第16話 師走

 今日は、昼からの『下里美術研究所』のついでに、もう一度あの喫茶店に出かけてみようと思っていた。

 前に一度あけたことのある喫茶店のドアは、気恥ずかしいような懐かしいような手触りだった。あの時は圧倒されただけの裸婦画をコーヒーの香りの中でもう一度じっくりと眺めてみたかった。

「また、来てくださったんですね」

「はい、ゆっくり観たくて早めに来ました。…私、美大生なんです」

「まあ、裸婦に興味がおありですか?」

「ええ、まあ」

 さすがにこの状況の中で裸婦モデルをしているとは言いにくい暢子だった。

「先日この店でこのたくさんの絵を見て、心が暖かくなったんです。今まで裸婦デッサンもたくさん描きましたけど、私の絵とは違う、この不思議な世界に惹かれてしまって」

「絵っていろんな人に見てももらわないと存在する意味がないと主人がよく言っていました。自信家ではなかったけれど、画く以上誰かに見てもらいたい。そう絵が思ってるって」

「奥様をモデルにした絵もあるんですか?」

「残念だけど無いの…一枚くらい描いてもらえばよかったわね」

婦人はいたずらっぽく笑ってそう言った。

「芸術家は裸婦をどう見ているのかわからないけれど、描くのも描かれるのも勇気がいるでしょ。私には勇気がなかった」

 暢子は困った質問をしてしまったことを申し訳ないと思った。

誰でもそう簡単に脱げるものじゃない。自分の絵がこの世に何枚あるか想像もつかないけれど、だれも渾身の一枚のためにキャンパスに向かうのだ。その眩しい一枚がここに永遠に存在する。何かをこの世に残したい。そういう衝動に駆られて描かれた作品が人の心を打つ。暢子の目の前に広がる裸婦の群れがそう語っているような気がした。


 私たちのクリスマスコンサートの22日は早くにバイトを上がれた美緒と幸太夫が料理を作ってくれた。

 最近気に入って何かといえば登場するピザと初挑戦のラザニア。暢子と章介はお互いのセンスを認め合い、冗談を言い合いながらホールの飾り付けをした。

「デッサン同好会以外で暢子さんに会えるって嬉しいですね」

「悟君、熱心に通ってきていて、デッサンうまくなりましたよ。デッサンて自分は物心ついた時から描いていて、誰でも描けるものだって思ってたんだけど、描けない人もいるんだというのを知って、それがだんだん上手になるっていうのも知って、そういうもんなんだなあって」

「悟君はやりたがらなかった子ですから。でもやりたくなるって凄いなと思います。この頃、僕の授業も楽しそうですよ……。今のところフランスへ行くのは、まだ保留にしているみたいだけど、だんだんやりたい事がはっきりしてくるんじゃないかなあと思って、様子をみています」

 ツリーに飾りを付ける頃、悟がやってきて理子も帰ってきた。

「理子、飾り付け手伝ってよね」

「うん、まずは着替えて来るわ」

「理子さんも美人ですよね。僕、免疫無いですから、此処来ると芸大の達人のサロンて感じで憧れます」

 章介が上ずった声でそう言った。

「へえ、達人のサロン」

 暢子が初めて此処へきたときの印象はヒッピーの巣窟って感じだった。

そこに理子が来て、美緒が来て、此処も小綺麗になって変わった。このホールの窓枠も白く塗り替えて、床を磨いて、みんなの共同スペースに改装した。

 それから、3年目のクリスマス。思い出が一杯つまった記念すべき一日にアパートの住人は、シャンパンを飲んで、フライドチキンを食べて、幸太夫の上出来なピザに舌鼓を打った。

 安朗のチェロの調べはもう当分聞けないかもしれない。

 河合と裕美の連弾はとても華やかで、すごーく楽しくて、すごーく温ったかい全員集合のクリスマス。

 暢子の思いつきで集まったみんなの顔が思い思いにくつろいでいた。

「良かった。クリスマス出来て。河合がむくれた時は正直駄目かと思ったよ」

「暢子さん。先輩はシャイなんですから、ちゃんとわかってあげて下さいね」

 裕美が言う。暢子はちょっとお酒も入っていたか、

「何がシャイよ。しっかりしたもんよ。私と二人の時なんか、完全に主導権握ってるんだから」

「こら、いちいちばらすな」

 本当、そうなんだと。暢子は嬉しかった。

「あの……」

「なに、理子。改まって」

 理子がすくっと立ち上がり、一呼吸置くと一気に話し始めた。

「突然だけど……私、1月から、北海道へ行くことになったの。それで、この場をお借りして今迄の感謝。これからのみなさんのご活躍、遠く離れるけど私への声援。どっちも、よろしくお願いしたいなって。一言、言いたかった。お仕舞い」

「なんて?……」

 北海道……

「ずっと行くの?」

 暢子は今までの楽しかった気持ちがどこかへ吹っ飛び、戸惑いの真っ只中に落ち込んだ。

「うん、学校はやめようか、休学にしようか今、迷ってるの。卒業はしたいなって思ってるから」

……そんな……

「私の悩み、これから誰が聞いてくれるの……」

「お前、そういう利己的なこと、この場で言うかよ~」

 情けない顔で幸太夫が突っ込む。

「だって、ずっと一緒に生きてきたのに、苦しい時も、悲しい時も」

「また、先輩、大げさっすよ」

「なんの相談もしてもらえなかったんだよ。ショックだよ」

「あ、最近決まったの。相談する暇無くて、暢子には悪かったって思ってる。でもやってきたいの、大きな壁画描きたいから……今はそれしか考えられなくて」

「理子がんばれよ!」

 突然河合が言った。暢子の代わりに。泣いてる暢子の代わりに、河合が暢子の言いたいことを言ってくれた。

「うん、がんばる」

「良かったよ。最後にみんなで集まれて、暢子やったな」

 幸太夫がしみじみと言ってくれた。

「あの、もう一つ」

 安朗が決まり悪そうに立ち上がった。

「オレ、まだ先だけど…3月にドイツに行きます」

 暗黙の了解でみんな知っている。だけど、安朗がみんなに伝えたかったのは自分のことじゃない。

「オレのいない間、裕美ちゃんのことよろしくお願いしまっす。オレがいなくなるのわかっててここへ来てくれたんだ、だからよろしく」

 と、複雑な思いで語った。

「ここで待ってるほうが一年が短い気がして、みんなに助けてもらって安朗のこと待ってます」

 ドイツへ行こうという安朗に裕美が笑って言った。それは裕美から安朗への心を打つメッセージだった。

全員揃ったクリスマス会が、全員揃う最後の日となった。

 春の雪が解けるといっせいに目を吹く若木のように、それぞれの目標に向かって旅支度を始めた芸術家の卵たち。みんな様々なことを思い出しながら記念すべき夜を終えた。


「ねえ、理子。理子のやりたい事は、なによりも優先するんだね」

「え、どういうこと?」

「理子のやりたいことは、それほど凄いんだね。ってこと」

「そうね、ずっと探してたの。どこかに私の大きな絵描けるとこないかなあって、まだまだ描かせてもらえないけどね。いつか、描けるようになる為に、船出しようと思うんだ。このアパートから」

「寂しくなるな……」

「吉野に口聞いてもらったの。大きな建設会社の下請けでビル壁画をやってるところがあってね」

「それで理子のこと探してたの?」

「ううん、この前の話はそれじゃなかった。吉野駆け落ちしたの」

 おっとりとしているわりに理子の話はシビアだった。

「駆け落ち?」

 あの時キャンパスで見かけた吉野を思い出した。そして一緒にいた彼氏のことも。

「卒論を書いてるって、家を継がないといけないからって…

駆け落ちなんてする様子じゃなかったのに」

 とは言いながら、寂しそうな横顔と、何か言いたそうだったのを思い出した。

「真面目な奴だからね。親の決めた相手と結婚するってずっと言ってた。

でも一緒に暮らしてくれてた彼がいたの。

大学卒業したら彼からも卒業するって…でも、そんなに割り切れない。

真面目な吉野だから割り切ることなんか出来なかったんだよ」

「そうなんだ」

「なのに私の仕事のことを気にしてた。自分のことでまずくなったらって、だから最後まではっきりしなかったんだ。暢子に言うのが遅れたね」

 切ない話だった。お金持ちの吉野も思ったとうりには生きられない。

「理子、私は恵まれてるんだね」

「そうだよ、暢子は特別だよ。でも気にすることは無い。人生これからでしょ。

みんな、私も盛り返すよ」

「寂しくなるな一人置いてけぼりで」

 愚痴も言いたくなる。理子がいなくなるのは悲しい。

「なによ河合いる癖に。この頃ごそごそやってるじゃない。河合、良い奴だから、暢子お似合いだよ。そういう幸せもあるよ。私はまだまだたどりつけそうにないから、自分で漕いでいかないとね」

「自分で漕いでかぁ~」

「あんたは河合に漕いでもらえばいいよ。そのほうが確か」

「そう?」

「うん、幸せへの近道」

「へへ。色々あったね。このアパートで。鬼の巣窟みたいだったじゃない。普通の住人増やさないとって必死に探したな~。嬉しかったよ理子が来てくれて。幸太夫と美緒が来てくれて、だんだんアパートが綺麗になって料理も料理らしくなって、私本当、みんなに会えて良かった。このアパートに集まれて良かったと思うよ」

 暢子は、涙目になった。理子と別れるのも、本当はすごく悲しい。

「暢子、こっちに来たら顔出すから、ずっと居てね」

「なに言ってるのよ。卒業するならまだ一年あるわよ。また戻って来なくちゃ」

 そんな話を、暢子と理子は一晩中していた。後、何日一緒にいられるかわからない。残りわずかな時間をいとおしく感じた。

 明け方、理子が眠りについたころ……暢子は河合にわたしそびれたクリスマスプレゼントを持って廊下に出た。河合の部屋は奥から二番目。そっと歩いて、まだ寝てるかなと思いながら、部屋の戸を開けた。

「河合、寝てる?」

「ん、誰?」

「私、暢子」

「あ、今起きるよ」

「いいのいいの、これ、河合に昨日渡そうと思ってたんだけど、急な展開に動転しちゃって、渡せなかったから、理子が寝てるすきに持ってきた」

「なにこれ?」

「だから、クリスマスプレゼント」

「それはわかっているよ。なに?」

「なに寝ぼけているの。開ければわかるよ」

「……」

「河合がいつも弾いてくれた曲のオルゴール見付けたの。これ聞いたら、これしか考えられなくて、河合は自分で弾くから無くてもいいのにね」

「へえ、オルゴールで聞くとこんな曲になるのか。よく探したな」

「たまたま見付けたの。この回る度にキラキラ光るメリーゴーランドがいいでしょ」

「お前好きそうだよな。布団入るか?寒いだろう」

「うん、」

 河合の布団に潜り込んで、静かにオルゴールを聞いていた。河合は優しい、大親友の理子がいなくなる暢子の気持ちを察して、なにも言わないけど温めてくれた……

「暢子、1月になったら、二人でどっかいかないか?」

「いいよ」

「お前、バイトは?」

「最初の週はみんな休み。でも河合は?」

「旅行資金貯めてたんだ。だから今年中で終わり。二人で弾いて欲しいってとこあってサ、この俺がだよ。人に頼んだりするの苦手な俺が、芦田に頼んで来てもらった。あれはまいったな……今日、明日、あさってともう一息だな」

「ごめん……」

「何が?」

「裕美ちゃんと仲良くしてるのかなあと思って、ちよっとひがんだりしてた……」

「まっさか、暢子さんがひがむなんて似合わないことするね」

「なによ。人の気も知らないで。向こうは一年よ。やっぱ可愛い方が良いと思うよ」

「俺は暢子さん一筋だからね」

「その暢子さんて言い方止めてよ。いよいよ年上みたいで嫌だな」

「俺、4月生まれだから、とっくに二十だったんだぜ。お前の方が年下だよ、完全に」

「……河合は、なんでそんなに優しいんだろうな~」

 二人は布団の中で色々話しながら、ついうとうとと眠ってしまった。

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