第3話 平和になった世界にて

 魔族と人族との争い、後に人魔大戦と呼ばれる戦争が終わり十年もの歳月が流れ、平和になった世の中で人々はその安穏を噛み締めていた。争いによって家がなくなり、寄る辺がなくなった者たちも国の支援を受け、生活の立て直しを始めていた。

 戦いの傷跡は今も残っている。体に、そして心に痛みを抱えた者たちは数え切れぬ程、存在している。それでも時と共に少しずつ、ほんの少しずつ傷は癒えていく。元の生活に戻ることはできないが、それでもまた幸せを掴む事ができると人々は希望を抱いて、今日も日々を生きている。


 そんな平和になった世界の片隅。都市圏より遥かに離れた田舎の村で、レガードと呼ばれる青年はふぅ、と息をつきながら立ち止まった。季節は初夏。これからまだまだ暑くなる時節ではあるが、ここ、シトランの村は気持ちの良い風が吹いており、とても気候が良かった。

 周りには田んぼや畑が広がっており、収穫の時期がもうすぐであろう果実が実っている。傍にいた、木の柵の中にいる羊にめぇーっと鳴かれ、レガードは思わず笑みを浮かべた。この牧羊的な雰囲気がレガードは好きだった。伝令兵として各地を走り回っている彼ではあったが、その中でも一番だと言える。

 まぁ土地柄が好きなのもそうだし、住人である人々も好意的に接してくれる、という理由もあったが。だがそれでも、一番の理由は………。


 「あれ、レガード兄ちゃん?」


 レガードが声をした方向に振り向けば、そこには彼を見つけて嬉しそうにニコッと笑う少年がいた。成人しているレガードよりも二回りほど幼い少年の名前はレオ。短い黒色の髪と黒い瞳が太陽の下で煌めく、日の光に負けじと明るい性格の少年である。


 「やぁ、レオくん。久しぶりだね。元気にしていたかい」

 「数か月ぶりだね、兄ちゃん。俺はめちゃくちゃ元気にしてたよ!今だって、畑の手伝いをしてきたんだ」


 へへん、と得意げに鼻をこするレオ。だが、手にまだ土の汚れが残っていたのか、鼻の頭が黒く汚れていた。


 「ちょっと。ちゃんと手を洗いなさいっていつも言われてるでしょ。ほら、鼻の頭が汚れているわよ」

 「あ?ちょ、わぷっ!」


 レオと顔立ちが似ている少女がいきなりタオルでレオの顔をごしごしと拭く。少女の名前はフィオ。レオとは双子の兄妹で、長い艶やかな黒髪と黒い瞳、端正な顔立ちをしており、レオ共々将来が期待できるしっかり者の少女である。彼女が妹でレオが兄であるはずだが、すっかりと立場は逆転しているようで、レガードはその光景を微笑ましく見ていた。フィオはレオの顔をタオルでごしごしと拭きながら、レガードの方に顔だけ振り向いて笑顔で挨拶を交わす。


 「レガードさん、こんにちはです。お久しぶりですね?」

 「あぁ、フィオちゃんも一緒だったんだね。こんにちは。久々に来れたけど、相変わらず良い所だね、ここは」

 「ふふ。そう言って頂けると私も嬉しいです。今日はいつもの用事ですか?」

 「うん、そうだね。フィオちゃんたちの用事がもうないなら、案内してくれると助かるな」


 フィオはうーん、と一度思案顔をするが、特に何もなかったのだろう。二つ返事で快諾した。


 「はい、大丈夫ですよ」

 「そうか。良かった。実はまだ緊張していてね。一人で会う事になったら、どうしようかと思っていたんだ」

 「あはは。もう何度ここに来ていると思っているんですか。変なレガードさんですね?」

 「ちょ、わぷ、ま、まって。いいか、いいからもうタオルで拭かなくていいから!何二人してなんでもないように会話してんだーーーー!!」


 レオは二人が談笑している間、ずっとフィオに顔をタオルで拭かれていたのだ。必要以上にやられたせいか、ようやくタオルの呪縛から逃れたレオの鼻の頭は少し赤くなっていた。あら、と思わず呟いたフィオの瞳はいたずらな光が宿っていて、明らかにわざとだということがわかるが、レガードはそんなつもりはなかったらしく、ごめんごめん、と平謝りしていた。

 不貞腐れたレオの機嫌はしばらく直らず、道すがらレガードが外であった色々な出来事を面白おかしく話すことによって、どうにか笑顔を見せてくれるようになったのだった。


 シトラン村の外れ。小高い丘の上にひっそりと建っている一軒家は、何処か懐かしさを感じられる古家だった。藁ぶき屋根に室内には畳。香る匂いはい草だろうか。まるで森の中にいるかのように落ち着いた気持ちにさせてくれる。

 広い庭には観賞用の植物がバランスよく植えられており、特に目立つのは大きな桜の木だろう。今は季節ではないので寂しいものだが、木の根元から見上げれば空を覆わんばかりの枝が天井のように広がっている。この桜が咲けばさぞかし見ごたえがある事だろう。空を埋め尽くす桜が、なんとも待ち遠しい。


 そんな桜の木の下。木の幹に手を添えて立っている人物がいた。たたずまいは凛とし、背筋はぴんと立っており、レガードは一本の剣のような印象をいつも覚える。風雅な薄い紫色の着物を着こなし、髪の色は全てが雪の様に白かった。レガードはまだ対峙していないというのに、早速喉の渇きを感じていた。


 「………おや?」


 件の人物がこちらを振り向けばレガードの心臓がどくんと跳ねる。その人物は優しい顔立ちで、眦はいつも微笑んでいるかのように下がっており、今もレガードを歓迎しているのだろう、満面の笑みで出迎えてくれている。

 齢六十は超えているとレガードは記憶しているが、未だ若々しく、こちらに歩いてくる足取りもしっかりとしていた。否応にも高鳴る緊張と鼓動。いつまでも慣れないこの気持ち。だがそれも仕方ない。何せ彼は生きる伝説なのだから。人魔大戦の立役者。レガードにとって憧れの存在である剣士。剣聖アレン。名だたる吟遊詩人たちが今もなお語り続ける英雄が目の前にいるのだから。


 「じいちゃん!」

 「お爺様!」


 レガードの脇を風の様に吹き抜けていったのは、双子の兄妹であるレオとフィオだった。脱兎の如く駆け寄り、彼に勢いよく抱き着いていた。レガードはいつも元気一杯なレオはともかくとして、常に冷静で大人顔向けなフィオが、彼の前でだけは子供らしさを見せる今の光景に、ほっこりとした気持ちにさせられる。今日起こった事を楽しそうに話している二人を見て、レガードの緊張も幾分かほぐれてきた。


 「アレン様。お久しぶりでございます」


 レガードは頃合いを見てアレンにそう声を掛けた。自分から声を掛けられて、レガードは心の中でガッツポーズする。いつも緊張であわあわとしていて、彼に先に声を掛けさせるという失礼なことをさせていたからだ。ただまぁ、声が少し震えていたのは仕方のない事だろう。


 「三か月振りかな、レガード。息災のようで何よりだ」


 レオとフィオに抱き着かれたまま、アレンは微笑んだ。それから立ち話はなんだという話になり、レガードは家の中に招かれるのであった。


 畳の上というのは普段、都市で過ごしているレガードにとって慣れないものであった。おまけに靴を脱いでそのまま座ったりするというものだから、初めて訪れた際には大層驚いた事を今でもレガードは覚えている。それでも今となっては素足で歩くことは勿論、座布団の上で正座を組む事だって難なく出来る。


 「レガード。足を崩しても大丈夫だよ。僕は気にしないから」

 「い、いえ、でもしかし………」


 難なく出来るが、維持する事はまだまだ修行中のレガードであった。フィオがお茶請けを用意している少しの間待っているだけだというのに、ぴりぴりと足が痺れてきている。優しい声でそう言ってくれるアレンは、恐らく本当に気にすることはないだろう。そんなことでいちいち目くじらをたてる程、小さい人物ではない。だが、今も憧れの人物がお手本の様に綺麗な正座をしている姿を見て、見っとも無い所は見せられないという気持ちが沸々と湧いてくるのだ。


 「レガード兄ちゃん、無理しない方がいいぞー。俺も長くはできないからなー」


 気の抜けた声を出して、胡坐をかいているのはレオだ。テーブルの上に肘を立て、頬杖をつきながら意地悪そうに笑っている。同類だと言わんばかりの視線に、年上としての矜持もあってか尚更屈してなるものかという気持ちが強くなる。


 「私が少しいない間に、面白い事になってますね。どうぞ、お爺様。淹れたてのお茶です」

 「ありがとう、フィオ」


 フィオはお盆の上に人数分のお茶を載せて、美しい所作で膝を畳の上に立てながらまずアレンの前にそっとお茶を置いた。アレンからのお礼の言葉に花が咲くような笑顔を返しながら、フィオはそれぞれの場所にお茶を置く。それからまた少し席を外して、次に台所から姿を現した時にはお茶菓子を持ってきて、アレンの隣に腰を下ろしたのだった。


 (相変わらず所作が綺麗な女の子だなぁ。アレン様に似たのかな?)


 頑張り続けているものの、そろそろ足がやばくなってきているレガードは、気を紛らわすようにそう思う。自分より年下だというのに、礼儀作法はしっかりとしているし、今もアレンのように美しい正座を保っている。正直、見習いたいぐらいだった。やったー!煎餅いただきー!と言いながらバリボリと小気味いい音で食べているレオとはなんとも対照的だった。


 「うん、おいしい。お茶の淹れ方、また上手くなったようだね。フィオ」

 「本当ですか、お爺様!?」

 「僕は嘘は言わないよ。それにこう見えて、お茶にはうるさいからね?」


 茶目っ気たっぷりにウインクするアレンに、まぁ、と言いながらくすくすと笑うフィオ。和やかな空気が漂う。レガードは対面に座っているアレンもお茶に手を付けた事だし、自分もそうするかと手を伸ばしたその瞬間、電撃が足に走る。


 「つあぁーーーーー!!!」


 姿勢を少し崩した瞬間、襲い掛かるなんとも言えない痛みに、思わず甲高い声で叫んでしまうレガード。驚いた声でレガードを見るのは他の三人だ。かろうじて手をつける前だったからお茶が零れることはなかったが、足を崩して蹲るレガードの姿に思わず笑ってしまったのはレオだ。あはははっ!と大きな笑い声が止まらない。フィオはそんなレオを窘めようとするが、フィオもフィオで笑うのを我慢しようとしているのか、体が震えている。


 (ううう、情けない。意地なんて張るんじゃなかった)


 憧れの人の前で恥を晒してしまった事に、レガードは胸中で悔いる。だがアレンはそんなレガードをけして笑う事なく、少し悲しそうな顔をしてレオを窘めた。


 「レオ。人の事を見て笑うものではないよ。レオだって笑い者にされたら嫌だろう?自分がされて嫌な事はやるものではないよ」

 「………うん、わかった。レガード兄ちゃん、ごめんなさい」


 アレンの言葉を耳にして、はっとした表情を浮かべたレオは、即座に頭を下げてレガードに謝った。この年頃だったら叱られれば反抗する事もあるだろうに、文句の一つも言わない。深い信頼があるからこそ、アレンの言葉に素直に耳を貸せるのだろう。


 「レガードさん、私もごめんなさい」


 フィオはこちらが申し訳ないと思うぐらい深々とお辞儀をして謝罪した。確かに笑う直前のようなものだったが、黙っていればわからなかっただろうに、なんとも律儀な子だなとレガードは思った。


 「いやいやいや。こちらこそみっともない姿を見せてすみません。だから怒らないであげてください、アレン様」


 しゅんとしてしまった二人は見てられない。子供はもっと元気が有り余るぐらいがちょうど良い。レガードは慌ててアレンにそう口添えした。アレンはそんなレガードに一つ頷いてから、俯いてしまった二人の頭を優しく撫でた。


 「悪い事をしたらちゃんと謝る。簡単な事のように思えて、実は難しい事なんだ。レオ、フィオ。二人は素直に謝れて偉いね」


 愛おし気に二人の頭を撫でるアレン。その顔にもう悲しそうな色はなく、ただただ二人への愛情だけがそこにはあった。


 「………へへへ」

 「………」


 レオは照れくさそうに笑い、フィオは気持ちよさそうにアレンのなでなでを受け入れる。すぐに空気が戻った事にレガードはほっとした。後の問題と言えば、まぁ一つだけである。


 (この痺れ、いつになったら抜けるんだろうなぁ………あいててて)


 相変わらず不自然な態勢でレガードは痛みの嵐が立ち去ってくれるのを待つばかりであった。

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