第10話 変化

 12月に入った最初の金曜日。暢子は午後から下里美術研究所に向かった。あの日以来10日ぶり、榎並の事を考えて思い出し笑いした。

 学校で会ったあの顔は、まるで暢子が山崎の後妻かはたまたワケアリか何かとでも思ったような、一瞬でも悟との関係を想像したような複雑な表情だった。

 地下鉄を降りて威勢よく歩いた。欲しかった本を探してデイスプレイで検索し、ずっと欲しかった線画のモチーフ集を手に入れて、意気揚々と並木の下を歩いて今回は迷わず町田ビルに行き着いた。時計を見るとまだ時間があったので近くの喫茶店にふらりと入った。

 ところが、考えもなしに入った喫茶店は、最近では珍しい画廊喫茶だった。

「や、凄い…」

 迫力のある絵に思わずつぶやいた。店の壁にはたくさんの絵が掛けられている。それが全部、裸婦だった。

「驚いたな。美術画廊みたいな店だ」

 暢子はゆっくりと絵を眺めながら角の落ち着ける席についた。

 キャンパスの中の裸婦は、それぞれ生活感があって活き活きしている。日頃暢子が提唱してやまないメリハリのある良い身体というのでもなかった。どちらかと言えばお腹がたるんだようなのもあるし、寸胴極まりないものもあるけれど、そういう事は関係ないほど堂々とした味わいがあって、良い絵だなあと思った。

 暢子は身体にも気を使っていて自信?みたいなものもあったけど、この絵の存在を思うと何かが違うなあと思わずにはいられない。今までやってきた裸婦モデル観のようなものが少し、少し、心のなかでおや?と疑問符を打った。

「ふうん、いいなあこれ」

「絵に、興味があるんですか?」

「あ、ちょっと」

 身体にとは言いづらい。

「さっきからずっと熱心に見ていらしたから、お好きなんじゃないかなって」

 店の女主人は60をいくつか超えた感じ。裸婦で溢れる画像喫茶が俗に映らない品の良い対応だった。

「この絵は誰が描いたんですか?」

 おずおずと尋ねると、

「父が描いたものもありますよ。父の友達が描いたものも、夫のものも…」

 婦人はゆったりと私の前にお水を置いて注文を待っていた。

「あ、コーヒーください」

 暢子は気もそぞろに注文した。

「はい、かしこまりました」

 婦人はニッコリ笑うとカウンターに戻った。乾いた音を立てて一杯分のコーヒーが挽かれる。壁面に並べたコーヒーカップから暢子に合いそうな絵柄を探していた。

 あの人の父親というとかなりな年だな。と思いながら壁の絵に釘付けになっていた。丸みを帯びた裸婦の体が優しくて、良いなあと思った。自分を顧みてもお腹は出てないし、胸の形も悪くはないけど、こういう存在感。女らしさは無いなあとため息を漏らしながら…

 考えてみれば暢子の裸婦観は元々男性誌に載るグラビアがお手本だった。自分の周りにそれ以外のヌードはなかったし、改めてこんなにたくさんの裸婦を眺める機会もなかった。

 モデルと言えばスタイルが良い。手足が長い。日常的な雰囲気の小柄な人をモデルと思ったことがなかった。裸婦デッサンのモデルをしている自分の認識がその程度だという、その事実に驚いていた。


「お疲れさまでした」

「あ、その辺でコーヒーでもいかがですか?」

 身支度を整えた暢子に章介が声をかけた。

「お忙しいんじゃないんですか。お構いなく」

「全然、この前学校で会えて、ようやく上がらないで如月さんが見れて良かったです」

「え?あれ、私だってビックリでしたよ。まさか学校の先生だなんて思わなかったから。今日どんな顔して来ようかと思ってました」

「いやあ、山崎くんのお父さんが大学の教授ってことは知ってたんですけどね。油絵見てるなんて思っても見ないもんだから、あの時ようやく認識したわけです」

 陽気な章介らしく山崎の父親が芸大の教授と聞いても怯む様子はなかった。

「素直な良い子ですね。悟君」

「そうなんですよ。あんまり絵は好きそうじゃないんだけど、明るくて、積極的だから助けられるんです。僕なんか学校出たばかりでしょ、子供のこともわからないし、人に教えるのもしんどいし、全く頼りない教師です。あ、待っててください」

 章介は車のドアを開けてエスコートした。あの時のストーブを積んでいた藍色のバン。

「はい。すみません」

「この辺に良い喫茶店あったかな?」

 章介の言葉に、

『あ!』と小さく心のなかで反応した。

 暢子は章介があの喫茶店を知ってるかなあと瞬時考えたが、あのおびただしい裸婦の中で章介と落ち着いてコーヒーが飲めるだろうか?まさか、と可笑しさをこらえながら、今は自分だけの秘密の場所にしておこうと口に出さなかった。

「僕ね、女の人とお茶飲むなんて滅多に無いんですよ。子供にもすぐからかわれちゃって。受けようと思っておもしろいこと、自分ではそう思ってること話しても『さむ~い』とか言われちゃって、なんか勉強たりないなあって気分です」

「真面目なんですね」

「そうですね。大学の時も遊ぶのがヘタで苦労しました。周りのみんなが強者って感じで、高校からそのまま推薦で上がった僕にとっては、浪人している同級生なんて初めは正直言って怖かったですね。情けないけど先生になりたいっていう意志がなかったら、かなり早い時期にめげてましたよ」

 同じような経験をしているらしい章介に益々好感をもった。

「良かったですね。目標失わなくて」

 当たり障りのない言葉を返す。

「でも、教師を続けようと思うと、もっと人生経験積まないとと思います。あ、此処にしましょうか。コーヒー美味しいと良いんだけどな…」

 章介は相変わらず豆だった。クルクルとよく動いてよく喋った。学校の先生になりたくてなったんだろうな。この人は…と思わせる貴重な人柄だった。

 暢子は先生だという章介の人柄に安心していた。学校の連中は男女の関係なく共同意識の塊で、集まってもまるで掴みどころのない話で盛り上がった。暢子もつい男のように振る舞う。媚びを売る必要もないし、自分をよく見せようとする場面もない。章介はまるで真面目を絵に描いたような男で、暢子もしおらしく会話する。しかし、お互いに立場をわきまえていて屈託のない空気にも適度な囲いがある。

 河合から告白されたばかりの暢子は、古風な考えとは思いながら他の人と馴れ馴れしくするのはどうかと考えた。章介から余計な好意を持たれないように距離を保とうとした。

「遅いから家まで送ります」

「そんな、良いです」

「気にしないで下さい。誘ったのも僕だし、車なら直ぐですから」

「そうですか、すみません」

「僕、月1回のデッサンとても楽しみにしてるんです。如月さんとも親しくなれたし、今まで苦手だと思っていた裸婦デッサンも描けてますし」

 章介は何処までも明るく、屈託が無かった。

「すみません。ありがとうございました」

「いやあ、引き止めてしまって、じゃあまた」

 私が車から降りるのを玄関から河合が見ていた。

「お帰り」

「うん、ただいま」

 二人は軽く言葉を交わしアパートに入った。


 暢子はあの日あの店で裸婦の絵を見て以来、気持ちが動いていた。それまで真剣に見たとこがなかったルノアールやモジリアニなどの絵を見たりするようになった。

 巷にあふれている裸の写真やAVなどのスチールを今までどう見ていたのか。裸と言えば整ったもの、締まったものみたいに思っていたけれど、女の人の身体とは、もっと違うように思えてきた。存在感のあるモデルになりたいとかそういうのでもなくて、自分自身がそうなりたいと、そんな風に思うようになっていた。

「ほらこれ、綺麗だよね色使いがさ。だけどルノアールの裸婦って結構太いよね」

「ミケランジェロだってかなり逞しいわよ」

 画集を広げる暢子をのぞきながら理子が言った。

「そうなの?」

「うん、筋肉もりもりだったり、しっかり肉がついてたり、男の人がモデルじゃないかと思う絵もあるよ。あの頃の美人は肉がある方が良かったのかな。日本でもそんな時代があるんじゃない」

「美人が時代によって違うんだね」

「そうそう最近はやたら細いのが美人になっちゃって、ダイエットしたりダンベルしたりするわけよ」

「ふうん」

「なに?絵の勉強してるんじゃないの」

 理子の疑わしい目線にハッとしながら、

「それもありながらよ。この前画廊みたいな喫茶店に入ったの。店の中裸婦だらけ、それが妙に印象的で、スタイル良くないし、ウエストだってないわけ、でも味があって良かったんだよね。女らしいっていうのかな。安定感があってさ、そういうの良いなあと思ったら、やたら気になちゃって」

 ついに白状してあの画廊の話をした。

「へえ暢子にしちゃあ、珍しいこと言うじゃない。身体鍛えて、体型キープしてってこだわってたのに」

 暢子の心境の変化に、理子も珍しく優しい声でそう言った。

「あ、それは、それよ。その体型崩すとかウエストのない女になりたいとか、そういうんじゃないの、もっと違う感じ」

「まあ良いや。ルノアールだってミケランジェロだって、私バイト決めたよ」

 理子は常に先を行っている。

「この前言ってた壁画の話?」

「うん、ひょっとしたら学校辞めるかもね」

「うそ、両立できないの」

「うん、失恋したし」

「失恋って山崎〜」

 自分が引き金を引いたみたいで罪の意識を感じる暢子に、

「うそうそ、そんな事で学校やめないよ。先生離婚してるんじゃないんだって。暢子が子供の学校に行ったって言うから、奥さんと別れて子供とふたり暮らしなのかなって聞いてみたんだ」

 さすが理子。落ち込んでガックリ来てるだけじゃない。

「先生に直接」

「ううん、庶務の村山さん。彼女ちょっとおしゃべりでしょ。探りを入れてみたの。そしたら…奥さんフランスに行ってるんだって、向こうの大学で絵の勉強やり直してるんだってさ。問題無く理解しあっての別居だよ。かなわないなあって感じ」

 絵の勉強でフランス…

「そっか〜」

 たいしたものだ。苦しみながら芸大生やってるのとはわけが違う。

「だから、覚君いじけても暗くもないわけね。そういう事情でくしくも父子家庭。先生心広いな。奥さんよっぽど才能あるのかな〜」

 フランスで絵の勉強に励む奥さんと、本の中の裸婦が重なって、奥の深いものを感じてしまった。

「ルノアールか…」

 理子も白旗降参なのか落ち着いた様子でそうつぶやいた。

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