第10話 灰色の空の下で
「………」
雨音がサァーっと教会の中に鳴り響く。静かな雨。灰色の曇り空からは絶え間なく雨が降り注いでいるが、風に煽られることもなく、しとしとと地面を濡らしていた。ステンドグラスには名も無き神と言われる女神が描かれており、雨に濡れてまるで泣いているかのようだった。
シトラン村の教会では所狭しと村人たちが集まっていた。皆が皆、暗い顔をして涙を流している。そんな光景をレガードはまるで別世界でも見ているかのような感覚で眺めていた。現実感がない。これは本当に夢ではないのか。自問自答するレガードに答えてくれる者はいない。ただ、あの棺の中で静かに眠っているアレンがいる事だけは確かな事だった。
目の前を次々と村人が通り過ぎていく。教会の周りには入りきれない人々で溢れかえっている。棺の中に花を捧げた人々はそれでもすぐには帰らず、雨が降っているにも関わらず祈りを捧げ続けていた。どうか彼の英雄が安らかに眠れますように。そして感謝の言葉をいつまでも胸の内で唱え続ける。
レガードはそんな人々を横目にしながらあの時の事を思い出していた。世界が一度終わってしまったかのような衝撃を受けた、あの時の事を。
その日、レガードは誰よりも一番最初に目覚めていた。居間に向かった時、アレンがいない事に不思議に思っていたが、子供たちと同じように疲れているのだとその時は思っていた。
しかし、居間でいくら待っていても誰一人起きてこないことにレガードは不審に感じる。失礼を承知で寝室へと行った。だが、子供たちが眠っているだけでアレンの姿はない。首を傾げながら廊下に出てきた所で、アレンの私室の襖が少しだけ開いている事にレガードは気づいた。そうか、自分の部屋に行っていたのかと思ったレガードは、朝の挨拶をするべく、ノックをしてからその襖を開いた。
アレンの部屋に入った時、最初にレガードが感じたのは強い違和感だった。畳の上に黒い染みを作って転がっている筆に、散乱しているたくさんの手紙。綺麗好きなアレンにしては異様な部屋の様子に、只事ではないと察するレガード。机の上ではぴくりとも動かないアレンの姿。
まさか。そんなはずがない。レガードはアレン様、と何度も声を掛けながら近づいていく。永遠の眠りについたアレンの首筋に手を当て、ひやりとした感触を感じた時には、目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けた。それでも信じたくなくて、アレンの体をレガードは何度も揺さぶった。
「お爺様………?」
その声にはっとレガードが振り向くと、レオとフィオが茫然した表情をして襖の近くで佇んでいた。未だ自分ですらこの事実を受けきれていないのに、子供たちならどうなってしまうのか。
レガードは一時的に正気になったものの、止める間もなく二人はアレンの元へと走り寄ってしまった。冷たく、生命の息吹がなくなってしまった体に触れて、フィオはレガードの方へと顔を向けた。その表情はある種の確信を抱えつつも、それを信じたくない、信じてはいけないと訴えかけていた。悲痛な表情に心が軋む。だがそれ以上に、ずっと、ずっと、アレンに起きてくれよ爺ちゃん、もう朝だよ、と語り続けているレオの姿に居た堪れなくなる。二人がこの事実を受け入れるには、あまりに突然過ぎたのだ。
(………まだ私も飲み込めてさえいないのに)
レガードが淡々と葬儀の手続きをすすめられたのは、この現実をまだ本当だとは思えていないからだ。それでも最低限、大人の矜持を果たすべく手を回した結果が今だ。全ての事を終えて、ようやく少しだけ考える余裕が出来て、それでも何処か他人事のようにレガードは思っていた。
「これを………」
レガードは村の少女から花を手渡される。小さな野花。シトラン村の周囲で咲いている名も無き白い花。夏場になると原っぱを満たすように咲き誇るたくさんの花々を、アレンが嬉しそうに目を細めて見ていたことをレガードは不意に思い出した。
「………ッッ」
自分の頬を熱い何かが流れるのを感じて、レガードはようやく自分が泣いている事に気づいた。心配そうにこちらを見ている少女に泣きながら礼を言って不器用に笑う。
花を受け取ったレガードは、村人たちの後ろへと並んだ。少しずつ列が消化していくと、徐々に棺の周りが見えてくる。そこにはたくさんの想いが溢れていた。棺の中には色とりどりの花々が添えられており、生前、自然を愛していたアレンへの手向けとしてはこれ以上の物はない程であった。
棺の中では花々に囲まれて静かに眠っているアレンの姿。棺に納めきれない花は祭壇に飾られて、アレンの旅路を見送ってくれている。
そんな光景の中で一人、棺にしがみつくようにずっと泣いている一人の少女がいた。
「フィオ………」
あれからフィオはずっとずっと涙に暮れている。片時もアレンの亡骸から離れることはせず、誰とも口を効かず、自分の感情を内に押し込めて泣いていた。あれだけアレンのことを家族として、人として愛していたのだ。最愛の人の突然の死で受ける衝撃は計り知れない。そんな彼女に誰一人として声を掛ける事が出来なかった。もし出来るとするならば、彼女に近しい存在でなければ声さえ届くことはないだろう。
レガードはぐっと自分の足に力を込めて、歩き出す。棺の前に止まり、そっとアレンの顔の横に花を添えてから、棺にしがみついているフィオの肩にゆっくりと手を載せた。緩慢な動作で振り向いたフィオの顔は涙でぐちゃぐちゃに濡れていて、瞳から光が消えていた。定まらない視線がようやくレガードに合うと、僅かに瞳が揺れる。
「レガード、さん………」
ぽろぽろと涙を零しながらそう呟くフィオの姿に、レガードの胸が締め付けられる。どうにかして助けてあげたい。だけれどその方法なんてわからない。だからレガードは自分がして欲しい事をすることにした。きっと自分もフィオのように泣いているだろうから。
「あ………」
レガードは地面に膝を立てて屈みこみ、そっとフィオの体を抱きしめる。華奢な体躯をガラス細工でも扱うように丁寧に胸の中に収める。ずっとアレンの傍にいたのだろう。体は冷え切ってしまっていた。レガードは自分のぬくもりを与えるように、少しずつ力を込めて抱きしめた。
「ぅ………ぁぁ………」
茫然とした顔で抱きすくめられていたフィオは、人の暖かさを感じ、呻き声をあげながらレガードの服の端を強く、強く掴んだ。まるで何かの感情を押さえつけるように、ぎゅうっと掴みながら、唇を噛んだ。そんなフィオの耳元でレガードは優しく囁いた。
「我慢しなくていいんだよ」
それはフィオに向けての言葉だったのか、自分に向けての言葉だったのか、レガードにもわからない。それでもその言葉を耳にしたフィオは、大粒の涙を流し、アレンが亡くなってから初めて大きな声を上げて泣いた。悲しくて、辛くて、どうしようもなくて、一度決壊してしまった感情を留める事なんて出来なかった。それはレガードも同じ事だった。フィオの体を抱きしめながら、嗚咽を零す事しか出来なかった。
今、ここには悲しみしかない。誰も彼もが悲しみを胸に抱いている。だがその悲しみはアレンの死へと向かい合った事に他ならない。だから今だけは感情の赴くままに、心の痛みを抱えて泣いてよいのだ。
雨音と大きな泣き声が教会に鳴り響く。降り続ける雨は止むことを知らず、空を灰色の雲で覆っていた。人は人を励ます時、天気に例えて止まない雨はない、という。いつかは雨が止み、空が晴れて太陽が顔を覗かせる、と。それは少なくとも、レガードとフィオには当てはまるのかもしれない。今はけして受け入れないアレンの死も、少しずつ時を経て、自分の中に落とし込める時がくるのかもしれない。
だが、ある人物にとってアレンの死はけして癒えない深い傷跡を残すことになった。彼の名はレオ。フィオの双子の兄妹であり、アレンの死へと最も責任を感じ、そして剣聖という立場に異様なる執着を持つこととなる少年である。
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