第13話 急展開

 暢子は朝から腕まくりして、周りの者が引くほど張り切って床磨きをしていた。

「暢子先輩ちょっと」

 改めて呼び止められると何事かとドキドキする。

「何?安朗大きな声で」

「いや、さっきから何度も…暢子先輩聴こえないみたいだったから」

 裕美が安朗の気持ちを受け入れたばかりだから、おおよその察しは着くと思っていたのに、想像とは違った安朗の思い詰めた顔を見て、どんな話を聞かされるかのかと不安になった。

「実は俺、一年間ドイツに留学が決まったんです」

「え?留学って…」

 安朗は才能があるって思っていた暢子だったけど、突然の留学話にはどう反応したら良いのかわからなかった。

「学年選抜ですよ。本気出して練習したから、まぐれじゃないですよ。これでも俺努力家だから」

「そんなことわかってるよ。そう、学年選抜。おめでとうって言うべき?」

 暢子がそう言うと安朗の顔がしぼんだ。

「俺は行きます。チャンスだし、断るなんてありえない。ただ…」

 その先が暢子も聞きたかった。

「ただ、告白したんですよ。裕美ちゃんにその矢先にこれじゃあ責任感ないっていうか」

 安朗が悩むのも解る。

「で、でも」

 話を遮って暢子が言った。

「選びようがないでしょう。私だって河合がそうなったら考えるよ。悲しいかな。迷うけど、迷うけど、笑って見送るしかない。私達芸大生だよ。どんなに険しい道だって、そんなの覚悟してるよ」

 胸の中の辛い気持ちが安朗に伝わる。

「そうですね。何をおいてもこれで食ってくって、これしかないんだから」

「裕美ちゃんに言ったの?」

 安朗は首を振った。

「直接は言ってないけど、多分、知ってます」

 キャンパスの掲示板にドンと張り出されているのを見ないで通り過ぎる無神経な裕美ちゃんじゃない。結論は決まっている。安朗はドイツに行く。迷ってなどない。その辛さが顔から滲み出ていた。

「二人でゆっくり話すと良いよ。結果はそうでもゆっくり話せば悲しいだけじゃなくなるから。裕美ちゃんは私達に任せて」

 せめて安朗が悲しくならないように暢子はそう言った。裕美の寂しさを産めてやることは出来ない。けれど、一緒にいれば安心できることもある。

「河合に接近しないように見張っててやるからさ」

「オッス!」

 空元気で安朗がそう返事をした。

 その安朗が裕美とどんな話をしたのかは解らない。でも、二人の時間はどんどん加速度的に動き始めていた。


 12月の晴れた日曜日裕美がみんなのアパートに引っ越してきた。

 安朗の嬉しそうな顔。もちろん両思いも良いけど人から思われるのも良い。あの人のしてほしいことが私のしたいこと。凄く単純で柔らかな気持ちになる。

 そんな安朗の気持ちを受け止めてここへ来ることにしたんだと思うと裕美に拍手を送らずにいられない暢子だった。珍しくというより、あのバースデイの日以来、みんなの中にいるようになった河合が、幸太夫に指図されながら大きな荷物を運んでいた。

「裕美ちゃん結構荷物あるね」

「かなり片付けてきたんですけど、捨てられないもの多くて、ピアノ、ホールに置いてもいいですか?」

 って裕美が河合に聞いた。

「ああ、向こうの壁に着けて置くか」

「窓の横が良いんじゃないっすか、明るいし」

 安朗が割って入る。

「そうだな。じゃこっちどう?」

「はい、そこで。あの、時々は一緒に弾いてもいいですか?」

「ああ、良いよ」

 それ程無理した顔でもなく河合が答えた。

「わぁ〜嬉しい。私先輩と一緒にピアノを弾くの、ちょっと夢だったんです」

 と、無邪気にはしゃぐ裕美ちゃんに安朗が反応していた…暢子も少し…。

 あ〜困るなそんなの、私らしくもない。前途多難だ〜

 と、暢子はその辺の荷物をジャンジャン運んで気を紛らわした。此処に引っ越すことに決めた裕美の気持ちを思い、安朗の気持ちも察するものがありすぎて傍にいるのが辛かった。

 空き箱や紙くずを燃やそうと抱えて出てくると意外なお客が立っていた。

「どうしたの?」

「こんにちは」

 悟は照れくさそうに挨拶をした。

「よくわかったね。このアパート」

「暢子これも…」

 タイミングよく現れた理子に悟を紹介する。

「あ、前に言ってた山崎先生とこの悟君」

「あら、こんにちは」

 不思議そうな顔で理子も挨拶をした。

「こんにちは」

「どうする、入る?」

 どうしたら良いか悩みながら暢子は悟の顔と理子の顔を交互に見比べた。

「良いんですか?」

「そんなのかまわないよね」

「うん、どうぞどうぞ。ち、ちょっと引っ越しがあって立て込んでるけど下のアトリエなら静かでしょ」

 暢子と悟がアトリエに腰を下ろすと理子がお茶を持って来た。

「あ、どうぞ」

 悟は何処か歯切れの悪い感じだった。

「なに?どうした?」

「僕、絵を習いたいなって思って…」

「え?」

 暢子と理子は顔を見合わせた。

「絵って苦手だって言って無かったっけ。まあ、苦手でも勉強するのが悪いとは思わないけど」

「そうなんです。この前、絵苦手だって、そう言ったんだけど…迷ってるんです。僕もフランス行きたいなと思って…

 向こうに行ってなにか出来るように勉強しとこうと思ったら暢子さんのこと思い出して、相談出来たらと足が向いちゃったんです」

 そう言う悟の顔が、うつむきがちに見えた。

「なんでフランスに行きたいの?」

 横でお盆を持って立っていた理子が静かに腰をおろした。

「フランスに言ってる母がそろそろ帰ってくることになっていたんです。一年って父との約束でしたし、それが思ったほど成果が上がらないらしくて、もう少し向こうでやりたいと今月の初め連絡があったんです。

 父も母のことはとても寛大で凄いって思うんだけど、この頃生活に疲れてるような気がして、僕がいなかったらもう少し父も楽なんじゃないかと思うと考えちゃうんです。

 絵じゃなくても違う勉強でもと思ったんですけど、この際苦手とか言ってないでそっちもやってみようかななんて…」

 そう一気に話した。悟の気持ちも解る気はする。暢子には確かにあの時二人がわびしそうに見えた。

「お父さんに言ったの?」

「まだ、自分の気持ちが決まったら言おうかと思います」

 そう迷いながら話す悟に、

「お父さん、悟君いても大丈夫だよ」

 理子が口を挟んだ。

「え?」

 教授の事を気にしてる悟に理子が優しく言った。

「私いつも教授の事見てたから解るんだ。悟くんのこともお母さんのことも大切にしてるんだろうなって、そんなことで教授、弱音はいたりしないよ。

 悟くんがフランス行きたいならそれもいいけど、お父さんのことは気にすることないと思うよ」

「そうだよ。私もそう思う。そこは、悟くんの気持ちを大切にしたら良いと思うよ」

 人のせいにしないで自分の気持ちをちゃんと確かめるのは大人でも難しいことだ。悟はしばらく考え込んでいた。一人で迷っていたんだろうから無理もない。

 こんな二人の気休めがどれだけ通じたのか、その後明るい顔をして、

「又来ます。父のせいにしないで自分の事考えてみます」

 爽やかに言った。

「うん、待ってるから」

 そう言って悟は帰っていった。


「理子…」

「ん?」

「サンキュー、あんたいて良かったよ。私じゃ先生のことは解らない。どうした?」

「ううん、家庭って他人には解らないよ。先生のことも本当は解らない。でも、自分の事は自分の事として考えたほうが良いんだ。何かに躓いて悔やむ時、その方が良い」

 暢子と理子はアパートの外階段に腰を下ろしてダンボールを燃やした。静かな夕暮れの薄闇に、火の弾ける音が時々響いて、いろんな事が一度に切なくなった。暢子と違って日頃から口数の少ない理子は、このところいよいよ無口になって気持ちを確かめるのも一苦労だった。

 隣りにいる理子が何を考えているかわからないまま、二人で並んで火の揺れるのを見つめていた。

「安朗ドイツに行くんだって」

「なんで、裕美ちゃん引っ越してきたばかりじゃない」

「学年選抜。安朗優秀だから」

「そうか、それがあったか。切ないね」

 なんでと聞く理子にもそんなこと、理由は解っていた。

「一緒にいるのも愛だけど、一緒にいるだけが愛じゃない。お互いそこをどう埋めるかって、一生かけてやるんだなってこの頃思うのよ」

 暢子の静かな言葉に、理子が一筋涙を流した。

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