緒にいられただろう。子供たちはアレンに無理をさせることなく、少しでも長い間一緒にいることを選んだだろう。だがそれでは剣の技を、気の力の本質を教えることはできなかった。子供たちの未来を案じる一人の親として、それだけは出来なかった。
深く、深く意識が沈んでいく。心臓の鼓動が少しずつ小さくなっていく。もうアレンの意識が浮上していくことはない。アレンは自分の胸の内にある思い出という名のぬくもりを抱き、静かな眠りにつく。
(………………ただ、最期に一つだけ、願うならば)
もう一度、皆と会いたい。
ぽとっ、と畳の上に筆が落ちる。畳に黒い墨汁の染みが広がってくる頃には、英雄はこの世を去っていた。
享年六十五。この時代であれば長寿ともいえる歳である。だが、人族の誰しもが早すぎる死として悼むことになる。それ程、アレンは人々から敬愛され、求められていた存在だったからだ。
新たな時代を切り開いてくれた剣聖の死は、世界に轟き、大きな波紋を広げていく。果たしてその波がこれからの未来にどう影響していくのかは、今は誰にもわからない。だが少なくとも、彼に近しい者たちには多大な影響を与える事になった。
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